第3話

 街に近付くにつれ、幾つか解ったことがあった。

 砂上を吹き荒ぶあの忌まわしい風は、不思議なことに、街の周囲には殆どやってこなかった。明が襲いかかる砂粒の前に辟易したのは、もっぱら、歩き始めて十分に満たない内の出来事であったのだ。歩き続けるごとに風の勢力はみるみるその力を失っていき、今では砂粒が舞い上がる事など、殆どなくなっている。

 あの風は、街から遠ざかるほど強く吹き荒れているのだ。

 明はもと来た道や遠方を見渡した。すると睨んだ通り、遠くへ目を向けるほど、砂が強く舞っているのが見える。地の底から響く怒号のような、風の唸り声。舞上げられ、荒れ狂った砂が、濁りきったその身体で地平線を隠す。

 そもそも、こんな宛われたような空間に、地平線なんてあるかどうかも解りはしなかったが。

 光の階段も、いつの間にかその姿を消してしまっていた。

 だが明は、そのことについてはもはや驚きもしなかった。最初から、あの階段がいつか消えてしまうものだと覚悟していたのだ。根拠は無かったが、入り口の扉が消えたときから、何となくそんな気がしていた。

 それからの明は背後を気にせず、ひたすら先を急いだ。

 再びあの砂塵の中に足を踏み入れて、階段の痕跡を調べるだけの気力が残っていなかったことと、目前に迫った街の放つ、一種異様な雰囲気に惹きつけられていたためである。

 階段から目にしたあの街は、やはり明の住んでいる上縞町そのものであった。

 上縞町は、本州の内陸側に位置する小規模な街だ。山の裾野に広がるその住宅街は、平野部へ通う人々のベッドタウンとしての役割も持っている。中心には、山間から流れる河川、日実洲河が街を斜めに分断する形で走っていた。上縞町は、その河を境として繁華街と住宅街に分けられている。海側へ向かって左手に駅があり、企業のオフィスが入ったビルや飲み屋が密集しており、右手が主に住宅街となっている。隣接する水見町は小高い山状の土地を隔てて位置し、ここの中央にある丘公園からは、街の全景を見下ろせる。明の家は公園から歩いて30分ほどの距離にあった。

 上縞展望塔は繁華街側にある建物である。川沿いに建てられているため、階段から見たときは街の中央に見えたのだ。明の通う高校は街の東側に位置する、比較的歴史のある私立高校だった。明の家からは、ほぼ真西の方角である。生徒数は男子と女子を併せて約1000人、その比率は、ほぼ1:1に近い。

 いま、彼が入ろうとしているのは、街の南側らしい。右手に見えるのが、小山と公園の方角である。

 明は街の南端に差し掛かった。

 冷ややかな街の佇まいを暖めるように、黒々とした建物のあちらこちらから明かりが漏れている。どこもかしこも、自分の家の庭ぐらい見覚えのある光景だった。今ぐらいの時間に放課後の道草から家路に着くと、ちょうど目の前に広がっているような景色が拝める筈だった。足下の砂さえなかったら、普段の上縞町となんら変わりはなかっただろう。

 足下に、砂さえなかったなら。

 砂の途切れ目は、不思議なほど綺麗に、街の果てと一致していた。そこは、ちょうど上縞町の端であった。切り取った写真を2枚並べたように、砂とアスファルトがはっきりと分けられている。

 まるで原寸大のジオラマのようだ。明はそんなことを考えながら、ゆっくりとその境目を越えていく。上方に吊された電線も、街の果てと一緒にその姿を消していた。中空に浮かんだ電線が、砂漠に入るところでその姿を消している。この様子ではおそらく、日実洲河も街の境目で途切れているのだろう。明は自分の家を目指して、街の中を北上した。

 街の中は、比較的閑散としていた。

 家々から零れてくる明かりと、その僅かな生活音は明の心を落ち着かせた。

 しかし一方で、まだ誰とも会ってはいなかった。それが不気味だった。

 人通りの無い夜道を、明は怪訝な面持ちで歩む。街中に張り巡らされた電線と、それを支える電柱がそこら中に見えた。彼の頭上の街頭が、ポツリ、ポツリと明滅を繰り返す。足下のアスファルトが、それに伴い、闇の中から浮き沈みする。

 時折、遠くを走り去る車の音が聞こえた。

 何か妙だった。

 明は漠然とした違和感を覚えつつ、一軒一軒の様子を窺っていった。瓦屋根の一戸建て住宅や、アパートなどの前を幾つか通り過ぎる。中からは家族の話し声や、TVの音声、食器を洗っている音などが聞こえてきた。

 見る限り、別段不思議な様子はない。

 だが、一軒の平屋建て住居の前に来ると、彼はそこで足を止めた。

 そこは、幾つか同じ形の家が密集して建てられた区画だった。断熱材を使用した壁と、ドア、そして屋根の色形が同じ家が並んで建っている。外見上の違いと言えば、軒先に干し竿があるか無いか、そして停めてある車の車種。あとは、犬小屋があるかどうかだった。

 明の目に付いたのは、ちょうどそれだった。

 目の前に佇む家の玄関先には、青い屋根で作られた小さな犬小屋があった。もちろんそれだけならば、別に気に留めるほどのこともないだろう。

 問題はその中身だった。

 秋田犬が静かにこちらを覗いていた。その顔の造りが、明らかにおかしい。

 目鼻のつく位置、口の形、そして皮膚の色、すべてが明の見知っている柴犬と少しずつ異なる。そもそも、犬は鼻がこんなに下についていただろうか。目玉がこんなに大きかっただろうか。

 明は恐る恐る近づいた。

「アギィィィイィィ!!」

 突然、柴犬が明に向かって吠えた。その声はとても犬の発するものとは思えないほど甲高く、また耳障りであった。

 明の喉から声にならない悲鳴が漏れた。その犬の容貌や振る舞いは一つ一つが不自然に感じられ、途端に恐ろしくなった。彼が後ずさりすると、隣家の平垣の上を野良猫が歩いていくのが見えた。

 その猫もまた、明の常識からかけ離れた風貌をしていた。つり上がった口元、異常に大きな手足、人間のような複雑な形をした耳……。

 彼は弾かれたように歩き出した。

 それは予想だにしなかった恐怖だった。道の両脇から零れてくる人々の話し声が、悪寒を一層引き立たせる。平穏そのもののような、人々の声。それがかえって恐ろしかった。言いようのない気味の悪さが、身体の芯から立ち上ってくる。彼は身震いして、さらに足を早めた。

 心配だったのだ。彼はこの街に入ってから、まだ一人も人間を見かけてはいなかった。そこら中に人間の気配はするが、まだ実際に出会ってはいなかった。

 彼はできればこのまま、一人も見かけず家まで辿り着きたいと思っていた。

 別段はっきりとした理由など無いが、彼には何か、嫌な予感がしたのだ。

 この街の動物は、いずれも怪物のような風貌をしている。それなのに、ここに住んでいる人達は、まるで何事も無いかのように暮らしている。明は慄然とした。一体全体、どういうことだ。

 今ここで、誰かに出会ったら、どうなるのだろう。

 広大な、果ても見えない砂漠の中。切り取られたようにそこに存在する上縞町。人間しかいない街。住み慣れた、庭のような土地の筈なのに、明はまるで異国にいるような錯覚を覚えた。

 本来であれば、誰かその辺りの人を捕まえて、この街の状況について説明を求めたいところである。が、今の明にはとてもそんな余裕は無かった。人間が本当に人間であるかどうかさえ、まだ解らないのだから。

 訳の解らない焦燥感に、彼は突き動かされた。

 この時間帯になると、街中は電飾でライトアップされていた。

 特に駅側の方は道路を走る車のフロントライトも手伝って、太陽を蜂の巣にしたような輝きを放っている。明が現在居る位置からでは見えないが、河の向こう側では綺麗な街の夜景が拝める筈であった。川沿いを歩く人々の姿もあるだろう。

 ここから見えるのは、上縞展望塔の明かりぐらいだったが。

 その展望塔は夜の闇にあっても、一際目立つ存在だった。明が降ってくる階段の途中からでも目視できたのは、正にそのおかげだ。一階と頂付近の階層が、明々と夜に浮かび上がる。その光に照らされた付近の建物や、その塔自身の姿が影を作っている。

 明はその輝く塔の姿を横目に見ながら、さらに街の北を目指す。一刻も早く、自分の家へと着くために。こめかみを一筋、汗が流れ落ちた。

 この心細さには、身に覚えがあった。

 それは、幼い頃に迷子になった時とまるで同じ心境だったのである。彼は苦笑した。よりによって、住み慣れた筈のこの街で、あの頃と同じ気持ちになってしまうなど思いはしなかった。

 明は周囲を窺いながら、昔に思いを馳せた。

 あれは、小学校に入るか、入らないかぐらいの年齢だった。

 彼はあの日、両親に連れられ大型ショッピングセンターに出かけた。ありふれた出来事だった。あの頃の自分は、いつまでも親の買い物に連れ添っているのが退屈だった。おもちゃやゲームの売場を、自分一人で眺めたいと思っていた。母親に見守られてそういったものを眺めていても、どこかつまらない。

 そこで、母におもちゃ売場にいると告げて、さっさとそちらへ行ったのだ。

 そして、案の定迷子になってしまった。始めは親に言ったとおり、おもちゃ売場のプラモやゲームを眺めていたが、母によく似た後ろ姿の女性を見つけ、後を追っていった。そして別人だと気付いた時には、自分はいつの間にか、一度も見たことのない売場のただ中へと来ていたのだ。

 あの時の途方もない不安感は、今でも忘れない。知らない景色、知らない人々に囲まれ、どれだけ心細かったことか。

 それが今、再び彼の中で蘇ってきつつあった。

 あの時のように、誰かがアナウンスで助けてくれたら。

 思わず溜め息が出てしまう。昔は、泣き出せばすぐに周りが何とかしてくれた。あの時は泣いていた自分を店員が見つけ、館内放送で父母を呼びだしてくれた。だが今は、泣こうが喚こうが、事態は何一つ好転しないだろう。解決の糸口は、自分の力で見つけなくてはならないのだろう。

 街灯に照らされて、自分の影が大きく伸びていた。

 アスファルトに浮かぶその形を眺めていると、ふいに背後から足音が聞こえた。

 その音は確実にこちらに近付いてきていた。規則的な靴音が、次第に大きくなっていく。

 足下の地面に、何者かの頭部と思しき影が、ゆらりと浮かび上がる。思わず咽喉が上下に動いた。

 明は不自然さを押し隠しながら、ゆっくりと後ろを振り返った。

 そこは酷く狭い路上だ。住宅街の隙間に染み込んだような、細い通路である。昼間なら犬の散歩コースや、子供の遊び場としての役目を果たしているだろう。だが夜中ともなると車は疎か、通行人を見かけることすらまれだった。

 たった今、そこに浮かび上がっているのは明ともう一人の人影だけだった。

 自分の後ろに歩み寄っているのは、単に宵の口に散歩を楽しむ人の姿だろうか。

 明はなるべく不自然さを出さないように、肩越しに背後の人物を見遣った。相手は街灯の明かりを背にして歩いていた。俯き加減になったその顔は逆光のせいで、よく見ることが出来ない。それは彼の目には殆ど真っ黒にしか映らなかった。

 背格好から見て、年若い男のようだった。両手をジーパンのポケットに突っ込んで、背を丸めながら歩いている。茶色のトレッキングシューズが、くぐもった音で地面を叩き続けていた。

 明は男に変わった様子がないので、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 男はこちらより、歩調が少し速いようだ。みるみる明との距離は縮まってくる。

 明はどぎまぎした。

 どうする。この男を引き留めて、いろいろと訊いてみるべきだろうか。

 この上縞町が砂漠に囲まれている理由や、動物がおかしな理由。何故、人々はその中で平然と暮らしているのか。何故、それを何とも思わないのか。そして、自分が階段でこんな場所に辿り着いたのは何故なのか……。

 誰かに尋ねたい疑問は、後を絶たなかった。

 しかし、頭の中でブレーキが掛かった。この男にそんなことを訊いたところで、正確な答えが返ってくるとは限らないのではないか。もう一人の明がそう反論した。取り敢えず、誰かに訊いてみない事には何も始まらないのは確実なのだが、うかつにその行動を起こすのは危険かもしれない。

 頭の中の討論は、一向に決着が付きそうになかった。そんな風にして明がグズグズと思案に暮れていると、当の男はさっさと明の脇を通り過ぎて行ってしまう。

 明はホームを離れていく電車を見送るような目で様子を窺った。前を行く男はこちらの方になど目もくれずに、足早に過ぎ去って行く。その後ろ姿には、これ以上ないほど、他人への無関心さが現れていた。その目線は、ひたすら前方の地面だけを見つめていた。

 今のところ、こちらの存在を気にかける様子はない。

 しかしこの状況では、それはかえって明を安心させる結果となった。何故なら、他人とは、概してこういうものだからだ。

 彼は親しみと妙な懐かしさを込めた視線で、その後ろ姿を見つめた。思わず安堵の溜め息が漏れる。やはり、人間だけは普通の様子である。

 明はそれを確信すると、意を決して男に声をかけた。

「あ……あの、すみません」

 押し込めたような小声で、その猫背に向かって言った。当の男は、夜道で他人に声を掛けられた事に少なからず驚いたようだ。おや、という仕草で首を少しこちらに向ける。それで男の顔が拝めるかと思ったが、辺りが暗いせいか未だ顔が見えない。

 明は数歩間を詰めながら、照れ笑いを作った。

「ちょっとお尋ねしたいんですが……」

 まだ男の顔は見えない。明は眉子を寄せた。

 男はようやく、自分が話しかけられているということに確信が持てたらしい。ぎこちない動作でこちらに歩み出す。戻ってくる彼と明との距離は、1メートルほどのところまで縮まっていた。

 だがそれでも、依然として男の表情が読みとることができない。

 明の心臓が、次第に高鳴り始めた。

 俯いたその男の顔が、異様なほどに夜の闇と同化しているのだ。彼の着ているパーカーやジーンズははっきりと見えるのに。明は無意識のうちに後ずさりしていた。

 その様子がおかしいことに気付いたのか、男がふいと顔を上げた。

 その瞬間、明は息を呑んだ。

 もう少しで驚きの声をあげるところだったが、なんとかみぞおちに力を込めてそれをこらえることができた。それでも、顔面に張り付いた驚愕の表情だけは隠しようがなかった。

 男の顔面は、暗黒そのものだった。まるで、あの玄関のように。

 それも、顔に墨を塗っただとか、そういった意味の黒さではない。まるで写真の一部を火であぶったように、額から顎にかけての部分が、明暗のない黒そのものだったのだ。

 さらに驚くべき事に、彼の顔には顔面特有の彫りが無かった。鼻筋も、頬骨も、顎の形も、うっすらとその陰が見えるだけで、真っ平らなのだ。かろうじて表情が窺える程度に、一応は目や口の陰も認められるが、それはとても、人相を作れるような明確な代物ではなかった。

 粘性の高い黒い油絵の具だけで幾重にも描きつけたような顔。それが明の受けた第一印象だった。

 明は息を上下に震わせながら、また数歩後ずさる。目の前の男は怯えたままの明をじっと見続けている。二人の間を奇妙な時間が流れた。

 やがて、男の方が口を開いた。

「ああ。お前、諸橋……明とかいったっけ?」

 奇怪な声だった。声質が男でも、女でもない。変声機か何かを使って喋っているような、抑揚の少ない無機質な声。友人に話しかけるような口調だが、その言い方にはひとかけらの好意も感じることが出来なかった。敵意を剥き出しにした、滴るような喋り方だ。

 明はごくりとつばを飲みこんだ。

 とっさに、目の前の顔の見えない男は自分の知り合いではないかとも考えたが、先ほどの言葉のニュアンスから察するに、どうもそうではないようだった。

 あの馴れ馴れしい言葉が赤の他人の口から発せられたものであると解ると、身体が自然と緊張した。本能的に、何か危機的なものを感じたのである。

 明の頭は混乱していた。

 一体、この黒い能面みたいな男は何者なのか。

 それに、どうしてこちらの名前を知っているのか。

 明が黙ったままでいると、男はずかずかとこちらに歩み寄ってきた。

「どうしたんだよお前。さっきはへらへら喋くってたじゃん。なんか言えよ」

 さっき?

 その時、彼の左膝に衝撃が走った。

「ぐっ!」

 思わず呻き声が漏れる。それを聞いて男は笑い出した。

 膝の外側がジンジン痛む。

 蹴られたのだ。

 それを認めるのに時間が掛かった。男が余りにも躊躇い無くやってのけたので、一瞬、自分の身に何をされたのかが解らなかったのだ。

 まるで当たり前のように、道ばたの空き缶を蹴飛ばすような自然さで、男は右足を振り出したのである。

「な、う……」

 何をするんだ、と言いたかったが、肝心の言葉が出てこなかった。突然の不可解な事態に、すっかり気が動転していた。これまでの経験では到底対処できない、不条理極まりない事態に。

 すると、男が再び寄ってきて、今度は明の頭を小突こうとした。とっさに身を引いて、何とか免れる。男が軽く舌打ちするのが聞こえた。

 言いようのない衝撃が明の身を包んでいた。これまで生きてきて、これほど自分というものが理由も分からず無下に扱われた事はなかった。男は何の後ろめたさも見せず、気負いもせず、こちらを攻撃してきている。ケンカで相手を殴るのとは、まるでわけが違う所作だ。

 明には、何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。震える自分の足、向かってくる男、黒い顔。

 焦燥感だけが先走った。目の前の男は、またしてもずかずかと近寄ってくる。まるで躊躇していなかった。あの男にとっては、こちらを殴るのは虫を踏み潰すのと同じような感覚なのだろうか。このままではまた殴られるのは明白だった。明の心臓が暴れ出した。本当に、何がどうなっているのかさっぱり解らない。

 このままここに突っ立っていては、この男のなすがままだろう。それは確かだった。

 明は絡まった思考の糸を必死で解しにかかった。

 その時、男が前に片足を突き出した。すんでの所でそれをかわすと、目標を失ったその足は正面にあった家の塀を蹴った。

 明は転びながら脇に逃れた。それを見た男は、またゆっくりとこちらに向き直る。黒い口元には、相変わらずの薄い笑いをたたえていた。

 ただしかし、どこか奇妙であった。

 その男は、本気でこちらを襲っているわけではないように見えるのである。男が明に殴りかかってくる動作ひとつとっても、その一つ一つがどこか遊び半分、奇妙な言い方をすれば、手を抜いてやっているようにも感じられるのだ。

 幸い、自分とこの男以外は通りを歩いている者は居ないようだ。

 悔しいが、この場は、逃げるしかない。

 その時、『反撃を試みる』という選択肢も一応は浮かんだが、今のところその手段は止めておいた方が良いと本能が告げていた。ここでこの男に乱暴を働いても、状況が良くなることだけは絶対にないだろう。直感的にそれは分かっていた。

「うぜぇな、ちょこまかすんな」

 男がのっそりと喋る。明はそれには反応しなかった。

 すると、男は再び何かするような素振りを見せた。片手を振り上げて、今にもこちらに走り寄ってきそうな動きである。黒々としたその顔面から、不気味な敵意だけが感じられた。

 それを見た明は、身を翻して一目散に走り出した。無様だとか、格好悪いだとか、もはやそんな事に拘っているような場合ではなかった。これ以上あの奇妙な男と関わり合うのは避けたかった。

「待てよ、もろはしあきらー」

 背後から男のあざ笑うような声が聞こえる。しかしそれには振り返らず、明はもと来た夜道を少し戻ると、一つ目の角をすぐ右に曲がった。幸い、男が追跡してくる様子はない。それでも明は、走る速度を決して緩めなかった。明かりを灯した家々が、両脇を過ぎ去っていく。

 息が切れるのも構わず、肩の筋が痛くなるほど腕を振り乱し、彼はひたすらに駆けた。

 どうして自分が、こんな風に逃げ回らなければならないのだろうか。言いようのない屈辱的な気持ちが、彼の心を浸していく。不快感と怒りがごちゃ混ぜになって、胸の奥からじわり、じわりと立ち上ってくる。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァッ……」

 走っているうち、次第に耳の奥がぼんやりとしだした。額から流れ落ちる汗を拭った後、鼻を啜る。目が乾いて何度も瞬きした。今度は思い切り目をつぶって頭を振りながら走る。視野は極端に狭まり、先の路面しか捉えなくなる。時折、通行人や車とすれ違ったような気もするが、本当はどうだか解らない。

 それでも構わず、彼は逃げ続けた。

 馬鹿げている。何から何まで、狂っている。頭が煮え立った。自分は一体、どうしてこんな場所へやってきてしまったのだ。明は、絶えずその身を襲う悪寒や不安を絞め殺すのに苦労した。

 もう、何もかもから逃れたかった。自分が、こんな奇怪な場所のただ中にいるという事実からすら逃れたかった。街中から、絶えず嘲り笑いを受けているような気がする。しかも、幾ら走ってみたところでその想いは拭い去ることはできない。足が大地を踏みしめれば踏みしめるほど、静寂に包まれた空間を突き破れば破るほど、何か得体の知れない悪意が身体にまとわりついてくるような錯覚に囚われる。

 明はズタズタになりながら、その全てを払拭できる出口を目指して、ひたすら奔走した。例えそんなものが無かったとしても、彼には走り続けるしかなかった。

 時折、小石を踏んづけた。痛い。

 鞄を背負った肩。痛い。

 蹴られた膝。痛い。頭。痛い。

「うああああああああああああああっ!」

 その時、溜まりに溜まった怒りが、腹の中で爆発した。苛立ちをありったけ吐き捨てるように、彼は走りながら叫び声を上げた。そうせずには居られなかったのである。

 まるで、自分だけが世界の動きから放り捨てられたようなこの心細さ。胸が締め上げられるようだ。夜の住宅街に居座った静けさを叩き割るように、その声はほとばしった。

 彼は、一刻も早く自分の部屋で眠りたいと願った。

 夜の帳はすっかり降りていた。夕食時を過ぎた上縞町は、家々の団らんを証す暖かな明かりで街を染め上げていた。明にはそれらの明かりが、果てしなく遠く思えた。

 家に着いたのは、それから三十分もした頃のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る