プラスチック

長月 了士

第一章 帰る道

第1話

 周囲を取り囲むのは圧倒的な静寂だった。こつこつと単調に奏でられる靴音だけが辺りに響く。

 明は、夢を見ているような心持ちのまま、ただただ歩を進めた。

 周りには、見渡す限りの暗闇が広がっている。

 明はゆっくりとした動作で、自分の後ろを振り返ってみた。うっすらと光る階段が上に向かって伸びている。階段の行方は、数十メートルほど先からは暗闇に溶け込んで見えなくなっていた。

 それは幾度となく繰り返した行為だった。

 積み重ねられる落胆。再び進行方向を向く。前方には、先ほどまでと変わらぬ暗闇。そして、足元にはぼんやりと光る下りの階段が伸びている。それはひどく無遠慮かつ乱暴な印象を与えたが、その一方で暗黒の中をしっとりと照らすその灯り自体は弱々しく頼りなくもあった。階段の行く先に目を凝らしてみるが、もと来た道と同じように、細まる光は距離と共に暗闇にのまれ、何一つ伺い知ることはできない。

 ここは何なのだろう。自分は、一体どこへ向かっている?

 明の頭の中を、幾度と無く同じ疑問が行き来した。しかし足下の階段は、それに対する答えを一向に示さないばかりか、同じ景色を見せ続けるだけである。延々と続く下りの階段。時間の経過と共に、彼が後ろを振り返る頻度は低くなり、歩調も遅くなっていた。

 周りに見えるのは、完全な闇だった。そこにはまるで果てなど無いかのようだ。さっきから自分の足下でうっすらと妖しい光を放つ階段以外は、何一つ見出すことができない。深淵から、視野の左右の下端へ向かって階段の枠線が寄ってくるような錯覚を覚える。いくら歩いたところで、その光景はいつまで経っても同じだった。

 明は、自分の精神が徐々に限界に近付いているのを感じていた。

 そこで彼は、もう一度立ち止まった。

 そして、吠えた。あらん限りの呼気を全て吐き出す思いで、大声を出した。

 しかし、自分の喉から絞り出した声はこだますることもなく、虚空へ染みだすように消えていった。ここが想像を絶するほど広大な空間であろうことは理解できていた。明は自分の出した声の余韻に全身が火照るのを感じていた。なすすべもなく、またフラフラと前へと一歩を踏み出した。

 この虚空の中で、自分を支えているこの階段が、一体どうやって中空に浮いているのかさえ解らない。まるで本当に、何の支えもなく浮遊しているかのようだ。

 明は自分の正気を疑いかけていた。

 17年という彼の人生を通して、初めて自分の見聞きしているものが信じられないという感覚を覚えていた。聴覚は自分の足音だけを捉え、視覚は階段だけを捉えている。あとは、足の裏に感じる一段の感触。五感から入ってくる情報がそれ以外にないのだ。まるで自分の頭がおかしくなってしまったような気がした。

 普段であれば、今頃はとっくに家のリビングでテレビを見て、くつろいでいる時間であった。このおかしな階段が現れさえしなければ。

 高校から家に帰ったところまでは、いつもどおりであった。しかし、玄関の扉を開けたその瞬間、何の前触れもなく、この階段が現れたのだ。

 この日は学校が終わり、寄り道をして帰ったところだった。井上や須藤、小野川という顔ぶれもいつもと変わらない。ただ、駅前を通りかかった際、ローカル局のTV取材を受けた。いつもと違っていたことといえば、そのくらいのことだった。その時は、我が身にこのような奇妙な出来事が降りかかろうとは思いもしなかった。

 それは、家の玄関を開けた時だった。明は友人達と別れて家路につくと、自宅の玄関前で立ち止まった。見慣れた鉄製のドア。鍵穴にガタがきて開けにくい、愛着のあるドアだ。だが今日に限って、明がノブに手を伸ばしたときに、妙な違和感を覚えた。

 そのまま扉を少し開けると、隙間から冷ややかな風が微かに抜けてきた。明の顔を、その風がしっとりと撫でていく。

 どうして家の中から風が? 彼は訝しんだ。

 おまけによくは見えなかったが、どうも家の中が真暗闇のようだ。玄関の様子がまるで窺えなかった。

 自然と、家の中に居る筈の母の顔が浮かんだ。

 いつもの家とは何かが違うことは確かなようだった。早く様子を確認したいというはやる気持ちを抑えるように、明はゆっくりと深呼吸をした。そしてしっかりと取っ手を握りしめると、そのままゆっくりと開いていった。

 そこに広がっていた景色。それを見るなり、明はその場に立ちつくし、呼吸をすることすら忘れた。

 見渡す限りの、黒。足下を見ると、玄関と靴箱のあった筈の場所が、淡い光を纏った階段になっていたのだ。

 その一瞬、彼の思考は働くのをやめた。呼吸が止まり、瞬きを忘れ、口は半開きになった。どこから必要な情報を収集し、どこから考え始めたらよいかが分からなかった。ただただ目の前の光景を呆然と眺めるだけだった。

 明は、これが何かの悪い冗談であるかと思い、恐る恐る周囲を見回した。だが、家の平垣や庭の木々の間に人が隠れていそうな気配はない。もう一度、我が家の様子に目を向けてみる。先程とまったく変わらない暗闇と、その奥で輝く階段があるばかりだった。

 辺りには誰もいない。念のため、彼は庭に回り込んでそこから家の中を覗き込んだ。普段ならダイニングルームのテーブルやソファ、テレビなどがそこのガラス窓から見える筈だが、今はまるで雲の中を行く飛行機の窓のようだった。不思議な事に、ガラスの向こう側を見通すことはできなかった。一瞬ガラスを破壊するという手段も浮かんだが、まずはじっくりと様子を調べてからの方が良さそうだと思った。

 そこで彼は再び玄関に戻って、中の様子を探ってみることにした。半開きだったドアを完全に開け放つと、再び冷ややかな空気が彼の身体をすり抜けていった。

 誰かに知らせるにせよ、まずは家の中の様子が気がかりであった。それと同時に、怖いもの見たさのような好奇心も働いていた。

 明は携帯電話で写真を撮ることも忘れ、静かに慎重な足取りで一歩前に踏み出した。

 そして、つま先で立つようにして、下の方を確認しようとその身を前に出す。

「うっ!」

 自分の口から、声にならない悲鳴が漏れた。

 家がある筈の場所に、厳然と存在する下りの階段。それが先の見えないほど続いているのだ。まるで、地獄まで繋がっているかのように。

 明はそこでようやく携帯を取り出すと、写真に収めるべく身を乗り出した。

 先がはっきり映らず、さっぱり状況が伝わりそうもない。さらに数歩下ってみる。カツン、カツンという硬い靴音が、短い残響を伴う。思っていたより階段は丈夫そうだった。思い切って、足裏で蹴り叩いてみるが、何の影響もないようである。とても、いたずらの為の作り物とは思えなかった。

 その時だった。

 背後で、金属の悲鳴のような開閉音。続いて『ガチャン』という扉の閉まる音がした。

 聞き慣れた音の響きだった。

 まさかと思い、明は急いで後ろを振り返った。

 その瞬間、明は声にならない声をあげ、全身を引きつらせた。

 そこには既に、扉の形跡が無かった。あるのは、漆黒に塗りつぶされた虚空だけだった。急いで駆け寄って、さっきまで自分が立っていた辺りを手探りする。が、その手は何も掬い取ることはできなかった。

 階段の切れ目、ちょうど明が入ってきた位置に立ち戻り、再び手を前に翳す。

 無駄だった。

 無い。

 何も無い。

 目の前にあるのは、底知れぬ闇と、ぞっとするような虚無だけだった。明は胸ポケットに入れていたミントタブレットを取り出し、その空間へ向かって投げてみた。彼の手を離れたそれは逆上がりをするように幾度もくるくると回転しながら、文字通り放物線を描き、そして音もなく闇の底へ沈んでいった。

 明は、かつて味わったことのないこの不条理な事態に、恐慌状態に陥った。彼は背に担いでいたリュックサックを降ろして両手に抱えると、それを四方八方に振り回した。危うくバランスをて、に身体が出そうになる。だがそれでも構わず、彼は足掻いた。ここでこのリュックが何かにぶつかってくれれば、どれだけ嬉しかったことだろう。しかし、そのリュックは、何物も捉えることはできなかった。

 もはや自分でも何をやっているのか解らなくなっていた。彼はリュックを抱えると、そのまま息が乱れるのも構わず、逃げるように階段を降りだした。昇れないのだから、降るしかなかった。ひたすらに、出口だけを求めて。

 いつの間にやら、彼の口からは、悲鳴とも、叫びともつかぬ大声が飛び出していた。

 通学用のリュックが肩に食い込む。駆け下りる上下動で中の荷物が揺れ、バランスを崩した明は、危うく転げ落ちそうになった。それでもひたすら走る。

 だが、状況は一向に打開されることはなかった。

 走っても、走っても、闇の中から新たに現れる階段、階段……。

 暫く走っても景観に変化が訪れないことで、彼は次第に、とてつもない徒労感に取り憑かれていった。そしてその懸命な疾走は、だんだんと力を失っていき、遂には一段一段を歩くように降る速度にまで落ち込んだ。

 彼は深く息を吐いた。

 呼吸を整えると、一度ちらりと後ろを振り返り、彼は再び前に歩き始めた。

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