H氏のこと

@yonaga

第1話

 H氏はいわゆる普通の人だった。一般的な家庭に生まれ、すこやかな少年時代を過ごし、大学をわりと優秀な成績で卒業して、製薬メーカーに就職した。華やかな容貌ではなかったが、清潔で思慮深げな様子は、誰の目にも好ましく映ったし、氏のことを密かに慕う女性もいたりした。それでいて齢35にして未婚であることなども、氏の仕事に対する情熱を知る友人たちに言わせれば、特段おかしな話でもなかった。氏は唯一、油田を鼻に有していることだけが特別だった。

 

 油田といっても湧き出るのは石油ではなく皮脂なのだが、氏が13歳になった年、その鼻から分泌される皮脂が、第三のエネルギーとしてN国に検知されたのである。N国政府が30年もの間、極秘裏に進めていたプロジェクト―つまり自国の所有するすべての物質を対象にしたエネルギー開発プロジェクト―においてのみならず、有史以来の極めて重要な発見であった。中東のある国から技術提供を受けて開発された、有効なエネルギーとなりうる物質を原子レベルで感知することができるという特殊なレーダーが、生物、それも人間の分泌物に反応するのは前代未聞のことであったが、ごくわずかな量で莫大な利益を生む(これはあとで判明するのだが、不思議なことに、氏の鼻の、たったひとつの毛穴から1日に分泌される皮脂が、ちょうど全N国民が1日に消費する全エネルギーを作り出すに足りる量なのだ)夢のような物質の出現に、当局関係者は色めき立った。


 時の政府は、この物質の汎用化に全力を注いだ。あらゆる可能性と危機を想定して研究チームが組織され、さまざまな分野の頭脳が全国から召集された。数学、解析、相対性理論、分子物理、分子物理、原子物理、プラズマ、天体物理、力学、電磁気学、物理化学、有機化学、分析化学、光化学、地球科学、生物、動物、自然人類学、地球惑星、宇宙科学、医学といった理系分野だけでなく、社会科学や経済学、教育、哲学、歴史、哲学、文学、心理学、宗教学まで、集める側もどこまで手を伸ばしてよいのかわからないほどに広い分野の専門家が集められたのだった。なにぶん前例がないことであったので、H氏の生命と暮らしと尊厳に関わる「あらゆる」ことに備えたのである。H氏と新エネルギーに関するすべての情報は国家における機密ランク「A」をはるかに凌駕する「S級」とされ、ホコリひとつも漏らさないほど厳重な管理体制が敷かれた。その点において、N国は当時、世界中のどの国よりも優秀であった。H氏がたった一人で自国におけるエネルギー生産のすべてをまかない得るという事実は、当局の外の、誰にも知られることはなかったのである。H氏の両親や友人、学校関係者はおろか、H氏本人にさえも。


 一方でH氏の鼻の皮脂は、採取されてすぐさま専門家の手に渡り、さまざまな装置にかけられた(入手方法はごく単純で、研究チームの職員がH氏の家から出た可燃ごみの袋をこっそり開けて、メンズ仕様の青色のあぶら取り紙をピックアップしたのである)。それを基に、DNA構造はもちろんのこと、氏をとりまくすべての環境―生まれ育った気候風土、食べ物、生活習慣から病歴、ひいては嗜好、性格に至るまで―が調べ上げられ、慎重に解析された。分かったのは、この皮脂の成分が、全人類の中でもただH氏だけに特有だということだった。加えてどんな環境下でも、H氏の毛穴内にあるうちは100パーセントの純度を保つことができ、さらにはエネルギー変換効率も100パーセントという、完璧で摩訶不思議な物質であることも同時に判明したのだった。氏が生命として母親の胎内に誕生してから13歳のその日までに受けた、兆をゆうに超える刺激のひとつひとつへの生体反応が精妙にからみあうように作用して、奇跡の物質を分泌しているのだった。それはすなわち、以後、生成の段階でわずかでもバランスを欠けば、たちまちのうちに変質してしまう可能性を持つということでもあった。


「バランスを欠くとは?」

 秘密の建物の奥の奥にある会議室で、総理大臣は専門家に尋ねた。

「例えばH氏が“今日は涼しいな”と一瞬、感じたり、映画を観て悲しい気持ちになったりするだけで、体内のホルモンや、細胞の分裂スピードや、なんやかんやに微細に影響し、生体内のなんらかのバランスが変化して、次の瞬間にはもう、ただの皮脂になってしまう可能性がある、という話です。あくまでも」

 可能性ですが―。秘密の建物の奥の奥にある会議室で、苦しい結果を総理大臣に伝えた専門家チームの責任者は、最後のひとことを言い終えると重く目を伏せた。実際には事はもっと繊細だった。つまり、たまたまH氏が、今日起床したのが5時43分21秒だったとして、これがもし仮に5時43分20秒であったならもう、それはH氏の貴重な皮脂をその皮脂「たらしめない」のであった。奇蹟のエネルギーは、すなわち、H氏が生きる一瞬一瞬が、この世にただH氏ひとりだけの体験であることの証として、分泌される産物なのであった。秘密の建物の奥の奥にある会議室で、一列に並んで座っていた専門家たちは想定しなければならない局面の、あまりの途方のなさと不確実さに頭を抱えた。


 ところがその後、H氏は実に22年もの間、安定的に有用なエネルギーを産出し続けたのである。あの秘密の建物の奥の奥にある会議室で下された最終判断が、これほどまでに奏功しようとは、国家最高峰の頭脳集団をもってしても予測できなかった。N国と専門家たちはつまり、何もせずにH氏を見守ることにしたのだった。H氏におけるすべての自然な人生の営み―思考や行動、生活の全般―に少しでも他者の意図が働こうものなら、たちまちのうちに、国家繁栄の道は閉ざされることになる。超自然資源であるH氏とその人生そのものに不自然な意図をもって関わることは、なんぴとたりとも許されない―。総理大臣の決断は速やかに関係各所に通達され、それを受けた者たちはみな、静かに首を縦に振ったのだった。


 研究チームはそのまま、専門機関へと昇格した。唯一、能動的に動くことを許されたのは、検体採取実働部隊である。1日1回、必ず皮脂を入手しなければならない同部隊には、特殊な訓練を受けた数人の精鋭のみが配属された。彼らはH氏の日常に上手に溶け込みながらも氏に直接関わることなく、実に巧妙に皮脂を採取した。氏が鼻を触った手でどこかに触れればそこから物質を採取し、氏が鼻を拭いた紙は必ず回収された。幸いにしてH氏は身だしなみに気を使う方だったため、部隊のミッションにさほどの困難はなかった。そのほかの研究員たちはH氏の過ごす1日1日を、8時間×3シフト体制でつぶさにモニタリングし続けた。


 そうした22年の間に、石油や原子力は確実にH氏の皮脂に取って代わっていったが、国民がその事実に気づくことはなかった。情報においても実務においても、N国の危機管理は万全で、全研究員に緊急招集がかかるほどの大きな緊張が走ったことは、ただの4回だけであった。1回目は中学の卒業式を終えたH氏が家に帰ると、愛犬が息を引き取っていたとき(氏のそれまでの人生で最大量の水分が、涙という形で体内から奪われたため)、2回目は高校2年時に、所属していたサッカー部のマネージャーから恋心を告白されたとき(氏のそれまでの人生には見られなかった心拍数の急激な上昇)、3回目は大学入試前、4当5落を信じた氏が何ヶ月もの間、コーヒーを大量摂取しながら睡眠不足状態を続けたとき(ただしこの間、皮脂の分泌量は3倍にも増えたため、N国はそれまで消費するだけだったエネルギーの備蓄に初成功した)、そして4回目は仕事で不眠不休態勢が続いたある夜、室温29度であるにもかかわらず「なんか寒い」とつぶやきながらふと窓の外を見た瞬間(氏は当時29歳、当夜は60年ぶりに月が地球に最接近するという日であったが、因果関係不明)であった。もっともそれら4回とも、皮脂の変質率は正常値の範囲を超えることはなく、関係者たちを安堵させた。


 H氏はつまり、心も体も極めて安定している人間だった。初めて酒を飲んだときもタバコをふかしたときも、初めてオートバイを運転したときも、女性と初めてのことに及んだときも、初出社のときも、その女性と自分の親友が結婚したときも、盲腸の手術をしたときも、自宅で空き巣に遭遇したときも、2年間の海外出張を伴う大きな仕事を成功させたときも、両親を看取ったときも。H氏が悲しいとき、嬉しいとき、苦しいとき、そのたびに研究員たちは固唾を飲んだ。しかしどんな環境下で、どんな精神状態にあっても、いつでも氏の皮脂はきちんと一定の量と質を保って分泌され続けたのであった。人間の皮脂がわずかなストレスでも簡単に酸化してしまうことを知る研究員たちは、いつしか氏の揺るぎなさに絶大な信頼を置くようになった。それだけではなく、氏が傷心のあまりなかなか寝付けなかったとき、疲弊しきってズタボロな気持ちになったとき、達成感に満ち溢れながら空を見上げたとき、研究員たちはしばらく己の責務を忘れた。氏の人生に重大な問題が起きたときは、彼が持前のすこやかな精神でそれを乗り越えることを切実に願ったし、氏が人生の課題に真摯に向き合うときは胸の内で本気の声援を送った。もはや、皮脂の変質が起きないのは、氏の心の底にいつも灯っている、ある種の温かな明かりのおかげだと、皆が知っていた。だが、それを口にする者はいなかった。あまりに非科学的だし、あまりに凡庸な答えだったからである。口にする代わりに、ある者は、H氏を見守るためだけに定年後も嘱託職員として勤務し続け、またある者は生まれたばかりの自分の息子に、H氏と同じ名前を付けたりした。配属されたばかりの新人も、氏の心の底を明るく照らす灯がどれだけ貴いものであるか、理解するのにそう時間はかからなかった。


 5回目の緊急召集がかかったのは、ちょうど2日前のことであった。当局は半年前からコンディションイエロー(警戒レベル4)であることを総理大臣に伝えていた。この半年の間、H氏とその周囲には不穏というか甘やかというか、落ち着かない空気が漂い、プロジェクトは新たな局面を迎えていた。つまり、H氏に、恋が到来しようとしていたのである。

 氏の名誉のために記すが、彼の35年の人生において恋慕や愛情というものが存在しなかったわけではない。H氏は両親のことを愛していたし、一人っ子の彼に兄弟を、と両親が与えてくれた犬のことも愛していた。サッカー部のマネージャーに告白されて交際したときも確かに彼女を愛していたし、初めての女性のことも真面目に愛していたし、その後、3年間交際した末に浮気された女性のことも本当に愛していた。氏は誰に対しても誠実であったし、氏を囲む者は皆、H氏のことを、H氏が思う以上に愛していた。

 

 H氏から分泌される皮脂の変質率が、ある幅を超えたことを意味するアラートが鳴ったとき、居合わせた研究員の全部が一瞬、ポカンとしてしまったのは致し方のないところだった。なにせ、この22年間、誰もその音を聞いたことがなかったのだから、音が鳴ることすら忘れていたのだった。しかし次の瞬間、情報はまたたくまに暗号化され、通常国会で答弁中の総理大臣をはじめ、関係各所へ送られた。全関係者が一人残らず持ち場に就き、国会は国民に気付かれないくらいの自然さで与野党が協力し合ってスピーディーに閉会した。恐ろしいほどの静寂が関係者たちを包んだ。

 

 件のH氏はそのとき、かつて技術提供した海外の製薬メーカーを訪ねていたのだった。4年ぶりの訪問であった。この度の出張に当たって、氏は半年前からある女性とメールでやりとりをするようになっていた。女性はメーカーの市場開拓担当で、ふたりは周辺諸国の医療事情から健康意識のレベル、歴史や風俗文化まで多くの情報を交換し合い、意見を述べ合った。彼女の聡明でウィットに富んだレポートを読むのが、いつしかH氏の楽しみになっていることは明らかであった。文章から伝わってくる彼女の心根の良さは誰の目にも魅力的だったし、何よりH氏の、メールを受信してから開封するまでの速度が日に日に、正確には毎日0.03秒ずつ上がっていたのだった。そしてそのころから、ごく正常な範囲内ではあったが、皮脂の変質は始まっていたのである。

 

 この事実を受けて当局は警戒レベルを一気に2段階引き上げ、コンディションイエローが発表された。そこからは変質が小康状態に突入したが、氏の鼻の皮脂が有用なエネルギーであることに変わりはなかった。予断を許さない状況ではあったものの、何かが起きるとしたら、氏が、この女性と対面するときであろうというのが大方の予想であったし、実際に予想は的中したのである。

 

 2日前にH氏が訪問先に到着したとき、現地はちょうどランチタイムであったため、勤めている人たちがぞろぞろと大勢、建物の外に出てきたところであった。なんでもその国ではランチタイムには自宅に戻って食事をする人が多いのだった。氏は、前回の駐在でそのことをよく理解していたし、とても好ましい文化だと思っていた。加えて、どの人もいっとき職務を解かれた解放感で明るい目をしていたので、共感となつかしさで、氏の顔も自然とニコニコとしたのだった。日差しは柔らかく、赤い土の大地も明るかった。そこに伸びやかな若木のように立つH氏を含め、なんとも調和的な光景であった。わずか数秒後に、N国の極秘エネルギー開発プロジェクトがあっけなく終焉を迎えることを、このとき予想できた者はさすがになかった。もっとも予想できたとしても、打つ手もなかったのだが。


 人波に逆らうように建物に向かって進むH氏は何気なく、その中に同僚と談笑しながら自分の方へ歩いてくる一人の女性の姿を見たのだった。なぜだか氏は、その人がかのメール女史だと一目で理解し、同じ瞬間、氏の鼻の皮脂は完全なるメタモルフォーゼを遂げたのであった。つまり、まったく皮脂としての価値だけしか持たない、ただの鼻の毛穴からの分泌物へといっぺんに変質したのである。


 わずかに遅れてN国に届いた、H氏とメール女史の姿を映した映像を見た研究員たちはみな、不思議とすべてを理解した。それまで蓄積してきた各分野の複雑な研究結果のすべてが急に、単純で美しい1本の糸で結ばれたのだった。誰もが長年悩み続けた「エネルギーとは何か」という問いへの答えを得たと感じていた。それは言葉にはできないあやふやなものでありながら、誰もが、揺るぎない正解だと信じたし、満足した。H氏が産出した有用エネルギーの備蓄は約70年分あったが、その使い道や分配を総理大臣に進言する者もなかった。総理大臣は自席に深く身を沈めながらしばらくの間、静かに目をつむった。それから目を開けて、新たなエネルギー開発計画の策定を指示し、もう一度、目をつむった。

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