第2話
あれから、どれぐらいの距離を降ってきたのだろう。
彼は今、ある程度の時間を置くことで、現状について考えを巡らせることができるまでに冷静さを取り戻していた。携帯電話を取り出し、時間を確認した。
『WE 5-10
18:27 19 』
五月十日の、水曜日。夕方の六時半近くだ。
明はふと思い出した。あのローカルTVの取材に映ったのが、確か五時十五分を少し回った頃だった。そして井上達と分かれて、家に着いたのがだいたい六時過ぎだ。
走っていた時間も含めて、かれこれ二十分以上階段を降り続けている計算になる。走った時間はせいぜい五分ほどだっただろうが、それでも、とんでもない距離になるのではないか。彼は体育の時間に聴いた話を思い出した。人の標準的な歩行速度は、一時間で4kmほどだという。それに五分間走った距離を加えると、驚いたことに2000mは移動していることになる。
2kmだ。家が本来あった場所から、2km以上も離れてしまったのだ。階段と平地という違いを差し引いても、自分が家からかなり遠ざかっていることは疑いない。
忘れ去っていた現実感が、さらに一層、遠くへ行ってしまった気がした。
そんな彼の目の前に、薄ぼんやりと何かが見え始めたのは、それから一時間以上経った後のことであった。
「階段が途切れてる……」
明は前方に向かって、よく目を凝らした。
絶望的な暗がりから次々新しい一段が生み出されてくるという光景に慣れきった彼にとって、それは完全に不意の出来事であった。
前を見据える間も、絶えず足は交互に動き続ける。殆ど自動的に。
だが、幾ら前に進んでも、それ以上先から新たに階段が現れることは、やはりなかった。やっと、この長い道のりが終わったのだろう。
そう思うと、明の身体からは一気に力が抜けていった。光の階段と、それを喰う闇。そんな異常な光景に対して、ずっと張りつめていた何かが、そこで途切れたのだ。全身からどっと疲れと安堵感が溢れ出た。
すっかり力強さを失った足取りで、一段、また一段と降っていく。確実に自分が途切れに近付いているのが解った。
同時に、暗闇に包まれていた周囲が、次第に明るくなっていくのが解った。真昼のような明るさには程遠いが、それでも今までよりは、ずっと心強くなった気がした。周囲に色が見出せるようになったのだ。
明はさらに歩を進める。履き慣れたその靴で、力を込めて床を蹴る。
気のせいか、自分の足音が聞こえにくくなっているような気がした。
明は数回、階段を蹴り叩いてみた。コツ、コツという非常に短い音がする。
ほんの微かな違いだが、やはり音が小さく聞こえる。今まで小さな足音でも十分に聞き取れていたのは、周囲が虚空だったからだろう。音の伝わりを遮るような物音が一切無かったのだ。
その時、真横から、ゆっくりと冷たい空気が流れてきた。明の髪の毛が、それに伴い右から左へなびく。扉を開け放って以来、はっきりと風を感じた事はなかった。
やはり、何かが変わってきているのだ。
慎重に周囲を窺う。だが辺りはまだ薄暗い。もう少し進まなければ、何も解りそうになかった。彼は黙々と歩き続けた。だんだんと、最下部の様子がその黒い靄を解いていく。
やがて、つやの無いざらついた地表が見えてきた。ところどころに、大きさのまばらな影が見える。それはどうも、平坦な地面ではないようだった。
あれは何だ。明は視界の悪い中で、徐々に終わりに向かっていった。
こんな異常は、もう沢山だった。背筋は既に、汗でじっとりと湿っている。彼はその先が、元の家であることを切実に祈った。
その時だった。彼の右足が一段踏み外した。急に、靴の裏が滑りやすくなったのだ。危うく転びそうになりながら片足で踏ん張ると、靴の裏にザラザラした何かを感じた。
明はかがみ込んで、階段の表面をそっと撫でてみた。細かい粒である。階段の明かりに照らしてみる。
これは、砂だ。
ギクリとした。さっきから地面のように見えているものも、これではなかったのか。顔を上げると、先の階段にも同様の物が塗してあった。そして、最下部の、あの奇妙な形の地面というのも、砂丘の一部のようだった。
その瞬間、彼の目を砂ぼこりが襲った。手で目の周りを擦ると、ざらざらして痛かった。風に運ばれた砂が、口の中にまで入ってくる。涙が一筋、頬を伝った。耳に聞こえる風の唸り声は、微細な砂が舞い飛ぶ様子を示している。
彼がようやく目尻から砂を取り除いた時、足下や衣服の至る所に砂粒が見えた。その先を見ると、白い光を放っていた筈の階段が、大量の砂にまみれ、輝きを遮られている。その途切れ目は、砂の中にすっかり埋まってしまっていた。
改めて辺りを見回してみる。階段の切れ目は、広大な砂漠の真中にあったのである。自分は、砂漠のただ中へ向かって、階段を降り続けていたということだ。
明は急におかしくなって、笑い出してしまった。自分の知っている世界とは余りにもかけ離れたものが、何だか途端に滑稽に見えたのだ。
この笑いは当然、彼の余裕からくるものではなかった。
ミステリーの体験を語ったテレビ番組。高校生が異世界へ行く物語。頭のなかに浮かんだのは、彼がこれまで見知った、それらのコンテンツだった。明は自分自身がそうした夢想を好くことを自覚していた。だが、今の気分は決して愉快ではなかった。そして、彼は誰とも顔を合わすことなく、まるで落とし穴に落とされるようにして、ここに閉じこめられたのだ。
そうだ、これは落とし穴だ。
どう考えても、誰かが意図的に自分を罠におとしめているとしか思えなかった。
だがそこで疑問に浮かぶのは、一体誰が、こんな大がかりな物を用意できるのかという問題だ。わざわざ自分を困らせるために、こんな途方もない物を、金と時間を掛けて作る人間がいるとも考えられない。どうにも解らないことだらけだった。
幻覚を見せられているとは思えないが、念のために、明は自分の携帯電話を取り出して、そこのディスプレイを覗き込んだ。
左上に無機質な文字で表記された『圏外』の文字。案の定である。これは、たったいま目にしているのが幻覚などではなく、実際に自分が元の地点から離れていることを意味する。やはり、ここは本当に、電波など一切飛び交っていない砂漠なのだ。
もっとも、それは何の救いにもならない確認であったが。
明は溜め息を吐いた。取り敢えず今は、この階段を全て降りきってしまうより他ないようだった。その時、彼の視線が何かを捉えた。
ただ一つ、遠くの方にただ一つ、何かの影が見えたのだ。
砂の広野の中に、一つだけ異質な何かが存在している。かなりの大きさのようである。うっすらとしか見えないが、そこには所々に明かりが灯っていた。
「なんだろ、あれ?」
ところどころに角張ったシルエット。
よくよく目を凝らす。階段を、ゆっくりと下りる。建物らしき、角張った幾つかの影が霞んで見えた。
「……街だ」
間違いない。それは街の影だった。
念のため、他にも街が無いか、周囲に影を探す。階段の裏側も調べるため、彼はそこに這いつくばって縁を掴むと、顔をゆっくり出した。薄寒い風が砂を運んでいる様子が見える。しかしそれ以外は、やはり何も見当たらなかった。
彼は再び、その影の方向へと目を向けた。その街の外観は明かりが目立ってよく解らないが、中心地に幾つかビルらしきものが伺え、その周りを住宅が囲む形となっているようだ。小高い山のようなものもあるが、大した大きさには見えなかった。あんなものが砂漠の中に存在している事自体、実に奇妙であったが。
あれは、何だろう。
その中に一つ、“塔”のような形をしたものが見えた。
縦長の、末広がりになった建物の頂付近に、展望台らしき階層が設けられている。
信じられなかった。背中に鳥肌が立った。
あれは、上縞展望塔ではないのか。
彼は砂で足が滑るのも構わず、急いで階段を一気に駆け下りた。
上縞展望塔とは、明の住む街に存在する数少ない街のシンボルだ。高さは50メートルちょっとしかないが、それでも街の中では目立つ建物である。街を一望できる展望室は上縞町に住む者なら、一度は上ったことがあるだろう。明も幼稚園の遠足の時、初めてあそこへ上った経験がある。その時に見た眼下の景色は、今でも覚えていた。
「あれが上縞展望塔だとすると、あの街は……」
とうとう最後の段を駆け下りた。街の様子は、さっきより鮮明に窺えた。街の影が、広野の中に不気味に映える。そのビルらしき輪郭の一つ一つの形に、明は見覚えがあった。
あの、塔を挟む両隣の建物の配置。確かに知っている。
「上縞町だ」
明は唸るように呟いた。
するとあの小山のようなところは、丘公園と水見町の辺りか。明は頭の中にある街の構造と、目の前の影を照らし合わせてみた。ひとつ、ひとつ丁寧に確認するが、いずれもピタリと符合する。
疑いようもなかった。目の前に浮かぶ街の影は、間違いなく上縞町のそれだった。
明は時刻を確認した。
『WE 5-10
19:43 32 』
8時近く。かなりの間、あの階段を降り続けていたようだ。
明は何気なくその数字を見ていたが、その時ふと疑問に思った。どうしてさっきは見えなかった周囲が、見えるようになっているのだろう。あの街の明かりがあるにしても、それがここまで届くとは思えない。彼は周囲を見渡した。
何となく来た道の方へ目をやると、ちょうど、空に輝く月が目に入った。
月が見えるだなんて、そんな筈はない。家の扉を開けて以来、ずっと、光の届かない暗黒の中を降ってきたのだ。それも、とてつもなく広大なところを。頭上に空が見える筈はないのだ。
だがそれは、紛れもなく月だった。青々とした光を放つ、美しい半月である。
明は眉間にしわを寄せながら、呆然とそこに突っ立っていた。そうしている間も、彼の学生服は砂塵にまみれ、靴は砂に埋もれつつあった。
光の階段はというと、先の方がその夜空の中に呑み込まれている。どうも自分は、あそこから降りてきたらしかった。まるで童話だ。距離感の違う物体が奇妙に混在している。自分は一体、いつの間に月を追い抜いたのだろう。
もう一度、街の方を振り返ってみる。砂漠の中に、ただ一つ存在する街。
どうにも判然としない。彼は首を捻りつつ、階段と街を見比べた。
暫く悩んだ後、彼は階段に背を向けて歩き出すことにした。結局、彼にはあの街の方へと歩いて行くしかなかったのだ。どうせ再び階段を上ったところで、出口が無いのだからどうしようもない。
それよりもあそこが上縞町だとするならば、自分の家や学校はどうなっているのだろう。今はそっちの方が気になっていた。
明かりが灯っているということは、少なくとも、人が住んでいるということだ。何がどうなっているか解らないが、ひとまずあそこへ行けば、休めるかも知れない。彼はそう考えていた。
頭の奥が鈍く重いし、何より全身がだるい。信じられないことの連続で、彼は心身共に疲れ切っていた。あの長い階段を降るだけで、相当な疲労だったのだ。何よりずっと下へ向かうというのは、どうしようもなく心を不安にさせる。明は恨めしい思いで、光る階段を後にした。
月明かりに照らされて、茫洋とした砂の中を歩いていく。
その彼の背後では、あの階段が音も立てずに、みるみるその姿を消していた。ちょうど、窓に吹き付けた吐息に含まれる蒸気のように。
光の筋が、完全に空の彼方に吸い込まれていったのは、それから数十秒も経たない内の出来事であった。
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