第五章 失敗

第17話

「うちの親には、お前のことは黙っておくよ」

 小野川はその場から立ち上がった。

「何か飲み物でも持ってくるわ。後でご飯も運ぶからよ」

 彼はそう言うと、部屋を後にした。

 残された明は一息つくと、両手を後ろについて足を投げ出した。話し通しでかなり疲れてしまった。無論、ずっと話を聞いていた小野川も同様であろう。部屋を去り行く彼の背は、休養を欲しているようにも見えた。

 明はようやくこれまでの大まかな出来事を小野川に語り終えた。

 自分の家に帰宅したはずが、扉を開けるとそこに階段があり、それを降ってこの街へたどり着いたこと。自分の知らない街のルールを、自分以外の誰もが常識として知っていること。そして、自分がこの街での唯一のターゲットであるらしいこと。

 その話を始めたときは、小野川は明がふざけていると思ったらしく、時おり戸惑いの混じった笑みを浮かべることもあった。しかし明の話しぶりから、彼がふざけているわけではないことを悟ったのか、次第に彼の表情は強ばるようになっていった。その視線は辺りを泳ぎ、不安げであった。時には、青ざめた表情で俯き、考え込むこともあった。

 明はそうした小野川の挙動を見て、彼と自分のこの街への認識を照らし合わせることが、今後の行動の鍵となるのではないかと考えていた。味方を得て行動の指針がはっきりしたことで、明はこの街に着いて以来、初めて前向きな気持ちが湧いてくるのを感じていた。

 ともかく、話すだけは話した。様子を見る限り、小野川はこちらの話を真剣に聞いてくれていたようである。明の顔に自然と笑みが浮かんだ。

 時刻は昼下がりを迎え、日差しの強さは最高点に達していた。部屋に敷かれたポリエステルとアクリルの安物カーペットに手を置くと、陽の光を受けて温まっているのが分かった。この部屋は周囲の家に日差しを遮られていない。逆に言えば、隣の家などからこの部屋が覗かれる心配がない。南と西側に大きな窓があったが、明が身を乗り出さない限り、ここから明の姿が発見されることはなさそうだった。

 明は部屋の中を見渡した。八畳ほどの広さに、ベッドや机、ソファや本棚、テレビ棚などが置かれている。明の部屋と殆ど内容は変わりない。異なる点といえば、暇をつぶせそうなものが彼の家に比べ少ないことぐらいだ。

 明が床に置いてあった既読の漫画を手に取って見ていると、小野川が戻ってきた。片足で扉を開け、両手には二つのコップを乗せたお盆を抱えている。

「今晩からそこのソファに寝てくれ。ベッドは俺のもんだ。俺が学校に行ってる間、この部屋は好きに使っていいけど、机の引き出しは開けんなよ」

 明は微笑みながら首肯した。

「小野川は明日からも学校に行くのか?」

「流石に俺まで行かないとばれる。お前がここに隠れてるって教えるようなもんだろ」

「それはそうか」

 明は腕組みをし、眉間に皺を寄せた。

「小野川。ところで本当に、暫くここにいれば騒ぎは収まんのか? さっきまでの話だと、俺以外にこの街で標的にされた人間は居ないらしいじゃないか。前例もないのに、どうしてこの先の予想がたつんだ?」

「それなんだよな。お前の話を聞いているうちに、ますます俺自身の認識も信じられなくなってきたってのが本音だよ。

 俺の感覚では、この世の中はずっとこういうものだった。ところが、お前の話ではそれが異常なことらしい。確かに、お前以外に誰も標的になったやつが思い当たらない以上、異常なことなのかもしれない。

 何よりも怖いのは、俺がそれを分かっていなかったことだよな」

 小野川は饒舌にまくし立てたが、その声は若干の震えを含んでいた。事態が深刻なのは、明にとってだけではないのかもしれない。

「おい、明から見てどう思う?」

 小野川がとまどいがちに言った。

「何が?」

「どっちの世界が本当なのかってことさ。階段を境にルールが違う世界が二つある。お前から見れば、お前がもと居た上縞町が本物か?」

「始めはそう思っていたけどな。ここで時間を過ごすうちに、だんだん分からなくなってきた」

「なんでさ」

「不自然に感じなくなってきたんだよ。少なくとも、ここが単なる幻ではないことが分かったんだ。自分の家とか、両親、お前は、もとの街とほとんど変わるところがないから」

 明はそう言って目の前の小野川を見た。

 小野川は、様々な感情が入り混じった顔で、言葉を幾つもかみ殺している。明にとって小野川という人間は二人存在するが、ここにいる小野川にはそんな認識はないのである。

「明にとって、最初はここが幻みたいに思えたっていうのか?」

 ようやく出たその小野川の問いかけに、明はゆっくりとした頷きで返した。

 明は当初この街へやってきたとき、この街が巨大な箱庭だと思っていた。ところが、両親や小野川の話を聞くと、どうやら街の周りが砂漠に見えるのは明だけらしい。街の住人にとっては、このいびつな街は正常に働いているように見えるのだ。彼らはそこで、彼らが通常と思い込んでいる生活をしている。無論、今の小野川のようにふとしたきっかけでこの街に違和感を覚えることもないとは限らないが、近日中にそんなことが街中で起こることはないだろう。矛盾と欠陥だらけでありながら、ここに現在住んでいる人間にとっては、ここがリアリティを持つ世界なのである。

 ただ、明はここでしばらく過ごすうちに、そんな彼らの影響を受け始めていた。時間をおけば、ここの生活にもやがては溶け込めるのではないかとさえ感じ始めたのである。たったの一日で。

「この世界のことをもっと知りさえすれば、生きていくのは思ったほど大変でもなさそうな気がする」

 明がそう言うと、小野川は憮然とした表情になった。

「それはそうだ。外国じゃないんだからな」

 明にとっては、ここはある意味で外国以上にもとの上縞町と異なった環境ではあったが。

 いつしか日も暮れ、時刻は午後の七時を過ぎた。

 小野川は夕食を摂りに階下に降りていき、明はその間、一人で小野川の話を整理していた。

 彼の話によると、街中が誰かを追う行為は恒常的に行なわれているわけではなく、非日常の部類に入るという。だから彼らは追跡を楽しめるのだ。しかし、この街ではその標的はきっかけさえあれば次々と変わるものらしい。明以外の誰かが新たな標的になりさえすれば、今ほど明は大変ではなくなるというのだ。もっとも、今のところ小野川は明以外に標的となった人間を知らないのだから、これは完全に彼の感覚に拠った話である。

 この話が本当だとすると、数日も経てば新たに誰かが街中を逃げ回ることになるのかもしれない。そのとき、自分はどうしているのだろうか。明は自分が顔を隠して追い回す側に立った姿を想像した。どうにも妙な心持がする。

 ちょうどそのとき、菓子パンをいくつか抱えた小野川が部屋に戻ってきた。

「おまたせ。今日はこんなものしかなかった」

 彼はどさどさとそれらを床に散らばらせる。

「ありがとう、十分だよ」

 明はそれらを掴み上げると、さっそく頬張り始めた。考えてみれば、今日は昼食も摂っていなかったわけだ。空き腹でいるときに、こうしてご飯が出てきただけでもありがたい。

 明が満足げに笑顔で食べているのを見ながら、小野川が口を開いた。

「ああ、そうだ。それとさ、明。忘れていたけど、今日はうちに水木さんが来る日だったわ。覚えてた?」

 明はその言葉にはっとして顔を上げる。

「そうか、今日は木曜日だったな」

 言われてみれば、確かにその日は小野川の家庭教師がやって来る日であった。同時に、この街がもとの街と完璧に同じリズムで動いていることを再認識させられる。水木がやって来るのは、午後九時のはずであった。もうじきその時刻だ。

「なぁ明。ついでだから、あの人にもお前の話を聞いてもらわないか? 俺一人よりも、もっと違う視点で事態を把握できるかもしれない」

「そうだな。多分、それはお前にとっても良いことだろ」

「もちろん、そういう考えもある」

 小野川は自分の考えが露見したときに鼻で笑う、いつもの癖を出した。

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