(7)禁忌に挑む

 三人の間に沈黙が漂う。その気まずさの中で、一人置いてけぼりの感が否めないルーリエは、ハゼムとタシュク、両者の顔色を交互に窺っていた。

 タシュクは、ハゼムの『湖底の禍』という言葉で顔色を失い、緊張したように顔の筋肉をこわばらせている。一方、ハゼムはというと、余裕綽々といった態で、口元には不気味な微笑みさえ浮かべているのだった。

 とはいえ、ルーリエにとってわからないのは『湖底の禍』という言葉である。その言葉自体は彼女も聞いた覚えがある。確かそれは、市場での商人との話の中で出てきた単語だったはずだ。湖での漁労が釣りと銛突きとに限られる理由とのことだったが、それ以上のことは聞けなかった。ハゼムはあの後、誰かにさらに詳しいことを聞いたのだろうか。しかし、ルーリエが覚えている限り、ほとんど行動を共にしていたハゼムがその話を詳しく誰かに聞いていたなどという記憶は皆無なのだった。


「ハ、ハゼムさん?」


 ついに沈黙に耐えかねて、戸惑いがちに口を開いたのはルーリエであった。しかし、何かな、ルーリエ? と応じるハゼムは、場の雰囲気に反して実に普段通りである。


「『湖底の禍』って何でしょうか」ルーリエは横目にタシュクの様子を窺いながら訊く。

「おや、貴嬢は聞いていなかったかな、湖で網を使った漁労ができない理由ではないか」

「いえ、それはわかるんですけど」彼女は少し戸惑った。「その理由の中身ですよ。そもそも『湖底の禍』とは何か、ハゼムさんは知っていらっしゃるんですか」

「いいや、知らぬ」

「えっ!?」


 驚いたのはルーリエばかりではない。それはタシュクも同じだった。

 一方、ハゼムはひょうひょうとした様子で、そんな戸惑胃の表情を浮かべる二人を眺めていた。


「我輩が知っているのは先ほど言った通り、湖での漁労で網が使えないということ。そして、その理由が『湖底の禍』という何らかの禁忌(タブー)によるものだということ。それだけである」


 このようにしれっと言ってのけたハゼムを、タシュクが睨む。彼は悔しそうに唇をかみしめていた。


「カマをかけたんですか」

「『迷宮』そのものを禁忌として見られる事が多い荷背として、そのあたりの感覚には敏いものでな。しかし、我輩にはカマをかけるつもりはなかったが、どうやら貴殿は勘違いされたようだ」


 ハゼムは、やはり泰然として言葉を続ける。


「ここに模型があるということは、実物もまたある。あるいは、これから作ろうというところだ。そうではないかね、タシュク殿」


 ハゼムの問いに、タシュクは黙して答えない。だがハゼムは、既にお見通しであるとでもいうように、視線でタシュクを射すくめた。


「そしてこれほどの計画、とても一人では遂行できまい。同志がいて当然とも思うが、いかがかな。模型がここにあることからすると、例えば、この工房の職人衆であるとか」

「……まったく、そこまで推察されるとは」


 タシュクは眉間に手をやり、遂に諦めたようにため息をついた。そして、彼は改めてハゼムに向き直り、問うた。


「逆に訊きましょう。貴方の目的は何ですか」

「貴殿が危惧しているのは、我輩達がどこかしかるべきところへ、貴殿らの企みを通報するのではないかということであろう。しかし、それについては心配ご無用である。我輩達にはそのような思惑はない。私が欲しいもの――、それは説明だ。さっき言った通りの情報しか我輩は持ち合わせていないのでな。どうして貴殿らがこのような大掛かりな道具まで使って、『湖底の禍』とやらに取り組もうとしているのか、ということの一通りの説明である」

「なぜですか。なぜ、そんなにこだわるのです。このことは貴方とは関係ないはずのことです」

「そう、関係ないだろう。皆、貴殿らの企みだ。しかし――」


 ハゼムは一度言葉を切った。そして、潜水鐘の模型を愛おしげに撫でて、こう続けた。


「我輩の動機は、あえていえば興味だ。貴殿らが挑もうとしているのはこの地における禁忌である。それにあえて挑もうという試みへの興味関心、その一点に尽きる。それではいけないかな?」


 タシュクは黙り込んだ。その目には逡巡の色が見られる。だが、やがて彼も決心がついたようだった。


「分かりました。全てお話しします。自分についてきてください」




「――『湖底の禍』とはこの地に伝わる災厄です。そしてそれは、歴史上幾度も起こり、直近ではおよそ百年前にも起こったといわれています」


 工房のさらに奥、舟屋造りの宿舎へ向かうというタシュクについて歩く途上、彼は語りだした。

 曰く、『湖底の禍』とは、いわゆる一種の流行り病であるというということ。それは決まって、湖の掟を破り、網での漁労を行ったときに起こるのだ、と。そしてひとたび起これば、まるで掟に反したことを戒めるかのように、多くの領民の命を奪っていくのだ、と。ゆえに、街の漁師は皆この伝承をまじめに受け止め、今でも守っているのだという。


「もちろん、この伝承に疑問を持ち、原因を探ろうと考える人も出てきました。けれど、時の領主様やその側近衆、そして街の組合組織がそれを抑え込んできたのです。しかし、五年前に転機が訪れました。先のご領主イアン様の襲位と、シルフィスの父であるアドアーズさんの潜水鐘の発明です」


 先を行くタシュクと、その後を追うハゼムとルーリエ。幾たびか工房の職人とすれ違い奇妙な目で見られたが、そのたびにタシュクが問題ないと手を振って合図していた。

 彼らは次第に工房の深部へと差し掛かっていた。


「アドアーズさんは、伝承に疑問を持った一人でした。しかし、あの人一人ではとても禁忌に挑むなんてことはできませんでした。そこに手を差し伸べてくださったのが亡きイアン様だったのです。他のご領主であれば、潜水鐘は取り上げられ、アドアーズさん自身も無事ではなかったでしょう。ですが、イアン様はアドアーズさんの発明を公認され、領民にアドアーズさんへの協力を許し、あまつさえご自身も潜水鐘研究の後ろ盾となられたのです。それはひとえに、領民を脅かす悪しき伝承を取り払わんとされる御心からのお振舞でした。まさにその時、山が動いたのです。」


 五年前といえば、タシュクは幼い子供だったのだろう。そして、彼はシルフィスの父であるアドアーズの弟子であったともいう。きっと、そのときの感動は彼の心に深く刻み込まれているのだ。その証拠が、興奮を隠せずに語る彼の横顔だった。

 しかし、そこで彼の横顔に影が差した。


「――ただ、現実は残酷でした。潜水鐘がまさに完成しようというころ、イアン様は突然の病に倒れられ、そのままお亡くなりになってしまったのです。そして、それからは全てが元に戻ってしまった。後をお継ぎになったオルクス様は、アドアーズさんを捕らえられ、潜水鐘の発明に関わるものほとんどすべてを没収されました。規則もすべて元に戻り、アドアーズさんに協力した者は街の要職からも外されました。――ですが、街の人々の間に一度生じた、亡きイアン様への思慕とアドアーズさんへの尊敬の念までは決して消え去りはしませんでした。街の人々の多くは、口には出さずともその思いを共有しています。そして一部の者、自分や自分の思いに共感してくれる仲間たちがアドアーズさんの意思を継ごうとしています」


 タシュクは、一軒の大きな舟屋の前で立ち止まる。そして、その重そうな開き戸を開いた。

 舟屋の中では幾人かの、タシュクと同年代の青年たちが何やら作業をしていたようだった。突然の思ってもいなかった来訪者に、彼らの顔は一様に驚きの表情に変わる。一人がタシュクに詰め寄ったが、タシュクは二人は協力者だからと告げて、彼らを安心させた。


「見ていただけますか。これが、その思いの結晶です」


 舟屋の中には一艇の中型漁船が停泊していた。その船の中央に据えられたのは、あの模型を数倍に拡張した本物の潜水鐘だった。仮設の吊り下げ機が潜水鐘を吊り上げられるように準備してあり、おそらく外来製の発動機までもが船上には据え付けられている。船は今からでも出航可能に見えた。


「予定では明晩、最後の潜水実験をやるはずでした。いかがされますか、ハゼムさん?」

「フム、もちろん同行させていただこう」


 潜水鐘の実物を前に、目をキラキラとさせたハゼムは、実に満足そうに頷いた。




「それで、どうして私が同乗者なんですか!」


 実験決行の夜、湖は霞におおわれていた。しかし、それは計画に元より織り込み済みであり、熟達した船乗りの指示のもと、潜水鐘の実験船は湖の沖合へと若者たちの手によって静かに漕ぎだしていた。

 その船上。思ってもみなかったことに不満げな悲鳴を上げたのはルーリエだった。


「仕方がなかろう。本来であれば、我輩が乗り込みたいくらいだったのだが」

「申し訳ありません。構造上、小柄な方でなければ乗り込むのが難しいもので」


 ルーリエに対し、ハゼムは残念そうな表情でたしなめ、タシュクが申し訳なさそうに謝る。

 実は出来上がった潜水鐘はただでさえ小さめなうえ、強度を高めるための梁を内部に何本もめぐらしたために、人が乗り込む空間が極端に狭かったのである。そのため、ハゼムは強く希望したにもかかわらず、体格の都合上、乗り込むことが困難であることが後から分かった。

 そして、その代役として抜擢されたのが、当人は思ってもみなかったルーリエなのであった。


「大丈夫だって。あたしがついているからさ」


 と、ルーリエの肩に手を置いて慰めたのは、水着の上から一枚布を羽織ったシルフィスである。彼女もまた、この秘密の計画の当事者であって、本来の潜水鐘の搭乗者だった。ハゼムに計画を見破られた後、彼女は急遽として合流し、相談の上、ルーリエとともに実験に挑むことが決まったのだ。


「でも、この服だって、私……」


 いまだに不満げなルーリエはそう言って、自分の今の姿に目を落とす。

 その姿はシルフィスと同じく、一枚布を羽織っている状態だ。その布の下には出航の前にシルフィスに無理やり着せられた、あの魚皮製の水着を身に着けている。なのだが、その異様な密着感といい未経験な着心地といい、まるで裸のような心もとなさを彼女に与えているのであった。


「ルーリエ、普通の服を着ているほうが溺れてしまう可能性が高くなるぞ」

「それでも、この服は苦手なんですよぉ」


 少しでも心細さを紛らわそうと自分の身体を抱きしめながら、ルーリエは泣き言を繰り返す。そうこうしている間にも、船はゆっくりと水面を滑っていく。

 そして、船頭から合図を出されたタシュクが仲間たちに声をかけた。


「皆、そろそろ潜水地点だ。――二人とも、心の準備はいいか」

「うん、大丈夫!」

「もう、やるしかないんですね……」


 タシュクの指示のもと、人力で仮設の吊り上げ機で潜水鐘が持ち上げられ、ルーリエとシルフィスの二人はその中にもぐりこんだ。二人が梁の間を縫って腰掛に身を落ち着けると、唯一外をのぞける半球状のガラス窓(これは外来製品だという)ごしにハゼムやタシュク達が手を振るのが見えた。

 吊り上げ機が潜水鐘を更に引き上げる。そして持ち上がった潜水鐘を船上の男たちが湖面へとなるべく揺らさないように押し出していく。もちろんその中には、泣く泣く湖の冒険をあきらめざるをえなかった伯爵ハゼムの姿もあった。


「落ち着いて、落ちたりはしないから」


 そう言ってシルフィスは、潜水鐘が揺れるたびにびくつくルーリエをなだめる。聞くところによると、彼女はこれまでの実験に何度も参加し、既に慣れているとのことだった。

 そして、最後にガコンと一度大きく揺れて、今度は潜水鐘が湖面へとゆっくり降ろされていく。やがて、鐘の縁が湖面に達した。


「大丈夫?」


 これもまた外来品だという電池式の室内灯をつけながら、シルフィスはルーリエに訊ねる。


「はい、大丈夫です。多分……」

「よし。じゃあ、行こうか」


 シルフィスは潜水鐘の天井からぶら下がる吊紐を二度引っ張った。それは船上のベルと鋼線を介してつながっており、潜水開始の合図であった。

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