第4話

 見慣れた我が家だ。明は門の前に立つと、不思議な懐かしさに捕らわれた。これと同じ光景を最後に見たのは、僅か2~3時間前のことだ。それなのに、まるで途方もない大旅行から帰ってきたような疲労と安らぎを感じた。

 明は流れ落ちる汗を拭うと、溜め息を吐いた。

 家には明かりが灯っていた。一階のリビングのカーテンごしに、様々な色が明滅して見える。TVが付いているのだ。さっき階段を降る前は、家の中の様子は分からなかったのに。

 明の脳裏に、父と母の顔が浮かんだ。あの二人もやはり、この街で暮らしているというのか。

 しかしすぐに先ほどの顔のない男の事が浮かぶと、明は恐ろしさに凍り付いた。顔を浮かべるも何も、彼の両親に顔があるかどうかすら解らないのだ。

 もしも、先ほどの男のときと同様の事態になったなら、自分はどうすればいいのだろう。

 その問題についてはそれ以上考えたくもなかった。

 明は静かにアプローチに足を踏み入れた。取り敢えず様子を窺うより仕方がなかった。往来に突っ立っていて、またさっきみたいに誰かに出会う方がやっかいであった。彼はあの鉄製のドアに向かって進んだ。

 近付けば近付くほど、彼はその家が“完璧”であることを思い知らされた。

 実に奇怪な気持ちがした。上縞町の模造品が砂漠に転がっている事もそうだが、それ以上に、“自分の家まで模造されている”という事実が彼にとっては気持ち悪かった。知らない間に、臓腑の隙間に異物を埋め込まれたような心持ちがする。

 彼はドアに手を掛ける前に、二階の出窓に目を向けた。幸い、自分の部屋から明かりは漏れていなかった。通常、この時間帯であれば、彼は間違いなく自室にいる。だが今現在あの部屋に明かりが灯っていないということは、少なくとも“自分の模造品”までは居ないということになりそうだ。

 他に何があろうとも、それだけは絶対に認めるわけにはいかなかった。

 ひとまず小さな安心を手にした明は、一度リビングの方に目を向けた後、ゆっくりと取っ手に手をかけた。ノブを静かに廻して、ドアを押し開ける。

 その瞬間、緩やかだが、確かな明かりが彼の目を突いた。眩しかった。だが、それは彼のよく知っている輝きだった。

 そこにあったのは、今度こそ見慣れた玄関であった。我が家だけの独特の香りが鼻腔に流れ込んできた。左手にあるのは、古ぼけた木製の靴箱。その上に輝いているオレンジの玄関灯。そして足下に並べられた、地味な趣味の父母の靴。

 明にとっては、全てが懐かしかった。ここにあるのは、慣れ親しんだものばかりだった。

 すべて当たり前の事なのだが、彼は感極まる想いがした。

 その背後でゆっくりと、扉が閉まった。『ガチャリ』という金属製の音が響く。二時間前に聴いた音より、それは遙かに大きく響いた。勿論それは、ここが限られた空間だからだ。

 明は背後を振り返ると、念のために再びその扉を開いてみた。ゆっくり、ゆっくりと。今度はこの扉は消えはしなかった。“外の世界”が、徐々にその景観を覗かせる。

 ドアの向こう側には当たり前の光景が広がっていた。家のアプローチ、その奥に見える道路、夜空。

 ふっと息を吐くと、彼はその扉を閉めた。

「明ぁー、やっと帰ったの?」

 家の奥から母の声がした。

 懐かしいあの声だ。頭の中でそれを考える前に、明の胸の内が先に反応していた。何か言葉で言い表せないものが、じんわりと迫ってくる。彼は自然と大声で返事した。

「ただいま!」

 彼は心中で悪態をついていた。どうしてここが、〟階段を降りた先〟なのだ。どうして、異常な街のまっただ中なのだ。

 それは、実におかしなパラドックスだった。明はこの場所こそが、全ての悪夢の帰結点であれと強く願っていた。

 奇妙な階段も、顔の黒い男も、全て消えてしまえと彼は願った。

「ごはん食べてきたのー?」

 息子の苦悩も知らない母の声が再び響いた。その声色には、ひとかけらの異変も含まれていない。ごはんを外で食べてきたかどうかだなんて、なんと退屈で優しい質問なのだろう。

「いや、まだ食べてない」

 言われてみれば、腹がペコペコだった。

 明は靴を脱いで家の床を踏みしめた。靴下を通してひんやりとした床の温度を味わうと、すっかり本当の家に帰ってきたような気持ちになった。うっかりすると、さっきまでの出来事がまるで夢か何かであったかと思われるほどだ。

「テーブルに用意してあるから、食べなさい。サラダは冷蔵庫に入ってるからね」

 明は暫く思案した末に、いつも通りの受け答えをした。

「解った。一番上の段でしょ?」

「そう。ドレッシングは扉の所の、牛乳の隣にあるから」

 いつもの家庭の様子そのものであった。あの、平静と変わらぬ母親の声。あの態度。これでは、違和感を見つけだせと言う方が無理であった。

 それでも明は、一応は用心してリビングを覗き込んだ。まず目に入ったのは、部屋の隅で向こう向きに寝転がりながらTVを見る、父の姿だった。仕事着はすっかり脱いで、スウェットの家着を身に纏っている。風呂に入ったばかりらしく、その頭髪は水分を含んで幾分光っていた。

「父さん、ただいま」

「ん。ああ、お帰り。お前、もっと早く帰ってこいよ」

 おそるおそる声を掛けてみたものの、それも杞憂に過ぎなかった。父も母と同様、いつも通りの仕草でこちらを迎えてくれた。応える瞬間、ちらりとこちらを向いたが、その顔には心配していた黒さの欠片も見当たらなかった。

 それは今まで見飽きるほど目にし続けた、普段通りの父の顔だ。

 リビングルームはキッチンと繋がっている。左を向くと、食卓に座って新聞を読んでいる母の姿があった。

 母は、最近は軽い老眼で何かを読むときは眼鏡を必要とする。目の前の母も、いつも通りにメタルフレームの眼鏡を掛けていた。それも、少しずり落ちた眼鏡を頬で支えている姿まで、全く普段通りだ。その顔にも、当然ながら異常は見られない。

 明はほんの少しだけ拍子抜けしたような感じだったが、そんな気持ちは、すぐに大いなる安心によって喰らい尽くされた。

 彼にとっては、もはや全ての問題がどうでも良かった。これでやっと、安心して休めるのだ。そう思うと、どっと疲れが溢れた。

 千鳥足に近い足取りでテーブルに近寄ると、母が顔を上げてこちらを見た。

「どうしたの、あなた。すっごいお疲れの様子ね」

「ん、まあね……。ちょっとくたびれたよ。色々あって」

「お風呂沸いてるから後で入りなさい」

「うん。ありがと」

 冷蔵庫からサラダ、牛乳、ドレッシングを器用に片手で取り出すと、明は食卓に腰を据えた。食器に掛けられたラップを剥がしながら、横目で母の顔を見る。正解の無い間違い探しをしているような気分になった。

 母が明の視線に気付いた。

「どうかした?」

「いやぁ、べつに」

「それはそうと、あんたもうちょっと部屋を綺麗にしときなさいよ。今朝掃除しようかと思ったんだけど、あんまり汚いからやめちゃった」

「あぁ、うん」

 母におかしな様子は無かった。明はそんな彼女の様子をちらちら窺いながらも、目の前の料理を黙々と食べた。料理は冷めていたが、美味しかった。

 夕食を済ませ、それから風呂にも入り終えると、明は自室に籠もった。

 二階の、一番奥の部屋だ。そこも、今朝家を出たときと全く同じ様子に見えた。机の上に放り出された雑誌の位置や、椅子の向き、果ては布団のはぐった形跡まで何もかも。

 自分は、何か酷い勘違いをしているのではないだろうか。

 明は混乱した。自分自身を疑わしく思ってしまうほどだった。まるでTV番組のチャンネルを切り替えたように、身の回りの出来事が変化している。さっきまでの砂漠の旅や、黒い顔の襲撃は果たして何だったのか。家の中は、平和そのものであった。それまでの殺伐とした出来事とは、様子がかけ離れ過ぎている。

 彼はベッドにその身を投げ出した。両腕を頭の下に敷いて天井を見つめた。家蜘蛛の巣や、淡い色のシミが目に入る。目を閉じて、息を吸ってから、再び開けてみる。見える物は変わらない。

 明はいきなり立ち上がって、押入の戸を勢いよく開いてみた。

 やはり、別に変わったところはない。

「くそ……」

 朝までと違う部屋に居ることは間違いないのに。あの階段を降って砂漠を歩いたのは事実なのに。再びベッドに戻った。そのまま掛け布団の上からごろりと横になる。

 こんな事が許されて良い筈はない。明は唸った。

 自分は、ただの未成年なのだ、無力な一個人なのだ。見えない相手から一方的に追いつめられ、傷つけられるなんて、あんまりにも酷すぎる。

 ここに見える、この部屋は何だ。家は、街は一体何だ。

 明はベッドの上で身体をずらし、訝しんだ様子で周囲を見渡した。

 それに、先程の顔が黒い男。あれも気になった。明は手を伸ばして机の上に置いてある手鏡を取る。そのまま開いて、そこに映る自分の顔を覗き込んだ。

 細く整えた眉と筋の通った鼻。そしてやや不健康そうな色をした唇。見慣れたいつもの顔がそこにはあった。少し長めに伸ばした髪の毛が影を作るが、あの男のような異常な黒さは見られない。それだけでも取り敢えず安心すると、明は鏡を閉じて枕元に放った。

 あの男は、間違いなく明の知らない人間だった。それにも関わらず、平然とこちらを罵るような口をきき、おまけに暴行まで働いた。まともな神経であれば到底考えられないような蛮行である。それも、こちらには相手の正体がまるで解らないときているのだから、対処のしようがなかった。

 あんなものは、まったく馬鹿馬鹿しくなるほど幼稚な変身だ。だが、この異常性にまともに直面している人間が、今この瞬間は明以外に存在しない。だから明とこの出来事の間には、一笑に伏せるほどの距離がなかった。それが彼を追いつめている。

「これから……俺は、ここで、どうなるんだ……」

 彼はいつしか、泥のような深い眠りの中に沈んでいた。

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