第7話

「鈴原? それって、同じクラスの?」

 明がきょとんとした顔で訊いた。向かいに座る小野川はこっくりと頷く。

「そうそう、その鈴原さん。同じクラスの女の子のことぐらい、覚えてるだろ」

 明は腕組みして暫く考えるが、かろうじて顔が思い浮かぶくらいで、それ以上は彼女に関するイメージは浮かばなかった。

 そんな明の様子を見て、小野川は小さくため息をつく。

「張り合いがないなぁ」

 窓際の席からはほの暗い町並みが見えた。さっきよりもはっきりと、窓ガラスにこちらの姿が映っている。完全に日が没すれば、この窓は鏡台の代わりにでもなるかも知れない。

 彼らは当初の予定通り、駅の南にあるカレー屋に既に到着していた。今は注文を終えて、メニューが運ばれてくるのを待っている最中である。

 小野川は手元の水をひと飲みし、テーブルに置いてある容器から水をつぎ足した。コップの中の氷が涼しげな音を立てて踊る。コップの表面についた結露が纏まって、冷ややかに指先を滑り落ちた。

「俺にも注いでくれい」

 そう言って向かいの席から明がコップをよこす。小野川は「あいよ」と答えながら、明のコップにも水を注いでやった。容器の傾け方が悪くて、氷ばかりが大量にコップの中へと注がれていく。ぼちゃぼちゃと水が跳ねると、明は苦い顔をした。

 店内は家族連れやカップル、あとは少数の会社帰りの男たちで賑わっていた。鼻腔をくすぐるカレーの香りが、暖かな空気に混じってここまで漂ってくる。テーブルに載っているのは、今のところ水と調味料と、あとは福神漬けだけであるが。

「それで、鈴原さんがどうしたって?」

 明がテーブルに跳ねた水を拭きながら尋ねた。

「いやいや、それがね。さっきボーリングをしている時に、須藤から聞いたんだけどさ」

 小野川はにこにこと楽しそうに微笑んだ。明は何の話か分からず、首をかしげる。

「最近、何か気づいたことはないか? 鈴原さんのことで」

 そう言って小野川は明の顔を窺った。

「鈴原さんねぇ……。あの人とはあんまり親しくないからなぁ。分からないよ」

 明は興味がなさそうにコップを弄りながら言った。

「それで、その人がどうかしたの?」

「須藤の言葉によると、あの子は最近、絶えずお前のことを見ているらしいよ」

「ん? どういうこと、それ」

 明は一瞬きょとんとした顔をした。そんな明の様子を見た小野川はふっと鼻で笑い、

「いや、別に。ただそれだけなんだけどね」

 と言ってさっさと窓の外に視線を移した。

 明にとってはさっぱり身に覚えの無い話だった。

「鈴原さんが? そんなの全然気づかなかったけどなぁ」

 明は必死に彼女の教室での姿を思い出そうとした。長い黒髪、陰鬱な印象の長いまつげ、痩せた……おぼろげにそれらのイメージが浮かぶだけで、彼女の表情までは思い出せない。彼女はどんな視線で人を見るのだろう。いくら考えても、明の頭に思い浮かぶのは冷たい印象を残す、彼女の俯きがちな瞳だけだった。

 しかし、取り敢えずこの話は前向きに捉えておくことにした。ろくに話したことのない女の子とは言え、嬉しい気持ちはある。あまりに突然の話で、さっぱり実感が湧かなかったが。

「なんで須藤はそれに気づいたんだろ」

「さあ……」

 その時、やっと注文したカレーがテーブルにやってきた。ウェイターが両手に持った大きな皿を、ゆっくりとした動作でテーブルに載せる。コトリという音と共に、二人の前にうっすらと湯気が立ち上ぼる。

 食欲をそそる香りが漂ってきた。途端に口の中で唾液が溢れ出す。

「よし、よし。そっちにあるスプーンと福神漬けを取ってくれ」

 明が指でそれらを指し示す。小野川は手早くそれらを渡すと、自らもスプーンを取って皿の中で広がるルーとご飯を混ぜ合わせた。

「そんじゃ、いただきますか」

「うーい。いただきます」

 言うが早いか、二人は少し早めの夕食にありついた。スプーンを白いご飯の中に突き立て、そのままルーを掬い取って口へ運ぶ。口の中で、カレーやご飯と共にほぐれたジャガイモや甘い人参がとろける。うまかった。二人は暫し無言でがっついた。

 そうしている間に、店の中も次第に本格的な賑わいを見せ始めた。二人の耳に、方々から零れた無数の言葉たちが舞い込んでくる。

 店内はまばゆい明かり。それとは対照的に窓の外は刻一刻と漆黒に染まり、通りを行く車群のライトが明々と闇に浮かび上がる。街の表情は完全に夜のそれとなっていた。

 暫く食べ続けていると、小野川はふとある事を思い出して、スプーンを動かす手を休めた。指先で口周りのカレーを軽く拭って、口に入れる。そして一息入れた。

「どうした?」

 明が不思議そうに彼の方を見た。向かい合う二人の間を、二つの湯気が揺らぎながら上っていった。

「そういえばこの間、水木さんがお前のことを聞いてきたよ」

「水木さんが?」

 明もスプーンを動かすのをやめて、小野川の話に耳を傾けた。

「諸橋くんは、最近元気かってさ。まぁ相変わらずだって言っておいたけどね」

「水木さんかぁ……そういえばもうずいぶん会ってないな」

「今年からは週に2回来てもらうようになったんだ。だから去年よりは会える機会が多いんじゃないかな」

「週2で家庭教師か。がんばってるねぇ」

「どうなんだろ。俺は水木さんが来る時以外、家でほぼ勉強なんてしてないし」

「俺もまたお世話になるかも知れないし、よろしく言っておいてくれよ」

 去年の期末試験の時期に、明は小野川の家へ行って彼に英語を教えてもらったことがあった。水木と明はそのとき以来の知り合いである。彼らは一応、互いに電話番号も教えあっていたが、これまで実際に連絡を取り合うことまではしていなかった。

「小野川と水木さんは、かれこれどれくらいの付き合いなんだ?」

 明が再びカレーを口に運びながら訊いた。

「そうだなぁ、俺が中三のときから家に来てもらってるから、かれこれ三年目かな」

「大学生の家庭教師にしちゃあ結構長いな。しかも、中学と高校をまたぐなんて珍しいんじゃない?」

「昔は家庭教師の派遣会社を通して来てもらってたんだけど、高校に受かってからは個人的な付き合いだよ」

 話を聞いているうちに、明は水木に教えてもらっていた頃のことをあれこれと思い出していた。蒼白な顔ではにかむ水木の様子は印象的だったので、会った回数は少なくてもその姿は容易に想起できた。

「あの人の方は変わりない?」

「いつも通りかな。お前と会った頃と全然変わっていないよ」

 水木の口調には妙に丁寧なところがあって、小野川や明に対しても常に敬語交じりで喋っていた。そんな彼の様子を思い出して、明は軽く笑い出した。

「それじゃあ、近々会いに行くとするかな。火曜と……木曜だったっけ?」

「そう。じゃあ今度水木さんに会ったときに、明がそう言っていたって伝えておくよ」

「うん、よろしく」

 明と小野川はそこで会話を切り上げ、冷めかけた残りのカレーを平らげ始めた。

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