第12話

通勤・通学時間を過ぎた住宅街は閑散としていた。各家の中では、主婦が掃除や洗濯でも始めているのかも知れない。先程登校した時と比べると、往来にある人目はずっと少ないように思えた。明は行きよりもかなり楽に自宅前へと戻ってくることができた。彼は車庫の前に自転車を停めると、そっと家の中の様子を窺った。

 今日は木曜日だから、母はパートの日ではないが、代わりに公民館へ行っている筈であった。時間は九時をちょっと過ぎた辺りである。明の母は少し前から、市の公民館で実施されているサークル活動に参加していた。なんでも、週に一回集まって絵を描いたりするサークルらしい。母の趣味に特別興味も湧かなかった明は、これまで詳しい話を訊こうとも思わなかった。

 今日は当該の日である。本来なら家族の誰も家には居ないはずの時間帯であった。

 明は庭の道具入れから鍵を取り出し、玄関扉の鍵穴にそっと差し込んだ。この鍵も、もとの上縞町とまったく同じ位置にあった。ガチャリ、と音を立てて扉は開いた。

「ただいま……」

 ぼそりと廊下へ向けて言ってみるが、当然返事は帰ってこない。誰も居ないと分かっていても、家の中で誰かが息を潜めて彼を待っているような気がして、つい言葉を発してしまうのだ。明は後ろ手で扉を閉めると、静かに家へ上がった。

 その時、靴箱の上に置きっぱなしになったままの父のスマホが目に入った。今朝方、忘れていったものだ。

 明はそれをおもむろに手にとって、ディスプレイを覗いてみた。画面の上部に、通話が可能であることを示すマークが点っている。ためしに自宅の電話番号を入力してかけてみると、家の中の固定電話がちゃんと鳴り出した。どうやら、この街にもともとあった電話はこの街で機能するらしい。父には悪いが、これは持っていくことにしよう。明は自らの携帯電話を取り出し、そこに入っている小野川の電話番号などの情報を父の携帯電話にも登録した。

 明は先程殴られた傷の具合を確認するため、再び洗面所へと入った。鏡に自分の顔を映すと、先程殴られた部分があざになっていた。今でもまだずきずきと痛む。頬や口元についていた血を水で流すが、内出血の起こっている部分は赤く腫れ上がったままだ。

 そういえば、昨日のテレビにはどういうふうに映っていたんだろう。

 明はふとそんなことを考えた。だがしかし、彼はすぐに自嘲的な気分になって顔を引きつらせた。こんな事になってまで、そんなことを気にする自分はどうかしている。

 明が傷の深い部分に絆創膏を貼り付け終え、早速、小野川に電話をかけてみる。しばらくコール音が鳴った後、声を潜めた小野川の声が聞こえた。

「はい、小野川ですけど?」

 周囲がざわついている。まだ火事騒動が完全に収束していないのか、幸い授業は始まっていないようだった。

「俺だ、明だ」

 その声を聞いて、息を飲む気配があった。彼がその場から離れているようだ。しばらくして、彼が再び応答した。

「無事だったか、ひとまずほっとした」

「さっきは本当に助かったよ、ありがとう」

「いや、いいって」

「ところで、会って色々と聞きたいことがあるんだけど、さっきみたいに学校に行くわけにもいかないし、どうすればいい?」

「俺も今日は早退するから、一時間したらウチに来い。ただし、くれぐれも慎重にな!」

「わかった」

 周りに人がいることもあり、手身近に要件だけ話して電話は切れた。明は小野川の態度に安心した。

 しかし一方で、少々気がかりなこともあった。さっきの井上の例にもあるように、明は今ひとつこの街の人間と感覚を共有できていないのである。それはこの街で他人と接点を持とうとする上で、大きな問題だった。この小野川と突き詰めて話をしていくことで、それが少しでも改善されるといいのだが。

 彼は学生服を脱いで私服に着替え、ポケットに父の携帯電話とその充電器、あとは財布を念のために持っておく。しかし、当面必要と思われるものはそれ以上何も思い浮かびはしなかった。サングラスなどの顔を隠すものも持っていこうかと思ったが、そんなものをこの街で自分のような歳の者がつけていればそれこそ視線を集めるだろうと思い、それも結局やめにする。自分の携帯電話はベッドの上に放り出しておいた。

 ふとそのとき、玄関の窓の外に一人の人影が見えた。男子用の学生服を着ているようだが、家の塀がきの陰に隠れてよくは見えない。

 小野川がこの家まで迎えに来たのだろうか?

 そう思って明が恐る恐る玄関の扉を開けてみると、その男の後ろ姿がそこからはっきりと窺えた。あの後姿は小野川のものではなかった。しかし、明にとっては酷く見覚えのあるものだ。

「……風早か?」

 明が呼びかけると、その男は驚いた様子でこちらを振り向いた。

 やはり、それは風早亮だった。ワックスで跳ね上げた髪の毛や猫背、後ろから見た時の佇まいなど、その全てに明は覚えがあった。

 明の姿を目にしたとき、当の風早はうろたえているように見えた。その際、彼は一瞬自分の顎や頬を触るような仕草を見せた。だが、すぐに明の方を向き直ると、その目は落ち着きを取り戻した。口元にはうっすらと笑みさえ浮かんでいる。

「風早。どうして、お前がここに?」

 明は首を傾げた。風早が明の家を訪れることなど、数年来のことだった。しかもこのタイミングで現れるなど思いもしなかった。

 明が彼に近寄っていくと、彼は明の顔をまじまじと見てにやついた。

「いや、お前が必死こいて学校から出てくるのが見えたんだよ。やっぱり家に帰ってたんだな」

 風早はそう言って表に停めてある明の自転車に目配せした。どうもその様子を見ていると、彼は明を嘲笑っているようだった。喋っている最中も、風早の顔には嗜虐的な色が浮かんでいる。

 嫌な予感が明の脳裏によぎった。

「俺が出てくるのを待ってたのか?」

「いやぁ、別に」

 そう言って、風早は再び笑った。

 明が不審に思って彼の表情を窺っていると、歓声のような声が聞こえた。右側の路上へ目を向けると、遠くでわらわらと動く大勢の人影が見えた。それは段々と近づいてきている。その全員の顔には、やはりあの翳がかかっている。

 明は凍りついた。あの連中が、この家までやってきたのだ。

 しかし、彼らは学校で明を追い回していた者だけでより集まっているのではないらしい。学生服を着ている者もいるが、私服の者も大勢いた。自転車に乗っている者もいる。また、路上に停まっていた数台の自動車からも次々と人が降りてきていた。

 彼らは明の姿を認めたことで、どんどんと進む速度を速めているようだった。

 明は血相を変えて自転車のもとへ駆け出した。しかし、その彼の腕を後ろから風早が摑まえる。

「じたばたしても遅えんだよ。ばーか」

 風早のそのあまりにも無遠慮な言葉は、明の胸中に燃えるような憎悪を掻き立てた。

「何でお前がこんなことをするんだよ!」

 明が風早を睨むと、彼は引き攣ったような笑みを浮かべた。

「お前が叩きのめされるところが見たいんだよ」

「放せっ!」

 明がその腕を振り払うと、背後にいた群衆はそれを見た途端に沸きあがった。

「諸橋が暴力を振るったぞーっ!」

 明は風早を振り切ってすぐにサドルに跨った。

 しかし、何か妙な感覚を覚えた。タイヤに目をやると、前後のタイヤがずたずたに切り裂かれているのが見えた。風早の方を振り向くと、彼は腕を組んで微笑んでいた。群集を呼び寄せたのも、このタイヤを切り裂いたのも、どうやらあの男の仕業らしい。

 悔しさが込み上げたが、しかし構っている暇はない。群衆がすぐそこまで迫ってきていた。明はパンクしているのも構わず、全力で群衆と反対の方角へ漕ぎ出した。思うようにスピードはでないが、それでもがむしゃらに漕ぐしかない。先程の学校の廊下に比べれば、遥かに逃げやすいことは確かだった。明は努めて冷静に、この先の道を頭の中で巡らせた。

 自転車で逃げる明を全力で追ってくる者は、群衆の中でも僅かだった。大半の人間……特に女性や年配の連中は、すぐに追うのを諦めたようである。問題は、自転車に乗っている人間と、全力で走って追ってくる人間であった。彼らは追跡することを楽しんでいるようであった。

 その時、前方の角からも自転車に乗った者が数名現れた。明は危うく彼らの伸ばす手を逃れ、脇をすり抜けた。彼らも急ぎ方向を転換する。

 ガタガタと上下に揺れながら走る明の自転車より、追ってくる人間たちの方が速いのは確実だった。明は追いつかれるのを防ぐために、あえて車通りの多い道へと逃げていった。明が選んだのは、家の裏手を走っている二車線道路であった。この道路は大通りとはいかないまでも、昼間からでも比較的多くの自動車が走っている。

 明はその通りへ出くわすと、歩道を飛び出して車線へ入った。そして、彼は意を決してそのまま道路の中央線の上を走ったのだった。

 これは半ば焦りが生んだ逃走法だったが、思いのほか効果はあった。明を追っている人間たちも何人かはつられて車道へ入ってきたが、車をかわすために彼らは明と並走するわけにはいかなかった。道行く車は当然、次々とクラクションを鳴らした。だが、明は構わずに道の真ん中を走り続けた。行き交う乗用車同士が両脇へ避けていくので実際に車が明に接触するようなことはなかったが、恐ろしさで足が竦みそうになった。思いつきでそのまま勢いに任せて始めたはいいが、走り続けるのは恐ろしく勇気の要る作業だった。自分のすぐ隣を、車が凄まじいスピードで行き交っていく。痛んだタイヤのせいで、時折ハンドルをとられそうになる。

 しかし、今更やめるわけにもいかない。現に、彼を追っていた者の大半が追跡を諦め始めている。

 さらに400~500メートルも走ると、自転車に乗っていない人間は完全に姿を消していた。今なお追っているのは、自転車に乗った2人だけである。

 明はそれを確認すると、その道から外れて再び路地の多い住宅街に入った。後ろの2人も彼の後を付いてくる。スピードはやはり彼らの方が上だったので、明はすぐに追いつかれてしまった。

 しかし、彼らが明を捕らえようと手を伸ばした瞬間、明は今度はブレーキをかけて自転車を急停車させた。2人の反応が遅れた隙に、明は自転車をその場に乗り捨てて近くの民家の敷地内へと入り込んだ。

 幼いころからこの辺りで遊んでいた彼は、この近所の住宅街に関しては、その構造の殆どを把握していた。

 “かくれんぼ”という遊びは、基本的に範囲を限定しなければ隠れる側が圧倒的に有利なものである。自転車を使ったおかげで、今では明を追跡する人間を2人にまで減らすことが出来た。こうなれば、彼らを撒いて逃げのびることはそれほど難しくない。

 明は民家の裏手を進み、塀を乗り越えて反対側の道路へと進んだ。後ろから2人もやや遅れて追いかけてくるが、明はすぐに彼らの死角へと走りこんだ。そして2人が反対側の道路へと出たときには、明の姿は彼らの見渡せる範囲から消えていた。

 明は、既に向かい側の民家の庭先に身を潜めていた。彼らがその辺りを探している隙に、民家の住民に気づかれないように注意しながらさらに家の裏手へと回りこんで、また塀を越す。これで完全にあの2人の視界には入らない筈である。

 明は背後に注意しながら彼らが追ってこないのを確認すると、慎重に周囲を窺いながらそのまま小野川の家へと向かった。

 

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