第三章 ひとり
第9話
左頬に暖かな枕の感触を感じた。
明はうっすらと目を開けた。瞼を通して、眩い朝の光が瞳の奥に入り込んでくる。彼は顔を顰めて、布団の中で寝返りをうった。布団の生地との摩擦が心地良かった。もう少しだけ眠っていよう。
だがその時、彼の頭の中に迸るように眠りにつく前の記憶が呼び起こされた。
暗闇を照らす降り階段、街を取り囲む広大な砂漠、変わり果てた犬……。
その事態について考え始めたとき、明は慄然とした。すぐさま布団を剥ぐって飛び起きた。思わず部屋の中を見渡す。次第に記憶がはっきりとしてくる。
そうだ、ここはいつも自分が寝起きしていた上縞町などではない。彼は一気にその身に起こった昨日の出来事を思い出した。
事態が飲み込めてくると共に、冷ややかな恐怖が心の奥に湧いてくる。彼は昨晩の出来事を思い出して身震いした。
頭部を翳に包まれた人間。
自分は昨夜、あの男に襲われたのだ。向こうはこちらのことを何故か知っていて、一方的に暴行をはたらいてきた。現実のものとは到底思えない光景だった。
明は身を起こして窓の外を眺めた。日は既に高く上っていて、西の方へと短く影を作っていた。街の様子は穏やかだ。まるで、昨日の夕方からの体験が嘘であったかのように。遠くの道路を車が走っていく音が聴こえる。家の前の道に目をやると、老人が一人で散歩しているのが見えた。その顔の部分には、昨晩見たような翳は見当たらなかった。
ここまではいつもの朝と何ら変わりない。だが、ただ一つ平常から外れた異音が彼の耳に突き刺さっていた。
ざらついたような、掠れたような不快な高い音がいくつも聞こえる。不規則かつ断続的に続く耳障りな高音の嵐。それを発しているのは、屋外の電線に止まっている雀たちだった。
明は窓の方へと身を乗り出した。それが雀であることはシルエットから明らかなのだが、やはり姿は彼が知る雀のそれとはかけ離れていた。頭は粘性の物体のようにいびつに下へ伸びており、嘴は奇妙に大きかった。更に、近所のごみの集積所の周りに屯しているカラスと思しき黒い鳥も、いびつなガラガラ声を張り上げていた。
やはり夢ではなかった。ここは砂漠の中の上縞町なのだ。
明は心臓の鼓動が高鳴るのを感じていた。先程までの眠気など、一気に吹き飛んだ。彼は急いで身支度を済ませると、緊張した面持ちで階下へと降りていった。
部屋を出る前に時計を確認したが、まだ七時前であった。この世界の暦が明のもと居た世界と同じだとすれば、今日は木曜日だ。平日のこの時間、通常ならそろそろ起きだして学校へ行く支度をし始めている頃である。
階段を降りきると、台所の方面から母が朝食の用意をしている音が聞こえてきた。それならば恐らく、父はその傍らでニュースを見ながらコーヒーでも啜っているのだろう。毎朝目にする、ありふれた光景だ。
この街ではそこに存在する異常などお構いなしらしい。人の基本的な行動様式はそのままなのだ。それならば、この街もいつもと同じように動き、人は会社や学校へ向かうということだろうか。もとの上縞町で皆がそうしていたように。
彼はそのままゆっくりとリビングの戸を開け、室内に足を踏み入れた。周囲を見回すが、そこにはやはり住み慣れた我が家の朝の景色が広がっていた。テレビ番組やダイニングテーブルの上の朝食など、全てが全て昨日までと同じだ。
その時、キッチンの方から母の声がした。
「おーい、起きてきたの? ご飯できたよー」
明は混乱した頭で生返事し、言われるままテーブルへと向かった。予想通り、そこには一足先に食事を終えてコーヒーを飲む父の姿があった。
「おはよう……」
明はなるべく自然な様子をとり繕って言った。その場に居た二人の顔が一度にこちらを向く。二人とも特に変わった様子はなかった。
「おはよう。明、そこの茶碗にご飯をもってよ」
母がそう言ってテーブルの端に積んであるご飯茶碗を指差した。母の様子は、今朝も変わったところはない。その仕草も、言葉の内容も。
明は言われるままに電子ジャーの蓋を開けて、機械的に自分と母の分の盛り付けをした。その間、彼は半分放心したような目つきになっていた。
盛り付けを済ますと、彼はどっかりと自分の席に腰を下ろした。
「それじゃ、いただきまーす」
母が箸を持って手を合わせた。父は無言でコーヒーを啜っている。
そんな二人をよそに、明は依然ぼんやりとしたままだった。
「どうしたの、明? 早く食べなさい」
「ん、ああ。うん」
そう言われてやっと箸を持った明だったが、依然としてその手は動かないままだった。視線が時折部屋の中を彷徨い、戻ってきたかと思うと今度は暫く父や母の顔を見つめだす。それからまた時間が経つと、再び辺りに目を向けた。
こんなことを数回繰り返している間に、母の茶碗に盛られた米は無くなりかけていた。一方、明の前に並んだ食事は全く減らないまま冷たくなっていく。みそ汁のお椀からはもう湯気がたっていなかった。
すると、とうとうこちらを見ていた母が呼びかけてきた。
「ねぇ、ぐずぐずしてると遅刻するよ。具合でも悪いの?」
様子のおかしな息子を心配するように、母はじっと明のことを窺っている。
「遅刻……」
明はぽつりとその言葉を繰り返した。母は依然、首を傾げてこちらの顔を覗き込んでいるが、明はそんなことにはお構いなしに自分の頭の中を整理しようと必死だった。
目の前の母は、彼が当然学校へ行くものとして話している。
その時、じっと黙っていた父が口を開いた。
「まぁ、今日ぐらいは休んだっていいだろう。いや、事情が事情だし、今週いっぱいは休んだっていい」
「え、どういうこと?」
母が聞き返すと、父は「お前もすぐに分かる。いつものあれだよ。明はよく分かっているだろう。休んでもいいんだからな」とだけ告げて、席を立ってしまった。
母にはその意味がよくわかっていないようだった。もちろん、この世界の事情が分からない明にも、分かる筈がない。“いつものあれ”とはなんだ。
言うべきことが見つからず、取り繕うように明は顔をあげて訊いた。
「ねえ、今日は何日だったっけ?」
母は不思議な顔で、壁に掛かったカレンダーに目を遣った。
「えっとね……今日は、五月十一日だよ」
やはり思ったとおりであった。明は無言で何度か頷き、やっと一口ごはんを口に入れた。一方、母はそんな息子を見て訝しむだけである。
この世界は一種のパラレルワールドか何かなのだろう。
あの階段を降った、昨日の日付は五月十日だ。この街では現実と並行した時間の流れ方をしているのだ。
問題は、この街の人々がここで平然と暮らしているという事実である。
奇妙な動物が生き、砂漠に囲まれた街で、目の前の父も母も平然と朝食を摂り、挙句に明が遅刻するなどと言う。これは明らかな異常である。息子の遅刻を気にする以前に、もっと心配しなければならない問題がある筈ではないのか。
あんな砂漠に囲まれた街で、人間が暮らしていける筈が無いのだ。
「ねぇ、母さん」
「なぁに?」
明は慎重に一呼吸おいて言った。
「今朝は、やけに雀の声がガラガラうるさいみたいだけど?」
彼が母の顔を覗き込んでいると、彼女はこちらの予想に反して酷くあっさりと答えた。
「そう? いつもあんなもんじゃない」
「え?」
明は言葉に詰まった。答えた母はまるで幼児のように無垢な目だった。だがその台詞は、やはりこの状態が明以外の人間にとっての“普通”の状態らしい。
母が奇異の目でこちらを見つめている。彼は何とか言葉を紡ぎ出した。
「……それじゃあ、街の周りが砂漠なのは……」
母は暫く黙った後、明の目をまっすぐ見ながら言った。
「ちょっと、あなたの言っている意味がよく解らないんだけど」
またしても、困ったのは明だった。
「意味が解らないって……」
その言葉を最後に、双方はそれ以上の言葉を失った。気まずい沈黙が場を制した。
この世界の住人はどこからどこまでを当たり前の事と捉えているのか、明にはさっぱり判断がつかないままだった。動物の姿が違うのは当たり前で、街が砂漠に囲まれているのは認識していないということなのだろうか?
母の表情はさっきにも増して不可思議さを表している。嫌な緊張感が喉の奥に満ちてきた。明は汗ばんだ両手の平を、太股部分のズボンの布で拭った。もはや、こちらがおかしなことばかり口走っているという風に見られていることは明らかだった。
明はすぐにそこで会話を打ち切ることにした。これ以上向こうに不思議に思われると、ここに居づらくなりそうな雲行きだ。
「ごめん、まだ寝ぼけてるみたい。なんでもない」
明はそう言って無理やりにその遣り取りを終わらせた。だが、母は全く納得のいっていない様子だ。眉間に皺を寄せ、じっとこちらの顔を覗き込んでいる。明は構わず、冷たくなり始めたご飯をかきこみ始めた。
明は悩んだ末に、結局学校へ向かうことに決めた。
さっき学生服のポケットに入ったままだったスマホを取り出してみたが、そのディスプレイには相変わらず圏外の文字が入っていた。出来ることならこのまま家を出ずに、信頼できる誰かに連絡をとって助けを請うのが一番だったのだが、今のままではそれもできないようだ。友人の家へ直接行くという選択肢も頭をよぎったが、奇妙なことに、母と会話しているうちにこんな状況下でも日課をこなし、平常を振る舞うことが至極重要であることのように思われた。
彼は洗面所へ入るとまずは顔を洗い、続いて寝癖のできている部分に水を付けて髪をそれなりに整え始めた。こんな時に髪の毛を気にするのもまったくおかしなことだが、家の外へ出て普段通りに振舞おうとする以上、寝癖をそのままにしておくわけにもいかないだろうと思ったのだ。水をつけただけではまた元に戻る気がしたので、結局ドライヤーで撫で付けてからヘアワックスを付けることにした。茶色がかったその纏まりの悪い毛先を、指で摘んでは散らす。しかし鏡に向かって髪を弄っていると、自分の事ながら滑稽な気持ちになった。
水や電気、食事やワックスに至るまで、物質的な面ではここはもとの上縞町と変わらないようだ。それらがこの街にどこからどう供給されているのかは依然、全くの謎であるが。
家の中は一通り見渡したが、“欠陥”らしい欠陥は見当たらなかった。しかしそれでは何の手がかりにもならない。昨晩の恐怖もあるが、このままここにいても埒があかないのは確かであった。
加えて、彼の中に誰かに助けを求めたいという強い衝動があった。
小野川や、井上達はどうしているだろう。自分を助けてくれるのだろうか?
ここに来て以来、明は孤独だった。どこの誰を信用して良いのか解らない。半日ほどのこととはいえ、心の安まる時が無くなったようで、精神的にどんどん消耗している気がした。今は、自分の身を案じてくれる仲間が必要だった。
洗面所を出ると、父が家を出ていくところだった。スーツに身を固めて、今日も車に乗って会社へと向かうのだ。玄関を出ていくとき「行ってきます」とぼそりと告げて、彼は車のキーを指に引っかけて歩いて行った。明はそんな父の背を見つめながら、複雑な思いで「行ってらっしゃい」とだけ言ったのだった。
ふと、明は玄関の靴箱の上に父のスマホが置き忘れてあることに気づいた。だが、明は父の後を追ってあれを届ける気にはなれなかった。湧き上がってくる不気味さがあった。なにしろ父の会社は、上縞町の外にあったのだから。
上縞町の周りは砂漠が広がっている筈なのに、父は一体どこへ向かったんだろう?
去りゆく父の背を見つめながら、彼はそれだけを考えていた。いつの間にか、両腕には鳥肌が立っていた。
幸か不幸か、彼の学校は上縞町の中にある。そして、小野川達の家も上縞町内だ。
彼は靴ひもを結びながら、表に出る覚悟を決めた。不思議なことに、昨日はあれほどこびりついていた砂がすっかり落とされていた。
傍らに置いてある鞄を掴んで立ち上がる。ペインティング加工がお気に入りの黒いリュックサックだ。中には先ほど母から渡された弁当と、最小限の筆記用具やルーズリーフが入っていた。
これはもと居た上縞町から持ちこんだ鞄だった。
この鞄をはじめ、明の着ていた学生服や昨日履いていた靴など、向こうからこちらに持ってきた物だけは不思議とこの家に存在しなかった。だから同じ鞄が二つ存在するということは無いし、学生服もこの汚れた一着だけである。押入れにスペアが一着入ってはいるが、それはむこうの世界にもちゃんとあった代物だ。今来ているサイズよりも幾分小さい、全くの別物である。携帯電話が使えないことも、このことと関係があるのかもしれない。
明本人を含めて、この家に重複する物は見当たらなかったのだ。この世界の母が並んだ二組の同じ靴を疑問に思うことにもならなかったし、明が明本人を迎え入れるような事態にもならなかった。
だからこそ、明が着の身着のままこの家に辿り着いても、何の違和感も無かったのだ。
そして恐らく、明がやって来たことでこの街はやっと欠損の無い、完全な模造品となった筈だ。
この様子なら、明が登校しても周囲はそれが当然のような反応しかしないだろう。
明はドアノブを捻ってゆっくり扉を開いた。隙間から日中の光が差し込んでくる。彼は少々の眩しさに顔をしかめた。
外は実に穏やかだった。朝の光に照らされた玄関のアプローチ、庭に並んだ木々、閑静な街路。まさに平穏を絵に描いたような光景だ。空は晴れ渡っていて、雲は殆ど見当たらない。
彼は振り返り、家の中に向かって「行ってきます」と静かに言うと、恐る恐る外へ踏み出した。
家の外の道路を、自転車に乗った初老の男が横切っていくのが見えた。彼がふとこちらを見る。明はとっさにしまったと思ったが、目が合った後、彼は何事も無かったように再び前を向いてそのまま通り過ぎていった。その表情には、例の翳は欠片も見受けられなかった。
先程部屋の窓から見た老人と同様、これは明にとっては嬉しい発見だった。外に出ることに対する最大の恐怖が、昨日の黒い顔をした男の存在だったのだ。だが街に住んでいるのは、顔の見えない人間ばかりではない。彼の両親のように、普段通りの状態の人もいるのだ。それが判っただけでも少しは勇気が湧いてきた。
彼は一度家のなかに戻り、念のためマスクを着けた。どれだけの人間が明に向かって昨晩のような振る舞いをするのか分からないが、面と向かって明だと認識しない限りは襲ってこないに違いない。昨晩の男がそうであったように。
明は普段、自転車で登校していた。昨日の夕方もそれに乗って帰宅し、車庫にしまっておいたのだ。大したスペースも無い車の隣の空間に停めているのを、父がいつも愚痴っていたものだ。
彼は今朝も、それを使って登校するつもりでいた。当然、自転車の模造品もそこにあるものと思っていたのだ。だが明はいざ車庫の前に立ってみて、数秒の間固まることとなった。自転車が無い。
父が車を出すときにどかしたのだろうか。そう思って周囲を調べてみるが、やはり彼の自転車はどこにも見当たらない。彼は首を捻った。
「変だな……何で自転車だけが無いんだ?」
これは始めての欠陥である。ここには自分が持ってきたもの以外、全てが揃っていると思っていたのに……。
しかし余り考えている時間は無かった。ぐずぐずしていると遅刻してしまう。
車庫の奥には汚れた布を被ったもう一台の自転車があった。そういえば、母がだいぶ前に購入して以来、ろくに使われていない自転車があったのだ。サドルについたほこりを払ってまたがると、彼は学校へ向けて出発した。彼の学校は自宅から西にずっと行ったところに位置しているため、通学はほぼ一本道である。間に日実洲河が流れており、橋を渡ってすぐのところが彼の学校だ。
橋に近づくまではずっと裏路地を行けばいい。そこまでは人通りも少ないし、暫く安心な筈だ。彼は黙々とペダルを漕いだ。
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