第6話
自分の足元を眺めながら、一歩、また一歩と前へ踏み出す。かかとを地面に擦らせるようにして歩くと、厚い靴底が小気味良い音を立てた。雑踏の中で自分の靴音が一際目立って聞こえてくる。ふと、道端に落ちている空き缶が目に止まった。右足のつま先でそれを小さく蹴りだすと、空き缶は乾いた音をたててアスファルトの上を転がった。やがてそれに追いつくと、今度はそれを靴裏で静かに踏み潰す。
須藤は両手をポケットに入れたまま、駅から10分ほどの商店街を歩いていた。靴擦れを起こした指先やくるぶしはじわり、じわりと痛み出してきている。やはり、どうもこういう大きな靴は歩きづらい。さきほど明は、履きなれない靴もそのうちに馴染んでくるというようなことを言っていたが、このままだと足が靴に慣れる頃には、歩き方まで変わってしまっている気がした。
明たちと別れた時はまだまだ空が明るかったが、今ではすっかり日が落ちてしまっていた。濃密な毒液のように濃い藍色が街を覆い、それとは対照的に電飾を帯びた繁華街では人の流れが夜の活気を作り出している。通りを占める店から零れる明かり、道行く人々を呼び止める客引きたち、そして群がる視線と談笑。須藤はそれらの光景を横目に、黙々と歩き続けた。
時刻はもう七時近くになってしまっていた。ボーリングの後、そのまま家に帰る気分にもなれなかった彼は近くのコンビニに寄ったり、本屋で立ち読みをしたりして今までブラブラと時間を潰していた。しかし、夜の帳も下りてそろそろ腹もすいてきた。彼は我が家へ向けてバス乗り場へ歩き出していた。
車道を行き交う車の前照灯が、彼の影を建物の壁面に照らし出していった。光の角度が変わるたび、それにあわせて彼の影は伸び縮みをくり返す。厚底靴で歩くそのシルエットに、彼自身は満足していた。
ふとそのとき、前方の脇道から一人の男が出てきたのが見えた。もちろんそれだけなら別段気にすることもないのだが、その顔に須藤は見覚えがあった。男はこちらに向かって歩いてくる。が、彼が須藤の方を気にする様子はなかった。須藤が必死に記憶を辿っている間も、彼はどんどんこちらとの距離を縮めてくる。
体の大きな男だった。だが、背中を丸めて歩いているため、頭の高さは須藤とそう変わらない。その視線は一定の方向に落ち着かず、たびたび辺りを探るように見ていた。そういった一つ一つの仕草にも確かに覚えがあるのだが、須藤はそれが誰のものであったのか、なかなか思い出せずにいた。
そうしてまごまごしているうちに、男は須藤の脇を通ってさっさと歩いて行ってしまったのだった。須藤が男のことをようやく思い出したのは、彼がすっかり遠くへ去ってしまってからのことだった。
「風早……か」
須藤は彼の背中を見送りながら、ぽつりとその名を呟いた。
今更呼びかけても、もうこの距離では彼の耳には届かないだろう。もっとも、彼らはお互い声をかけるような間柄でもなかったが。
クラスが違うこともあって、須藤自身が風早亮と直接言葉を交わしたことは一度もない。だが、学校で風早と井上が喋っているのを何度か見かけたことがあった。もともと須藤は学校での顔が広い方ではないが、それでもあの風早はよく人の話題にのぼる存在なので、その名前も聞いていた。
と言ってもそれらはもっぱら、あまり良くない噂であったが。
風評によると、風早は皆にそれほど好かれていないらしい。
また須藤自身も、風早に対してはそれほど良い印象は持っていなかった。彼を初めて学校で見かけたときから、須藤の目には風早が恐ろしい人物のように写っていた。少しでも刺激しようものなら、すぐにも怒り出しそうな……そんな一触即発の雰囲気が感じ取れたのである。実際、彼が学校の誰かに暴力を振るったこともあるという。おまけに年下から金を巻き上げているという噂もあり、その場面を見かけた隣のクラスの誰かはそれを写真に撮ったかなんだとか。それらは全て人づてに聞いた話だし、彼について詳しいことは分からないが、須藤とは気が合いそうもないことは確かだった。
須藤は風早の姿が見えなくなるまで、その後姿を目で追い続けた。風早はちょうど須藤がやって来た方向へ歩いていったようである。後から追いかけて話しかけるような間柄でもなかったし、須藤にとってはお互いの関係はこのままで良かった。向こうにこちらの顔を覚えられても、得になることは何一つ無いように思えたのである。他人の醜聞には大いに興味が惹かれたが、須藤はその情報を得て表立ってどうにかしようという気までは持ち合わせていなかった。
少し歩いたところで、先ほど風早が出てきた小路の出口に来た。何気なくそちらに目をやると、路地の奥に人影が見えた。小柄な男のようだが、彼はその場に座り込んで小さく縮こまっていた。どうもそれは小柄な男というより、少年のようである。彼は時折咳き込んだり、鼻を啜ったかと思うと、数度に分けてつばを吐き出すような動作を見せた。少年らしき人影は、絶えず自分の腕や胴を摩っている。
気になった須藤が立ち止まってそれを眺めていると、彼はその視線に気づいたのか、ゆっくりと起き上がった。その背丈や体格から察するに、それはやはり少年であった。彼はそのままゆっくりとした動作で、路地のさらに奥の方へと歩いていく。
どうやら、この小路の先は行き止まりではないらしい。彼は小路の突き当たりを、右に曲がっていった。この路は表道路の老舗と新しい店舗の隙間にできた小道に過ぎないが、ここを通ってどこかに通り抜けることができるのかも知れない。この街に長年住んでいる須藤も、ここにこのような道があることは全く知らなかった。
どうせ、急いで帰るような理由も無かった。須藤は興味半分でその小路へと入っていった。
道幅は狭く、足元には瓦礫の破片が散らばっていた。そのまま奥へ進むうちにだんだんとスペースが開けてきて、人が二人くらい通れるほどの幅になってくる。このあたりに、先ほどの男が座り込んでいたのだ。この通りには表通りに並ぶ商店の裏口が幾つもつながっていて、時折そこから人が出たり入ったりしていたが、一般の人が利用することはあまりないようだった。さきほど少年が曲がっていったT字路を右へ行くと、前方にその彼が歩いているのが見えた。
彼は絶えずフラフラとしていて、足取りがおぼつかない。それに、身体のどこかをかばって歩いているようでもあった。須藤はつま先の痛む部分に気をつけながら、黙ってその後を追った。
少年はどうやら、須藤と同じく橋向こうの住宅街へ向かう途中のようである。
駅とその周辺に居並ぶ商店街やオフィス街のエリアと住宅街のあるエリアの間には一級河川である日実洲河が流れている。彼は旋都大橋の方へと歩いていくが、橋の周辺にはホテルやビアホールがあるばかりで、展望塔を除けば子供が一人で行くような施設はなかった。須藤と同じく向こう岸にある自分の家へ帰る途中なのかもしれない。
狭い路地を抜け出ると、商店街の外れに出てきた。橋まではもう目と鼻の先だった。橋をライトアップする街灯の連なりが、暗闇に浮かび上がって幻想的な光景を作りだしている。その下で、車道にずらりと連なる自動車のブレーキランプが赤々と明滅を繰り返していた。
橋の両脇に設けられた歩道の上を歩いてくる人の姿はまばらだった。低い手すりに手を添えて歩くと、暗く重い河の流れが眼下に見えた。街の煌びやかな明かりが、その水面にゆらゆらと映っている。歩道の端の方を歩いていると、橋の支柱に水のぶつかる音がかすかに聞こえてくる。それは恐ろしい反面、不思議なノスタルジーも感じさせた。
橋の終わりに差し掛かる頃には、そこから住宅街の静かな町並みが窺えた。繁華街に比べると、外を出歩いている人の数はずいぶん少なくなっていた。道を照らすような建物の明かりも、あちらに比べるとはるかに少ない。
いつの間にか、前を歩いていた少年の姿はすっかり遠ざかってしまっていた。須藤があちらこちらに気を奪われている間に、向こうとの距離はどんどん広がっていた。
須藤の家はここからまだしばらく歩いたところにあった。もしこのまま歩き続けて少年が別の方向へ分かれていったら、この遊び半分で始めた追跡もそこで打ち切りにしようと彼は既に決めていた。当初に彼が期待していたような面白さは、とっくに霧散してしまっていたからだ。須藤は少年の姿を視界に入れながら、あくまでもマイペースに足を進めた。
道に面して建てられた人気のなくなったビルからは、非常口を示す緑色の淋しい明かりが漏れていた。通りに面した商店の中には、シャッターを下ろし始めている店もある。歩いているうちに、だんだんと視界に高い建物は映らなくなっていった。
寂れたアパートや町の電気屋を眺めながら歩いていると、住宅街の影から時折、犬の鳴き声が聞こえてくる。それは静かな宵の町でしか聞けないような、辺りによく響く鳴き声だった。道端に止めてある車の下からは、二匹の猫がこちらを窺っているのが見えた。須藤がわざと足音を立てて近づくと、彼らはびっくりして近くの家の塀の上へと逃げていった。そしてこちらとの距離を十分にとると、二匹は再びその探るような目で須藤の方をじっくり眺めるのだった。それらは住み慣れた町の、住み慣れた夜の光景だった。
須藤が気がついたときには、少年の姿は見えなくなっていた。もしかするとこの辺りのどこかの家に入っていったのかもしれない。
最後にあの少年の姿を見た辺りで周囲を見渡すと、そこにあった鈴原という表札が目に止まった。別段変わった様子の無い民家だったが、須藤はその家を眺めたまま、しばらくその場に佇んでいた。
しかし、それもほんの数分の出来事だった。彼は自分の腹が鳴る音を聴くと、やがてとぼとぼとした足取りで歩き始め、家路に就いた。
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