第二章 兆し

第5話

 明が光の階段を降った日から時をさかのぼること三日――五月七日の日曜日。諸橋明、井上涼真、小野川浩嗣、須藤海の四人は、上縞町のボーリング場にいた。

「それじゃあ、明には水曜の上縞ワイドに出演してもらおうか」

 上機嫌な顔でそう言ったのは井上だった。

「イェー!」

 小野川が拍手とともに喝采を上げる。相変わらず声の大きな男だ。明が弱り切った顔で彼らを見る。

「えぇ……やっぱり、本当に、やらなきゃだめ?」

「そういうとり決めだったろ。いやぁ、水曜が楽しみだな」

 小野川が明の肩にぽんと手を置く。脇でそれを見ていた須藤もうっすらと笑みを浮かべていた。明はそんな彼らを見て、諦めたように首を振りため息をついた。

 休日のボーリング場は混み合っていた。外はもう日が沈み始めている頃だが、客足はまだまだ衰えていないようだった。ボールとピンのぶつかり合う音が、彼らの周りで幾つも飛び交っている。

 彼らはたった今、三回に渡るゲームを終えたところだった。天井から吊るされたモニターには、彼らのスコアが表示されていた。四人の中で、明は一番点数が低かった。

「それ、当日に誰か見てたら恥ずかしいなあ」

 明が頭を抱えて悩みこむと、そばにいた井上が苦笑いをして言った。

「確実に何人かは見てるだろうな。夕飯前に上縞ワイドをつけてる家って結構多いみたいだし」

「勘弁してほしいわ……」

 上縞ワイドというのは、平日の夕方に放送しているローカル番組のことだった。その中で、道行く学生を捕まえてクイズやインタビューをしてもらうという企画がある。このコーナーは毎週水曜日の夕方に催されることになっていた。幸か不幸か、明の家では別の局の番組を見ることが多いが、これを見ている家は相当多い。

 明は暫く放心したように、ゲームの終わったレーンを眺めていた。先ほどまで火照っていた顔から、一気に熱が冷めていくのが分かる。しかし、今さら取り決め自体を悔やんでも後の祭りであった。

「さて。ゲームも終わったし、そろそろ帰るとするか」

 小野川はそう切り出すと、さっさと靴を履き替えて自分のボールを片付けにかかった。それを見て、明たちものろのろと動き出す。

 時刻はまだ五時を過ぎたばかりだった。この季節は夏至へ向けて日の入りが日に日に遅くなっている。外はまだ明るいはずであった。休日のこの時間は、まだまだ家路に就くような時間帯ではない。ボーリング場の入り口からは、時折新しい客が入ってくるのが見えた。明は憂鬱な眼差しを彼らに投げかけていた。

「ずいぶん気合の入った靴を履いてんなぁ」

 そのとき、はしゃいだような声が隣から聞こえてきた。何かと思えば、それは井上の声である。見ると、井上が須藤の履き替えた靴を眺めてにこにこしていた。明や小野川もそれにつられて目をやると、濃い紫色の起毛革で出来た、重そうな靴が目に入った。

「かなり良いものとお見受けしますが」

 須藤の足元にしゃがんだ井上が靴をなでながら言う。須藤はどうしていいか分からずに、ただ照れくさそうにしていた。一方、明と小野川は呆けたような目でその光景を見つめていた。井上の行動はいつものとおりだったが、それよりも彼が須藤の身の回りのものに注目している光景自体が珍しかった。

「それ、須藤が買ったの?」

 小野川が訊くと、須藤はまさかと笑った。

「こないだの誕生日の時にね、兄貴から履き古しを貰ったんだよ」

「なるほどなぁ、どうりで。足元だけ見ると他人みたいだぞ」

 小野川の言うことももっともで、そのスウェード靴は須藤の全身といまひとつ調和がとれていなかった。彼はかかとをこすり合わせながら苦笑いをする。

「それにしてもさ、革靴って重いね。なんか、くるぶしも痛くなってくるし」

「履きなれてないからだろ。そのうち馴染んでくるよ」

 明はそう言うと、貸し出し靴を抱えて立ち上がった。

「そろそろ出ようぜ。頑張ったらなんだか腹が減ったよ」

「確かに。まだ早いけど、どっかに寄っていこう」

 小野川がそれに同調する。彼らは会計を済ませにカウンターへ向かった。

 一同が外に出たころには、空は夕明かりでオレンジ色に染まり始めていた。雲は風に引き伸ばされて空全体に広がっている。建物の隙間を強い風が通り抜けると、街路樹が大きく揺さぶられて涼やかな音を立てた。

「なんか汗が引いて肌寒いわ。そんで、これからどうする?」

 明の問いかけに、小野川は真っ先に反応した。

「このままどっかで夕飯にしよう。なんか寒いからさぁ、今日はラーメンか、もしくは辛い料理なんか良いと思うんだよね。どうでしょ?」

 そう言って彼は井上、須藤の方を振り返ったが、井上は既に話の途中で首を横に振っていた。

「いや、悪いけど今日はこれで失礼するよ。これからレミと会う約束があるから」

「〝レミ〟?」

 須藤が知らない英単語のようにオウム返しにすると、小野川がすかさず解説を入れてくれた。

「ほら、同じ学年でいるだろ。彼女だよ、こいつの」

 それを聞いて、「ああ、そういう名前だったのか」とようやく須藤は頷いた。彼女は明たちとは別のクラスにいるが、井上と一緒にいるのを彼らは何度か見たことがあった。

「須藤はどうする?」

 明が須藤に訊くと、彼もまた手を横に振って同行しない意を表していた。

「いやぁ、今日はやめとくよ。ここんとこお金が無いし」

 それはある種、常套句のような言い回しだったが、須藤が言うとどうも本当のことのように聞こえるから不思議である。

 明と小野川は顔を見合わせた。

「それじゃあ、今日は二人だけで行くか。駅前にある赤い暖簾のラーメン屋か、駅南のカレー屋にしよう」

 明のその提案に、小野川も快く頷いた。

「まだどっちも行ったことないな。それじゃあ、今日はラーメン屋の方に行くか」

 とりあえず結論が出たところで、彼らはそれぞれの向かう方角へ歩き出すことにした。橋の向こうの自宅へ帰る須藤とはそこで別れ、明と小野川、そして井上は駅側へ歩き出した。

 明たちが駅近くの繁華街に差し掛かる頃には、日は大分傾いてきていた。西側のビルの隙間から残照が覗いている。空気は日中の緩やかさを捨てて、日没後特有の重みを纏いつつあった。それに呼応するように街灯や電飾は息を吹き返し、街は夜の表情へと変わりつつあった。あと一時間もあれば、街はその化粧を完全に終えることだろう。

「そういえばさぁ」

 歩いていると突然、井上がぽつりと口を開いた。

「この間、この通りを歩いていたら、風早に会ったんだよ」

「おい、やめろよ。いきなりあいつの話は」

 小野川は露骨に嫌な顔をした。しかし井上は、そんな小野川の反応をあらかじめ予想していたのか、構わずに話を続ける。隣の明は黙って井上の方を見ていた。

「あいつ、近頃は全然学校にも来ないじゃん? それで、最近どうしてるんだって訊いたら、この辺のラーメン屋でバイトしてるんだってさ」

 小野川は途端に仰天した顔をした。

「それ本当かよ、どの店で働いてるって?」

「うーん、そこまでは聞いてないな」

「……なぁ、明。やっぱり今日はカレーにしよう。鉢合わせたら嫌だし」

 そう言って彼は明の意向を窺う。それに対して明はたいした返答もせず、ただ気のない声を出しただけだった。様子を眺めていた井上は苦笑いした。

「それにしても、井上は昔からあいつと知り合いだったの?」

「うん、そうだよ。俺と明と風早は、小学校の時からの付き合いだから」

「へえー。でもさ、井上と違って、明は全然あいつと喋ってないよな」

 小野川は再び明の方に目を向ける。それまでじっと口を噤んでいた明だったが、彼はそこでようやく口を開いた。

「まぁ、俺と風早が同じクラスになったのは、たったの一度きりだったから。そう言えば井上は、あの頃から風早と仲が良かったよな」

 そう言う明の口元は繕うような不自然な笑みを浮かべていた。井上は何か言いかけたが、彼も結局そのまま黙ってしまった。風早と井上の関係を慮って、小野川もその場はそれ以上の言葉を用いることはなかった。

 駅に近づくにつれ、人の流れは次第に多くなってきた。休日とはいえ、夕方のこの時間は帰宅のために電車を使う人が多いのだろう。これだけの人がいると、見知った顔とすれ違っても、気が付かないでそのまま通り過ぎてしまうかもしれない。あるいは、故意に通り過ぎることもあるだろう。

 駅の北にある大きな十字路に差し掛かったところで、展望塔方面へ向かう井上は別れていった。

「それにしても、井上もよく風早なんかと仲良くしていられるもんだな」

 駅方面へ向かっている途中、小野川が呟いた。そこに非難めいた調子は含まれていなかったが、彼には本当に不思議でしょうがないという様子だった。明はそんな彼に苦笑しながら、独り言のように言った。

「うーん。風早も、昔からあんなふうだったわけじゃあないんだけどな」

「はん。いくらガキの頃にかわいくったって、あれだもんな。大きくなるうちに人はどうにでも変わるもんだよ」

 小野川がただ冷めた声で言った。

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