(12)禍の正体
シルフィスが倒れてから三日が経った。その間ずっとしとしとと降り続けていた雨は、この日やっと上がり、久しぶりの太陽が雲間から顔をのぞかせていた。
開け放した窓から差し込む陽光のもと、ルーリエは寝台に座るシルフィスの長い髪を櫛で梳いていた。目をつむり、心地よさそうに身をゆだねるシルフィスの顔色はすっかり良くなっている。
「お元気になられてよかったです、本当に」
ルーリエが櫛を置いてそう言うと、シルフィスは感慨深げに、うん、と呟いた。
前日の昼前、シルフィスはようやく目を覚ました。それまでに回復の兆しは見せていたのだが、意識だけが戻りきらなかったのだ。そのため、彼女が目を覚まし、「喉が乾いた」と言ったとき、彼女は水よりも先に、母の熱い抱擁を受けることになった。
そのあとのルーリエは、久しぶりの食事をぺろりと平らげ、そばにいた者を喜ばせた。彼女の十分な回復ぶりは、報せを受けた駆け付けた若い医者も、もう大丈夫ですと太鼓判を押すほどだった。
「……でも、大丈夫かな。タシュクとハゼムさん」
しかし、シルフィスの表情は少し暗い。
それは、前夜のこと。城館より領主からの使者が訪れたのだ。曰く、ハゼムとタシュクは、翌朝城館までそろって参内せよ、とのこと。その二人が呼ばれるということは、一連の出来事が原因であることは、病に伏していた間の出来事を簡単に聞いたシルフィスにも分かった。それゆえに彼女は、その責任を感じていたのだ。
「大丈夫ですよ、きっと」ルーリエはそんな彼女を励ました。「たった一人の命のためにお医者様を遣わして下さった優しいご領主様です。酷いことはなされないと思いますよ」
「うん、そうならいいんだけど」
そう答えたシルフィスであったが、やはり彼女の顔元は依然として暗かった。それはきっと、彼女の父であるアドアーズの一件があるからであろう。彼女は二人もアドアーズと同じように、城館にとらわれるのではないかと恐れているのだ。
そのアドアーズが三日前にここを訪れ、シルフィスの治療をしたことを、彼女は知らされていない。病み上がりの彼女には衝撃が大きいだろうとハゼムが判断してのことだった。ルーリエは一度駅亭に戻ったときにハゼムから知らされていたが、そのような理由で口止めされていた。時が来れば、タシュクから話をさせる。そういうことになっていた。
「そういえば、ルーリエさんに前から一度聞いてみたかったんだけど」
と、シルフィスが振り返って口を開く。自分が作ってしまった重い空気を吹き飛ばそうとしたのだろう。カラ元気で少し声を張る。彼女はそういうことを気にする子だとルーリエも分かっていたが、「はい、何ですか」とそのまま話に乗った。
「ルーリエさんはどうして荷背になったの? しかも、あのハゼムさんと。もしかして、おじさま趣味?」
「おじさま趣味は違います。ええと、そうですね」
一番大事なところをまずは否定しておいてから、ルーリエは口元に手をやって少し考えこむ。それから、机に置いてあった道具箱を引き寄せて、言葉を続けた。
「――私、実は元居た狭界で髪結いみたいな仕事をしていたんです」
「えっ、そうなんだ。たしかにさっき、手慣れているなぁとは思ったけど」
「そのころの私は、なんだかんだで幸せだったんだと思います。学んだ技術にも、いくらか自信はありましたし、それで生きていこうと一時は考えていました」
ルーリエは、櫛を道具箱に丁寧にしまい、道具箱を閉じてパチンと留め金を止めた。
そして、開いてある窓から外を見る。数日ぶりの青空には白い雲が浮かぶ。つられるように、シルフィスもルーリエの視線の先を追った。
「でも、私はもっと広い世界を見たくなったんです。お店の窓から見える世界よりも、もっと広い世界を」
「広い世界?」
「ええ。そこで連れ出してくれたのが、何の因果か、あのハゼムさんでした」
その時を思い出して、彼女は少し笑う。
「ハゼムさん、自分は実は貴族だっていうんですよ。しかも、元の領地には荷背として旅しながら帰るって言っているんです。なんだかおかしな人でしょう? でも、結局私はハゼムさんと一緒に旅をすることにしました。あの人が見てきたっていういろいろな世界が気になって、あの人がこれから見ていく世界を私も見たくなって」
そこでふと彼女は思い出す。あの潜水鐘の中での、シルフィスとの会話。
彼女は、タシュクが義務感からアドアーズの研究を引き継ごうとしているのだと心配していた。タシュク自身も、実際少なからずそういう思いがあるはずだ。けれど、そのタシュクにせよ、それに結局は協力していたシルフィスにせよ、心の奥底にはきっとルーリエの場合と通底する思いがあったのではないだろうか。
だから、ルーリエはあの時言えなかった答えとして、言葉をつづけた。
「きっとシルフィスさんのお父様や、タシュクさんもそういう人だと思うんです。ただ単純に引き継がなきゃって気持ちだけじゃなくて、職人としてだけでは見れないものを、見てみたかったんじゃないかなって」
「……そっか。その点、協力しちゃってる時点で、あたしも同類なのかもね」
向き直ったルーリエの視線の先で、シルフィスも笑みを浮かべていた。
「私も見てみたかったのかもしれない。お父さんの見た世界」
ハゼムとタシュクは同じころ、城館の小広間にいた。二人は跪き、正面の豪奢な椅子に座を占める人物の人物、――領主オルクスが何事か言い出すのをじっと待っていた。
「来たか、アドアーズ」
「遅れまして申し訳ございません、オルクス様」
広間の右袖から出てきた人物とそのやり取りに、タシュクは思わず顔を上げ、目を瞠った。
「お師匠、ご無事で!」彼の声は感動に思わず上ずる。
「……タシュク、お久ぶりですね」
懐かしい声に、思わずタシュクの腰が浮きかける。それをハゼムは手で制した。
その様子をほほえましそうに見つめるのは、ほかでもないオルクスだった。
「久方ぶりの子弟の再会で嬉しかろうが、話をしてもよかろうか」
「はっ。失礼をば。さ、タシュクもご領主様の御前です。身を引いて下さい」
その言葉にタシュクはいそいそと姿勢を整える。
それを確かめると、オルクスも姿勢を正し、その表情に峻厳さが戻った。
「まずはハゼムとやら。先日のことは後でアドアーズより話を聞いた。荷背の身分とはいえ、仮にも領主に対し偽り事を申した罪、軽くないことはわかっておろうな」
「ハッ、いかようにも罰はお受けする所存でございます」
抑揚のないオルクスの声に、ハゼムは声を張って返事をする。
「良い返事だ。――しかしながら、そなたのもうした偽り事は誰かを貶めるものではなかった。それもまた事実である。それを鑑みて、本来であれば杖刑の罰を言い渡すところ、罪を一等減じよう。貴殿に言い渡す罰は、追放刑とする。自発的に出ていくというのならば、期限は今夕日没まで。それ以降もこの街にとどまるならば、刑吏をやって強制的に執行する。異議はないか」
「ハッ、ご厚情のほど、深く感謝申し上げます」
「ならば良い。……さて、次はそなただ、タシュク」
そう言って、オルクスは今度はタシュクのほうを向いた。その瞬間、タシュクの身体が固まるのを、ハゼムは横目に見た。
「この数日、調べさせてもらったぞ。そなたは魚鱗細工の若者衆やその他の若者らを先導して、潜水装置を作り、それで未明操業の禁を破り実験を繰り返した。これに相違あるまいな」
「相違ございません」彼の声は少し震えていたが、しっかりとしたものだった。
「官吏からの報告によれば、そなたに協力したと申し出たものは皆、そなたに言いくるめられ協力せざるをえなかったと申したそうだ。これに異議はあるか」
「いいえ、その通りにございます」
迷いのないタシュクの返事に、それはきっと事前に取り決めてあったことだろう、とハゼムは感じた。
わずかな時間しか共にいなかったが、あの実験船に関わっていた若者たちが、タシュクを切り捨てるということは到底考えられないと思えたからだ。狙いはおそらくは、タシュクだけがすべての罪をかぶることで、計画が一度明らかにされても実験を続けられるようにするためだ。ほとぼりが冷めるのを待てば、残された者たちでそれが可能だと考えたのだろう。
「そうか。若者衆の本業をおろそかにさせたのみならず、禁令を主導して破らせた罪。これはいかなる事情がありといえども看過できぬ重罪である。刑罰としては、捕囚・労役が相当と思われる。これに何か申し開きはあるか」
そこで一度タシュクの言葉は詰まった。だが、うつむく彼は震える声ながらも何とか言葉を紡ぎだした。
「……ございません」
オルクスはその返事を予期していたのか、していなかったのか。表情を変えない彼の顔からはそのどちらとも読み取れない。彼はただ顎を撫でては、うつむいたタシュクを見据えていた。
「なるほど、罪人とはいえ殊勝な態度だ。しかし、ここにそなたを弁護し、この罰について減じることを望む者がいる。――申してみよ、アドアーズ」
タシュクが、そしてハゼムが、ハッと顔を上げた。
オルクスのそばに立つアドアーズはそこで初めて一歩前に出た。
「オルクス様、私の元弟子であるところのタシュクは罪を犯しました。この罪に関しては私も弁護はいたしません。ただ、その罪に対する罰については、再度ご検討いただきたく存じます」
「と、言うと?」
「タシュクは罪人といえども、この若さで若者衆をまとめあげるほどの力量を既に有しています。これを一時のうちに取り除くことは、若者衆の混乱と、領主様への無用な反感を招くことの害がより大きいと考えられます」
「ふむ。では、そなたはどうするべきと?」
「領主様の益となるように使えばよいかと愚考いたします」
そこでアドアーズは言葉を切り、ハゼムとタシュクのもとまで近づいてきた。そして懐から、線形で底の浅いガラスの容器を取り出した。
それには、わずか爪先ほどの大きさの黒い虫が一匹入っていた。
「タシュク、これが『禍』の正体です」
「これが……、こんなちっぽけな虫が、ですか」
「そうです。この毒虫は普段日が届かぬような湖底に潜み、魚の死骸をむさぼっています。しかし、繁殖期になると、湖底より浮かび出て、湖の深層を泳ぐ魚にわざと食べられます。それは魚の体内に卵を産み付けるためです。そして、その卵からかえった毒虫の子は、産み付けられた魚を内よりむさぼり、成長して、再び湖底へと帰っていきます」
タシュクは信じられないという顔で、虫の姿を見、アドアーズの説明を聞いていた。
「『湖底の禍』とは、この毒虫の毒によって引き起こされるものです。この毒虫は人には寄生できませんが、時には寄生された魚を人が食すことで、時には成虫が潜む泥砂を浚うことで人に接触し、虫が噛むことで毒をもたらします。特に、かつてこの地で行われていたような湖底まで浚って魚を総獲りするような網を使った漁労は、しばしば流行り病のような集団感染を引き起こしました。――これらのことはすべて、オルクス様のご支援の下、私が中心となって調べた結果、発見した事実です」
アドアーズはタシュクの肩に手をやった。
「タシュク。あなたにこの事実を明かした理由はほかでもありません。あなたにはこれから、街で私の後を追おうとするものを抑えてもらいたいのです」
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