第10話

 朝の春風は心地良かった。

 ペダルを漕ぐと、幻灯機に映し出された影のように景色が流れていった。そうした街なかの香りは彼が前日までいた世界のそれと全く変わらなかった。

 学校に近付くにしたがって、街の喧騒は大きくなりだした。

 ここまでの道のりは比較的穏やかであった。この調子なら、何の問題も無く学校まで辿り着けそうである。

 ここはまだ表路地ではない。それでも車はよく行き来するが、さっきから既に何台も明の脇を通り過ぎている。車中のドライバーの表情はあまりよく見えなかったが、彼らが明を気に留める様子もなかった。

 家を出て以来、言い知れぬ不安と闘っていた明だったが、同時に彼の警戒心は次第に薄れ始めていた。さっきからまるで危険な気配が無い。家からここに来るまで数人の人間とすれ違ったが、誰もこちらを襲ってくる気配は無いし、その顔が陰に塗りつぶされていることもなかった。中には、こちらを見ようともしない人間もいた。

 明は自転車を停めて周囲を見渡していた。

 確かにここはもといた上縞町とは違う世界だが、そこまで自分が過敏に警戒する必要はないのかもしれない。

 だがその時だった。彼の自転車に向かって何かが飛んできた。放物線を描いて、くるくると回転しながら飛んでくる。

 それが何か頭が認識する前に、反射神経が働いた。彼は手を翳して目を閉じた。

 だが、その物体は彼の自転車のカゴに命中し、地面に転がった。全く重みの無い音が聴こえた。衝撃は殆ど無い。

 目を開けて物体を確認すると、それは500mlペットボトルの空き瓶だった。コロコロと音を立ててアスファルトの上を転がっている。

 それが飛んできた方向に目をやる。そこに立っていたのは、あの、顔の無い人間だった。

 明は慄いた。目の前に再び、あの奇怪な様をした人間が現れたのだ。それも、昨日の男とはまた違う人間のようだった。

 顔面が黒そのもの。それは朝の日差しを浴びているにも関わらず、昨晩の男と全く同じようにその顔を覆いつくしている。背丈は明よりもずいぶん低く、少し太り気味の体格だった。その髪型や服装から、相手は中年の女性と判断できる。

 明は自転車で逃げ出すことも忘れ、その女を見た。

 やはり、その姿は見れば見るほど不気味そのものだった。

 動物的な本能がそれを拒んでいるように、彼女の放つ不自然さは神経を圧倒した。異常は絵画や映像の中に棲むからこそ飼いならせる。だが、生理的に受け付けたくないその存在は、一切の境界を挟まず目の前で動いているのだ。干渉可能な同じ空間に存在しているのだ。

「モロハシアキラくーん!」

 女は突然、近所中に聞こえるような大声でこちらの名を呼んだ。明はぎょっとした。あの中性的な、機械が喋っているような声だ。

 その女の後ろにも一人、若い主婦らしき人物が居たが、こちらの顔面は黒に染まっていなかった。その彼女が今の大声でこちらを振り向いた。

 次の瞬間、明はさらに全身から血の気が引く思いがした。こちらを見るなり女の表情が見る見る黒く変色していくのが見えたのだ。

 彼は急いで自転車を漕ぎ出した。背後から聞こえる不明瞭な荒声。それは彼の耳には罵り声のように聴こえた。マスクは効果がなかったのだろうか。

 全力で自転車を漕ぐうちに彼は息がつまり、役立たずのそのマスクを剥ぎとった。彼はちらりと後ろを振り返ったが、彼女らに追いかける気はないようだった。

 最初にペットボトルを投げてきた方の顔は見えなかったが、その後ろの方にいた女は顔が見ることが出来た。だが、彼女にはまったく見覚えが無い。やはり彼らは明の知り合いでもなんでもなく、その上でこちらに敵意を持っている存在なのだ。

 きっと学校へ行けば、友達が力を貸してくれる。明はそれだけを頼りに、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。

 可能な限り信号のある通りや人通りのある道を避け、明は何とか学校の目前へたどり着くことができた。少々の遠回りはしたが、誰とも顔を合わせないよう常にかなりの速さで進んできたので、時間に余裕はあった。学校の方を窺うと、登校している生徒の姿がちらほら見受けられる。

 明は人の流れが途切れたときを見計らって、自転車を漕ぎ出した。前を歩いている人々を何食わぬ顔で追い越し、学校の中の駐輪場へと入る。周囲では続々と生徒が登校していた。女の子が友達同士で声をかけ合っていた。明はなるべく目立たぬように、急いで奥の方の隅に自転車を停めた。

 やっと学校に到着できた。

 明は呼吸を整え、ふっと溜息をついた。しかし、このままコソコソと人の目を避け続けているわけにもいかなかった。とりあえず二年生の教室のある二階まで行き、知り合いの誰かと接触したい。もしかすると、やはり知り合いの家へ直接行って待ち伏せればよかったのかもしれないとも思ったが、学校へ来た方が同時に複数の友人と会えるというメリットもある。学校という同じコミュニティの人間に対して、妙な安心感も抱いていた。

 明は駐輪場の影からその身を出して、校門や生徒玄関の様子を窺った。今のところ、顔が消失した人間の姿は見られない。

 まだ学校の始業ベルが鳴るまで幾らか時間がある。校門を抜けてくる生徒の数はまだそれほど多くはないようだった。眠そうな顔をして歩いてくる者、部活動の道具を背負って来る者など、昨日まで当たり前のように目にしていた人々の姿が、今日も目に入る。奇妙な感覚だった。

 辺りを見回していると、明は知らない人間があまりに多く居ることに改めて気づかされた。確かにこの街に住んでいる人間はもとの上縞町にも住んでいた人間なのだろう。しかし、顔に見覚えのある生徒は何人かいるが、彼らがどこのクラスの何という名前の人物か、明は殆ど知らない。これだけ多くの人間が集まっているのだから当然といえば当然であるが、学校へさえ来ればどうにかなるだろうという楽観的な考えは、この時点で彼の頭の中からも消えかけていた。

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