(11)罪と償い
領主との対面を終えた後、ハゼムは一刻も早くシルフィスのもとへ向かうつもりであった。しかしながら、彼は結局夜半まで城館で待たされることになった。というのも、それがオルクスが出した条件、領主の侍医のひとりという男の都合によるものであったからだ。
その侍医のひとりというのが、オルクスの言った『彼の者』であるらしかった。
だが、ハゼムはメルティンの言葉を思い出し、その話にいささかの疑問を持った。メルティンがオルクスに耳打ちしたとき、かの近臣は侍医とは別に『彼の者』と呼んだのだ。待たされている間、ハゼムはその意味を考えていた。
『彼の者』が姿を現したのは、既に日が落ちた頃であった。その男は、大きな革鞄をひとつ持ち、顔まですっぽりと覆う外套を身に着けて、ハゼムが待たされていた一室を訪れた。その姿に、ハゼムの懸念はさらに増大したのであったが、ともかく今は一刻一秒が惜しい。
「我輩がハゼムと申す者である。貴殿がご領主のお遣わされた侍医の方か」
「はい。私のことはナールとお呼びください、ハゼム殿」
顔を見せない男は、声の調子からみて初老に差し掛かる程の年頃と思われた。背丈はハゼムよりも少しばかり高く、しかし多少腰が曲がっているようである。
「ナール殿。我輩の連れの病状は、朝の時点ですでに相当悪かった。ともかく今は一刻一秒を争うときゆえ、急ぎ向かいたい」
「はい、それはもちろん。急ぎましょう」
「では、よろしく頼む」
そうして、二人は魚油ランプをそれぞれの手に持ち、夜半の暗闇の中に繰り出していった。空は曇って月も星も見えず、いつからか霧雨が降り始めていた。彼らは急ぎ足で街の方へと向かった。
ようやく町の外れまでたどり着き、駅亭を横目にぬかるみ始めた街路を横切ったとき、それまで静かについてきていたナールが口を開いた。
「ハゼム殿、そのお連れの方というのは駅亭にいらっしゃるのではないのですか」
「いいや。実は、連れはこちらで知り合った者の家で看てもらっているのだ。まだ先へ行った民家である」
ハゼムは足を止めずに答えると、そのまま進んでいく。そうしながら、密かに背後を着いてくるナールという男の様子をうかがっていた。
荷背の連れだからということで、ナールはてっきり駅亭に向かうのだと思っていたのであろう。しかし、ハゼムはその時少しばかりナールの声に動揺の色を聞き取ったのである。そしてその動揺の色は、ハゼムが歩を進めるごとにますます強くなっているように感ぜられた。というのも、ナールが周囲の家並みを見回してみたり、人とすれ違うたびに顔をそむける仕草を見せるからであった。
ハゼムはますますこの男への疑念を深めつつあった。そして同時に、一つの可能性を考えて始めていたのであった。
そして、その可能性は、シルフィスの家の前にたどり着いたとき、確信へと変わった。
「ナール殿、連れはここにいる」
「――ああ」
かすれたようなうめき声を、ハゼムは背中に聞いた。そして、この背後のナールなる人物の正体を悟った。
「さあ、ナール殿。どうぞ中へ」
「……ハゼム殿」
「何であろうか」
「もし可能であれば、患者を残して人払いをお願いしたい。『禍』は危険な流行り病。出来る限り、近くにいる方々には離れてもらいたい」
「――なるほど。心得た」
そう答えて、ハゼムは先に中へと入った。ナールは立ち尽くしたままだったが、ハゼムはあえて咎めようとはしなかった。
ハゼムはシルフィスの部屋を訪れると、彼女の寝台のそばには、シルフィスの母がいた。そして、少し離れてルーリエにタシュク、それから若い医者の姿があった。
「ハゼムさん! どうでしたか、領主様とのお話は」
ハゼムが部屋に入ってきたのに真っ先に気が付いたのはルーリエだった。その声に、部屋中の者の視線がハゼムへ集まる
「何とか願いは聞き届けていただいた。表にはご領主の侍医が来られている」
「……そうですか。良かったぁ」
ルーリエはハゼムの答えにほっと安堵の表情を浮かべた。彼女もずっとシルフィスについて、ハゼムの帰りを待っていたのだろう。その顔には疲労の色が色濃く見えた。ハゼムは彼女の肩を軽くたたき、「ご苦労だったな」とねぎらった。
「それで、その侍医の方はなぜ表に? 入ってこられないのですか」
ハゼムの背後を窺いながら、そう問うたのはタシュクだった。
「侍医殿からひとつ頼まれ事をしてな。シルフィス嬢を残して、他の者は退室してもらいたいのだ」
「それは一体なぜ?」
「『湖底の禍』が危険な流行り病だから、と言っていた」
「しかし、ハゼムさんはおっしゃったではないですか。『禍』はそう簡単にうつらない、と」
「それはあくまで、朝お会いした老医師殿の立ち居振る舞いを見たうえでの我輩の推測にすぎぬ。だが、侍医殿はそれと全く反対のことを述べられている。どちらが本当かはわからぬが、安全策をとったほうがよいだろう。――なに、後でご母堂やタシュク殿も医者殿も、後でうつっていないか診てもらえばよいではないか」
その答えに、タシュクもその後ろの若い医者も戸惑いの表情を浮かべた。そのため、ハゼムも後半部の提案を付け加えた。
ともかく、彼らは今しばらくシルフィスのもとを離れがたいようにしていたが、やがて別室へと移っていった。
「私も、別室にですね」
ルーリエが去り際に訊く。寝台の方を気にする彼女も、シルフィスのそばから離れがたいようであった。
「うむ、そうしてもらいたい。そして、ルーリエ。ひとつ頼みがある」
「はい、何でしょうか」
「少しばかり、侍医殿ともめるかもしれぬ。声が聞こえても、誰もこちらへは来させぬように」
「何がもめるのですか」
「我輩は貴嬢が臥せっていることで話をしているからな。話が違うということになる」
そこでルーリエは何か引っかかったようで、首を傾げた。
「でも、侍医の方は、私とシルフィスさんの違いなんて知らないのでは?」
「それは今にわかる」
そう言って、ハゼムはルーリエもシルフィスの居室から押し出した。そして、彼はひとり、表で落ち着かない様子で待っているであろうノールを迎えに行った。
ノールは軒先で待っていたが、案の定、その足元は歩き回ったようにぐちゃぐちゃの足跡が残っていた。
「ノール殿、人払いが済んだ」
「あ、ありがとうございます、ハゼム殿。では、ご案内ください」
ノールをシルフィスの寝室まで案内すると、彼はいよいよ落ち着きをなくした。
「ノール殿、それではよろしく頼む」
ハゼムがシルフィスが部屋に先に入り、そう言い終わるか終わらないかのうちに、ノールは早足で寝台へと取りついた。そこに苦しげな寝顔を浮かべるシルフィスを認めると、彼は抑えた声で慨嘆した。
「おお、これは――! ハゼム殿、一体これはどういうことですかな」
「どういうこととは?」
「まだとぼけられるのか! 私はあなたの連れの方が『禍』に倒れたのだと聞いたのです。しかし、この子は……!」
興奮したノールの声が、抑えきれず少し大きくなる。
「それについては相済まぬことをした、ノール殿」ハゼムはしかし、冷静に応じた。「いや、もうアドアーズ殿と呼んだほうがよろしいかな?」
ノールは目深にかぶったフードを取り払い、ハゼムを振り返る。無精ひげを生やし、深いしわが刻まれた顔が、ハゼムをじっと睨みつけた。その顔は、どこかシルフィスやタシュクと似た雰囲気を有していた。
「いつから、私だそうだと気が付かれました」
ノール、もとい、アドアーズは再び声を落としてハゼムに訊いた。
「貴殿は嘘をつかれるのがお得意ではないようだ。途中からの落ち着かない態度で分かってしまった。――しかし、実を言えば、ご領主はあなたを差し向けるのではないかとも、予想しておったのだ」
「何ですと?」
「当代のご領主は二年前、この街で信望を集める貴殿を何の罪状もないままに捕らえ、以来そのままであると、我輩は聞いた。しかし、それはいくら何でもおかしい。先代ご領主の死に関わったと濡れ衣を着せて極刑に処すのでもなく、本来の仕事を外れ奇怪な実験をした者への見せしめにしたという話も聞かなかった。ただ、捕らえらえて、以来帰らぬ。それが不自然であると、我輩は思った。であるならば、ほかに考えられる可能性は――」
「私が領主様のもとで、進んで何かに取り組んでいる、とでも?」
と、アドアーズがハゼムの言葉を引き取る。
ハゼムは無言のまま、肯定の意の頷きだけを示した。それを見て、アドアーズは大きくため息をついた
「その通り、ご慧眼です。私はオルクス様のもとで、『禍』の治療法を探すお手伝いをしています。そして、それは私自身の意思で、です」
「それはなぜか、訊いても?」
「ここまで知られていますから、構いません。しかし、先に治療に移らせてもらってもよろしいでしょうか。それにはまずこの子が、シルフィスが『禍』に罹った実際の経緯を教えてもらいたい」
今朝までの経緯について、ハゼムは潜水鐘のことを含め、一通りを語った。潜水鐘の本来の発明者である彼に、それは隠し立てすることではないからだ。その経緯説明に対して、アドアーズが二三の質問をしては、シルフィスの顔元を見つめていた。
それが済むと、「では、早速治療を」とアドアーズは言って、寝台のそばの机に腰を下ろした。そして、そばの机に革鞄を置くと、それを開き、中身をランプの明かりのもと探り始めた。
「何故貴殿は、自らの意思でご領主のもとにいようと心定められたのだ?」
シルフィスの額に手を触れ、脈をとり、肩にできた疱疹を覗き込むように見つめるアドアーズの後ろ姿に、ハゼムは再び問いを投げかけた。
「……それは私の罪ゆえに。それに対する償いゆえにです。先代のアイン様は、私がやろうとしたことを咎めず、むしろご興味をもって支援してくださいました。それは大きな幸運でありましたが、今考えてみれば過ちの始まりでもありました」
と言って、彼は一度手を置いた。
「アイン様は、私が殺してしまったようなものです。私の恐れ知らずの好奇心が、あの御方を手にかけてしまった。状況は、言ってしまえばこの子と同じです。私と一緒に御自ら潜水鐘に乗り込まれ、私の無知と不注意からアイン様は『禍』に罹られてしまった。その当時の私には、『禍』に罹られたアイン様にどうすることもできなかった。――それは私の罪です。一生抱えなければならない、大きな大きな罪です。しかし、アイン様の後を継がれたオルクス様は、ご寛大にも私を咎めようとはされませんでした」
アドアーズは額に手をやり、それが大きな苦痛でした、と言った。
「咎めていただければ、私の心はまだ救われたかもしれません。しかし、何のお咎めもなく、城館に呼ばれたのも状況の詳しい説明のためだけでした。オルクス様ご自身が、思ってもみなかった襲位について、ご自身で納得されるためだったのでしょう。しかし、それでは私自身は収まりませんでした。だから、私はその場で申し上げたのです。私に何か償いをさせてください――、と。そして、オルクス様からご提案されたのが、この仕事、すなわち、『禍』の治療法の探究でした。私はそれから死に物狂いでこの仕事に時間を捧げてきました。それが、亡くなられたアイン様への償いと、私をお許しになったオルクス様への報いと思って」
その分、家族には辛い思いをさせてしまいましたが、と彼は汗に濡れるシルフィスの額をぬぐった。
ハゼムは訊いた。
「それで訊きたい。『湖底の禍』の治療とは、果たして出来るものなのか」
「――出来ます。まだ検証段階ではありますが、荷背のお医者様からのご助言もあり、おおむね治療法は確立しています」
アドアーズは開いた革鞄から一本の注射器を取り出した。おそらくは外来の品であろう。彼はそれに小瓶に入った薄い緑色の薬液を込める。それから、シルフィスの日焼けした肩をはだけさせると、念入りに消毒を施した。
そして彼は、注射針を手際よく刺し込み、薬液を注入した。
「しかしなにより、私がこの子を、シルフィスを死なすわけにはいきませんから」
刺し口に布を当てて止血する彼は力を込めて、そう言った。
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