(10)目端の利き
「突然の訪問にもかかわらず、お目通り賜り、ご高配に感謝いたします」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。何せあの珍品の持ち主というではありませんか。こちらこそ、わざわざ訪ねていただいて感謝しておるのです」
正午より一刻ばかり過ぎた頃。ハゼムの姿はある豪壮なお屋敷の、応接の間にあった。
跪き、慇懃に礼を述べるハゼムに相対するのは、この屋敷の主人たるメルティンという男である。恰幅の良いこの主人はいくらか相好を崩し、昼下がりの時間をゆったりくつろぐ風であった。しかし、その目ばかりは、ハゼムという人物を品定めするかのように細く鋭い。
「それで、荷背たるハゼム殿が直接私のもとへいらっしゃった理由、お聞きしてもよろしいですかな」
「はっ。聞くところによるとメルティン殿におかれては、我輩が先日駅亭の市場に出品したる青の染織布を大変お気に召され、大いに所望されたご様子。これについては痛く感謝いたします。……ただ我輩、今回その性質のために売るかどうか迷い、取り置きしたる品物があり、これを上得意たるメルティン殿のお目にかけたいと思い参上した次第にて」
「ほうほう。あの青い布地はなかなかの掘り出し物と見たが、他にまだとっておきの品があると」
「いかにも。我輩が先般訪れたる狭界には、あの青い布地を大量に産する街がありました。そこで求めたのが、あの青の染織布と、その原料たる青の染料。その染料を、是非是非メルティン殿のお目にかけたく」
「なんと! 染料までお持ちであるとは!」
メルティンは目を瞠り、前のめりになって強い関心を示した。それは思ってもみなかった話だったのだろう。ハゼムは心中、しめたという気持ちになった。
「これがその染料でございます。当地ではその利用と流通の上の価値の高さゆえに『青金』と称されておりました」
と言って、ハゼムは懐より『青金』の塊を二三個ばかり取り出し、メルティンに披露した。メルティンはそれを近くに取り寄せると、興味深げに取り上げ、様々な角度から眺めまわした。彼はしかし、少々訝しげな表情を浮かべ、ハゼムに訊ねた。
「ふむ、まるで固い炭の塊のようだ。ハゼム殿、本当にこれがあの美しい青になるのかね」
「はっ。それは実は染料のもとになる特殊な植物が押し固められたものなのでございます。それゆえ、そのままでは使い物にはなりません。それをたたきほぐして、特別な黴を生やしたうえで水に入れ、一定の期間醸すことで、あの美しい青を呈するのでございます。そのような癖のある代物でございますから、取り置いておいたのです」
ハゼムがそうスラスラと言い並べた説明は、ルーリエから聞いたことの全くの引き写しである。元々水に溶けない性質の『青金』は、そのような面倒な工程を経なければ全く染料として役に立たないのは事実だ。実際のところ、ハゼムが『青金』を駅亭の市場に出さなかったのは、この性質がツムガヤ以外の地で容易に再現できるとは思われなかったためだった。だからこそ、ハゼムは先んじてルーリエに使用法の説明書きを作らせようとしたのである。今のところ、この説明書はまだ未完成なのだが、しかし、今のハゼムの企みにはそれが逆に幸いしたところであった。
「ふん、確かによくよく見れば繊維状の模様が見える。これをほぐすということか、なるほど。それに、製法も近いものがあると聞いたことがある。貴殿の話、一応信じることとしよう。――して、どれほどの量をお売りいただけますかな」
「我輩の持ち分は大人の男が何とか背負えるほどの俵、これが五つでございます。このすべてをお譲りしたい。そして、値段についてですが、――ある条件付きで、俵四つ分にてお渡しいたしたく存じます」
「それはまた、荷背の御仁にしては妙な申し出だが。……して、その条件とは?」
貴重な商品を極端に安売りするという申し出に、屋敷の主人は口元に喜色を隠せないながらも、やはり奇妙なものを見るような目でハゼムを見た。ハゼムは、その主人の目に対し、顔を上げ、彼ができる精一杯の哀願の表情と声音でこたえた。
「ご領主様にお会いして、どうしてもお願いしたいことがあるのです」と。
「領主様にお会いする? それは一体どうして」
時はさかのぼり、場所はシルフィスの家。
ハゼムの何の脈絡もない問いに、タシュクはたじろぎ、訊き返した。
「そんなものは決まっている。シルフィス嬢の命を助けるため、お願いに上がるためである」
「いやしかし、いかに領主様でも『湖底の禍』をどうにかするすべなどご存じであろうはずがありません。前回『禍』が起きたというのは、百年近くも前のことです。それに当代はまだお若くあらせられる。とてもどうにかなるとは――」
「だが、もし先代のご領主の急死の原因が、『湖底の禍』であったとしたら、どうなる?」
「えっ! いやまさか、そんなことがあるはず……」
タシュクは一瞬ハッとした顔をし、視線を空に彷徨わせた。それはタシュク自身の言葉に反し、そうと考えたことが無きにしもあらずということを言外に表していた。
「貴殿は先日言ったな。先代はアドアーズ殿の潜水鐘に大いに興味をもたれ、その研究の後ろ盾となられたと。そして、そのお人柄というのが街の庶民の間に分け入って気さくにお話をなさるような方であると」
「ええ、言いました」
「そのような御仁であれば、潜水鐘の実験にもご興味をもたれ、御自ら乗り込むようなこともあったのではないか。ちょうど昨夜の我輩がそうしようとしたように」
「――無いとは、言い切れませんね。アイン様はハゼムさんがおっしゃる通りの御方ですから。……となれば、もしかすると」
タシュクは少しばかり悩んでいたが、シルフィスを見た。ちょうど彼女のように、潜水実験で湖底にたどり着き、彼女と同じ何らかの事象が原因となって『湖底の禍』に罹った。そう考えられなくはないと、彼も認めたのである。
「それに、先ほどの老医師殿の様子にも不審な点があった」
「師匠に、ですか」
若い医者の男が訊いた。
「聞くところによると『湖底の禍』は流行り病とのことだ。であれば、普通は病がうつるのを恐れるはずだ。ちょうど貴殿のように」
そう言って、ハゼムは若い医者の男の口元、鼻と口を覆う布を指さす。次いで彼は、タシュクの方へも向き直った。
「それにシルフィス嬢のご母堂はともかく、タシュク殿も多少腰が引けているようだ。先ほどからシルフィス嬢に近寄ろうともしない」
「これは……。いえ、その通りです」
タシュクは恥じ入ったようにうつむいた。
「いや、それが普通のことなのだ。誰しも流行り病は恐ろしいものだ。何もおかしなことではない。――だが、あの老医師殿は違う。口覆いもつけていなければ、患者の体に触れるのにも一切の躊躇がなかった。あれは『湖底の禍』がその程度ではうつらぬことを知っているからであろう」
「それでは、ハゼムさんがおっしゃりたいのはこういうことですか。つまり、先代のアイン様は『湖底の禍』で身まかられ、その際に先ほどの先生がアイン様を診られた、と」
「この街で最年長の医師だからということで呼ばれたのではないかと推察するが、おそらくはそういうことであろう」
「……ですが、だからといって領主様にお会いしてどうにかなるのですか」
タシュクは一連のハゼムの話は理解した。しかし結局のところ、どうして最初の結論、すなわちシルフィスの命を助けるために領主に会う事につながるのかが解せなかった。
それに対し、ハゼムは堂々とこう答えた。
「そこは我輩の勘働きである」
「勘、ですか」
タシュクは思わず絶句した。ルーリエ含め、他の者もみな同様である。彼らは驚きと呆れの入り混じった目でハゼムを見た。
「根拠に乏しいことはわかっておる。だが、過去に兄君の命を奪い、将来にわたっては領民の命を危うくするようなこの病を、当代のご領主が放ってはおかれぬであろうという我輩の勘である。まあ、心配するでない。我輩、目端の利きにはいささかの自信があるゆえ」
自分の周囲を取り囲む半信半疑の目に対し、ハゼムは最後の言葉を付け加える。しかし、それでも彼の結論が、憶測の域を出ないことはやはり明白であった。
「それで、どうだ。タシュク殿に、ご領主とお会いするための名案はないか」
ハゼムは気を取り直すように咳払いをして、タシュクに改めて訊ねた。
「そうですね」タシュクは顎に手をやり考え込んだ。「荷背であるハゼムさんであれば、メルティン様を通せば、もしかするとうまくいくかもしれません」
「メルティン殿とはどのような人物か」
「領主様の側近のおひとりです。当代のオルクス様はもちろん、先代のアイン様、それにお二人の父君である先々代の領主様にずっと仕えていらっしゃいます。この御方は外来物好きで有名でして、駅亭の市場に家宰のひとりを常駐させるほどとか」
「ふむ、まさに願ってもない人物だ。そのメルティン殿であれば、ご領主との面会も取り合ってくださるやもしれぬ。ちょうどこちらにも、うってつけの品があるのでな」
「ハゼムさん。もしかして、『青金』を取引に使うのですか」
そのとき、一人蚊帳の外であったルーリエが察したように声を上げた。
「いかにも。他に適当な珍品など持ち合わせてはおらぬからな」
「それじゃ、私もついていきます! 『青金』の使い方の説明が必要でしょうから」
「いや、ルーリエはここに残っておれ」
先日、ルーリエは『青金』の説明書をハゼムから依頼されたものの、忙しい中でまだそれは出来上がっていない。それゆえ彼女としては、自分が行かなければ話がまとまらないと考えたのだ。
だが、ハゼムはあっさりとその申し出を断った。
「えっ。ど、どうしてですか」
ルーリエが不満そうにハゼムに訊ねる。
「メルティンという近臣、そしてご領主へ治療を頼み込む際は、ルーリエ、貴嬢が『湖底の禍』にかかったことにするからだ。その方が、荷背である我輩が連れの命を助けてほしいと懇願するという意味で真実味が増すからな。それに真正直にシルフィス嬢の名を出せば、彼女やタシュク殿ほか、大勢の者に咎が及ぼう。それを防ぐためでもある」
「でも、『青金』の使い方の説明はどうするんですか」
「貴嬢が『湖底の禍』に伏したということになれば、それは『青金』の使用法も風前の灯火ということ。件の近臣が、タシュク殿が言うほどに欲の深い人物であれば、そういった事情の方がよっぽど便宜を図ってくれようというものであろう」
「な、なるほど。それも交渉材料になるんですか」
と、ルーリエはようやく納得の表情を浮かべた。
「では、我輩はこれより駅亭へ立ち寄り、しかる後にメルティン殿の居宅へ向かおう。なるべく急ぐつもりではあるが、気を長くして待っていてくれ。お若い医師殿も、シルフィス嬢のこと、よろしく頼む」
「――ハゼムさん」
早速、出発しようとするハゼムをタシュクが呼び止めた。
「本来部外者であるあなたに、こんなことまでしてもらうのは筋違いでしょう。しかし、今となってはあなたしか頼れそうにありません。どうかよろしくお願いします」
「うむ、成功を祈っておいてくれ」
ハゼムは深く礼をしたタシュクの肩を軽くポンポンとたたき、身を翻して、まずは駅亭への道を急いだ。
そして、時は再び戻り、日が少し傾きかけた昼下がり。領主の近臣メルティンの最大限の便宜により、ハゼムはいよいよ決戦の場にいた。
「――ハゼムとやら、述べたいことは以上か」
湖に突き出た半島に鎮座する城館。その面会用の小広間の真ん中に、跪くハゼムの姿があった。
広間の一段高い場所には、若き領主オルクスが豪奢な幅の広い椅子に座を占めていた。その傍らにはメルティンが立つ。それ以外の者は、重要な話ということで人払いされていた。
「ハッ。以上でございます。是非ともお聞き届けのほどを」
「さて、どうしたものかのう」
抑揚のない声で、オルクスは呟く。
まるで何事にも関心がないかのような無感情な声。それは彼特有の普段からの癖であったのだが。聞く者に一種の不安感を呼び起こす。ハゼムは事前にメルティンから聞いていたものの、それでも実際に耳にすると、なるほど不安と緊張を倍増させるような声音である。ただそれだけで、明朗快活にて庶民とも親しかったという先代領主とは、まるで違う人物なのだということがおのずと知れた。
「メルティンはこの者の言うこと、どう思う?」
「はい。事の真偽はわかりかねますが、真実であれば由々しき事態。早急に対応すべきかと」
「対応とは、いかに?」
「侍医を差し向けましょうか。……それとも、彼の者に診させるのはいかがでしょう。どちらにせよ病人は荷背の者、仮にうまくいかずとも大ごとにはなりませぬ」
後半部を、メルティンはハゼムには聞こえないように、オルクスの耳元で言う。しかし、三人しかいない静かな小広間である。言葉の端々は跪いたままのハゼムの耳にも届いていた。荷背の者を軽く扱うことに腹が立たぬわけではなかったが、これとて流れ者の身の上ゆえよくあることでもある。ハゼムはジッとこらえていた。
「では、そなたはこの者の言う通りにせよ、と。そういうことか」
「畏れながら、事は急を要するかと」
「ふむ、確かにそうだ。事は急がねばなるまい。――しかし、メルティン。急を要することとは、また別にもあるのではないか」
「は?」
少しばかり、オルクスの口調が変わった。それは些細な差異だったが、聞く者が怖気立つような冷たいものであった。
「私たちが急がねばならぬのは、まず何よりも『禍』の生じた原因の究明と、領民の間での伝染具合の調査であろう。荷背ひとりの命、言ってしまえば何ほどのことやあらん。そうではないか? なあ、メルティンよ」
「し、しかしながら……」
「街の医師たちから、『禍』が出たという報せは一件すら私のもとまで上がってきていない。仮に荷背の者であっても、駅亭の亭長に報告するよう伝えてあったはずなのに、だ。これは些かおかしいことではないか。そもそもの話、『禍』は流行り病。仮に誰ぞ掟を破り網を使った者がいるとして、その被害が荷背ひとりで済むことがあり得ようか」
「……まだ報告が上がっておらぬだけかもしれませぬ。そうであれば、なおさら急がねばならぬでしょう。もちろん、領主様のおっしゃる通り、被害の原因と広がりの把握を優先して」
メルティンは少々苦しそうに答える。脂汗をかくその肥満体の老臣を、オルクスは顧みて問うた。、
「また、もう一点ばかり気にかかることがある。なぜこのハゼムという男が、メルティン、貴殿を介して私に直訴しようという考えに至ったか、という問題だ。『禍』は不死の病。その程度のことは、町医者の見習いでも知っていること。このことについては訊いたのか」
「それは」メルティンはごくりと唾を飲み込み、額の汗をぬぐってから答えた。「この男の言うことには、街である噂を聞いたと。すなわち、先代のアイン様が『禍』によって亡くなられた、と。そのため、城館の医師であれば少なからず『禍』の治療について知っている、と」
その返事を聞いて、オルクスは再度正面に向き直り、跪くハゼムの姿をじっと見つめた。
「ほう。それは奇怪な噂が流れていたものだ。兄君が『禍』に倒れられたとは。私の耳には一切入って来なかった風説だな。メルティン、そなたはどうだ」
「はあ、私めも先ほど初めて聞いたばかりでございます」
今やメルティンの声は震え、ところどころ裏返り、汗のしずくが丸い顎を伝ってポトリポトリと床に落ちていた。それを知ってか知らずか、オルクスはハゼムを見据えたまま、問うた、
「ということだが、ハゼムという男。貴殿はそのような怪しげな噂、どこで耳にしたのだ。申してみよ」
それは微妙な問いであった。答えを仕損じれば、街の誰かの身が危うくなる。
ハゼムは一拍の間を置き、考えた末にこう答えた。
「――湖の」
「何?」
「湖の魚がそう申しておりました」
その答えを聞いたオルクスは、ハゼムから視線をそらさず、静かに考えに耽っているようであった。ハゼムは正面からその視線を受け止め、オルクスの次の言葉を静かに待った。それは賭けの結果を待つ心持に等しかった。
やがて、オルクスの口元が、ふと愉快そうに緩んだようにハゼムには見えた。
「メルティン」
「はっ」
領主の呼び声に、メルティンは恐懼して答えた。
だが、その次に続いた言葉は意外なものだった。
「この者の連れ、助けてみようではないか。彼の者を召し出せ」
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