第8話

 廊下の奥の部屋からは明かりが漏れていた。鈴原茜は家の階段を上りきって初めて、そのことに気がついた。それは弟の陽介の部屋であった。暗闇の中でドアの隙間だけがくっきりと浮かんで見えている。先ほどまでは部屋の電気は消えていたのだが、いつの間にか彼は帰宅していたらしい。

 茜はしばらく思い悩んだ末、その部屋の扉をノックした。

「ねえ、帰ってたの?」

 中からは何も返事が無い。しかし構わずに茜は続けた。

「ただいまくらい言わないと、お母さんが心配するじゃない。どうしたの?」

 すると、少し間を空けて部屋の中からくぐもったような声が返ってきた。

「いいから今は放っておいてよ。後で降りていくから」

 どうも彼の声の調子がおかしい。不審に思った茜は、まさかと思い大声で訊いた。彼女には思い当たる節があった。

「あなた、また彼に会ってきたの?」

 部屋の中の陽介は再び押し黙った。

 暫く悩んだ後、茜はそっと部屋の扉を開けた。

「入ってくるなよ! もう、構わないでよ」

 陽介のすがるような声が聞こえた。だが茜は構わず、ゆっくりとドアの隙間から顔を覗かせる。

 陽介は部屋の隅にあるベッドに突っ伏していた。両腕を組んで顔をうずめ、そこから責めるような目で茜の方を見ている。不快感を露わにした鈍い視線だった。茜は彼の了承を得ずに部屋に入ったことに対する後ろめたさから、自然と足元へ視線をそらした。

 床には彼の外行きの服が脱ぎ散らかしてあった。見れば、シャツやズボンのところどころが不自然なほど汚れている。茜はその中に、明らかに靴裏の痕と思しき汚れを見つだした。

「ねぇ。また、なの……」

 茜は陽介の方に視線を移した。すると彼は寝返りをうって壁の方を向いてしまった。

「行かないともっと酷い目に遭わされるんだよ。どうしようもねえんだよ」

 低く、うめくような声だった。

「このままでいいの? やっぱり学校とかに訴えて……」

「それができたら苦労はないさ! あいつがそれを聞きつけたらどうするんだよ? 俺を放っておくとは思えないね」

 陽介は今一度振り返って彼女を睨みつけた。その顔には紫色のあざが浮き上がっている。茜は胸が痛んだ。それでも彼女は、彼のために何かを言うしかなかった。

「でも、相手がどこの誰かは分かっているんだよ? あなたが言えないなら、あたしが相談所とか警察に言うよ。〟諸橋明が、これこれこういう事をしています〟って」

「頼むから、余計なことはしないでよ。万が一あいつにばれたらどうするんだよ!」

「じゃあ、ずっとこのままで良いって言うの? お金だって、そのうちもっともっとせびられるに決まってるよ」

 茜の言葉に陽介は耳を閉ざした。彼は布団の中に潜りこんで震えるような声で言った。

「いいから、今は放っておいてくれ。とにかく、もう出て行けよ!」

 茜は仕方なく部屋を後にした。扉を後ろ手で閉めてため息を吐く。

 彼女は自分の中でふつふつと怒りが沸きだすのを感じていた。

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