(8)銀箔の星空
潜水は静かに、そして順調に進んでいった。潜水鐘の空洞に響くのは、ただただ送気管を通って送られてくる空気のゴオゴオという低い音のみである。
シルフィスは電池式投光器の電源を入れて、それを湖底へ向け、光線の先をじっと観察していた。その投光器はやはり外来製の代物ということで、潜水鐘の中を照らす電池式ランプとは別に、舌の代わりに鐘の中央に吊り下げられている。似たようなもので言えば灯油ランプかガス式ランプしか見たことのないルーリエにとって、それらは興味の尽きないものであった。
だが、彼女には潜水方向を見守るシルフィスの代わりに、一定の間を置いてベルを二回ずつ鳴らす仕事が託されていた。そのため、今までにないほど真剣なシルフィスの横顔と、なめらかな曲線を描く投光器の造りに目を引かれつつ、その仕事を忘れないようにやっているのだった。
そうしているうち、彼女の視線も誘われるように、投光器の光が照らす先へと導かれる。床のない潜水鐘の内側に揺れる水面、それを照らす白光の先にはまだ何も見えてこないようではあった。そういえば、ルーリエはこの湖が一体どれだけ深いのかを知らない。湖面の巨大さに比例して深いのだろうか、それとも案外浅いのだろうか。それも分からないまま、今ここに来てしまっている。
このまま沈黙がずっと永く、永く続いていくのだろうか。そんなことを考えてしまい、ルーリエは身震いした。
と、その時。投光器のまばゆい光の先で、ふわりと砂が舞うのが見えた。
「ベル、三回鳴らして!」
それまで沈黙を保っていたシルフィスから、鋭い指示が飛ぶ。
嫁伝の支持にルーリエは慌てて、吊紐を三度、素早く引っ張る。うまく合図が届いてくれたのか、潜水鐘の沈降は、ガクンと響いた揺れとともにどうやら止まったようだった。
ずっと前かがみで湖底を見張っていたシルフィスは、体を起こすと、落ち着いたようにふうと息をついた。
「何とかうまくいったみたい。もっと浅い場所では試したことがあるんだけど、ここまで深い湖底まで来たのは初めてだから、緊張しちゃった」
ルーリエとシルフィスは、今は濁って白く光を反射する水面をそろって見つめていた。
シルフィスが教えてくれたことによると、さっきの砂煙は潜水鐘の重りが湖底に着いたためらしい。それが潜水停止の目安になるようで、余りに合図が遅れると、そのまま潜水鐘が湖底に突っ込んじゃうんだよ、と彼女は笑って話す。しかし一方のルーリエは、そんな大役を託されていたのかと、いまさらながら震えてきて、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
濁りが収まるのを、二人はしばらく待つことになった。
「濁りが収まったら」と、シルフィスは自身の横に積んである小さな蓋つきの桶を指さす。「こっちにある桶の中に湖底の砂を入れるの。それを持って帰ってタシュクたちが調べるのが、今回の目的」
「湖底の砂を?」ルーリエは桶を眺めながら訊ねる。「それで何がわかるんですか」
「あたしにもよくわからないんだけど、タシュクたちは、この湖の底の砂に『湖底の禍』の原因があるって思っているみたい。もっと言ってしまえば、あたしのお父さんも同じように考えていたらしくて。タシュクはお父さんの弟子だったから、自分がお父さんのやっていたことを引き継がなきゃって思っているのかもしれない。だけど――」
「だけど?」
「あたしは別にいいのにって思っているんだけどね。そんなこと考えなくてもって。タシュクは職人としての腕があるんだから、それで食べていけるのにさ。わざわざいろいろな人を巻き込んで、危ない橋を渡らなくてもって」
「それは……」
ルーリエには、何と言えばいいのかわからなかった。シルフィスはそんな風に思いながら、タシュクたちがシルフィスの父の実験を引き継ごうとしているのを見ていたのだ。それはきっと真っ当な考えであるのだろうと、それだけはわかった。けれど、ルーリエには、そんな彼女に伝えるべき何かがあるような気がしてならなかった。
「だいぶ濁りが収まってきたね」
ルーリエの思いが彼女の中でぐるぐると堂々巡りをしているうちに、シルフィスはそういった。その言葉につられてルーリエも足元を見ると、白い靄のような濁りがほとんど薄れて、湖底が見えるようになり始めていた。そして同時に気が付いたのは、何か湖底の砂にキラキラと光るものがあるようだということだった。けれど、水面が揺れて投光器の光を反射するために、はっきりとその正体はつかめない。
「これって……」
シルフィスもルーリエと同じことに気が付いたらしい。彼女は少し考え、それから投光器の電源を一度落とし、それをグイっと引き上げた。どうしたのかと彼女を見ると、シルフィスは手招きして言った。
「外、見てみよっか」
シルフィスの背後には、半球型の窓がある。そこから投光器の光を外へ向けて、どうなっているのか見ようということらしい。ルーリエは、潜水鐘の縁に沿って張り巡らしてある腰掛を、おっかなびっくり伝っていって、シルフィスの隣まで行く。ルーリエが移動したために、潜水鐘は若干二人がいるほうへ傾ぎ、方々できしむ音を立てた。
「先にあたしが見てみるから、投光器を持っててくれる?」
半球状の窓に投光器を近づけると、窓の大きさの都合上、外をのぞけるのは一人だけだった。ルーリエは了承して、案外に重い投光器を何とか肩に背負い、窓に近づける。強烈な光のために、近くで抱えていると、かなりの熱さも彼女は感じた。なるべく早くして、と思っているうちに、投光器の向こう側でシルフィスが窓を覗き込んだ。
そして、彼女が息をのむのを、ルーリエは耳にした。
それから、どれだけ時間がたっただろう。
ルーリエの額に汗がにじみ、肩まで熱が伝わってくるように感じるまで、シルフィスは窓の外の光景に目を奪われ、無心にそれを眺めていた。一体彼女がどんな顔をしていたのかは、ルーリエにはわからない。ただ、きっと魂を抜かれたように、ぼうっとしてただただ見入っていたのではないかと思った。それほどまでに、先ほどまでの彼女らしからぬ静けさが潜水鐘の中を満たしていたのだった。
「……シルフィスさん、もういいですか」
もうほとんど泣き声で言って、ルーリエは投光器を肩から降ろした。もう重さといい、熱といい、彼女には限界だったのだ。
窓から外への光がなくなった途端、シルフィスはびくりと身体を震わせて、ようやく我に返ったようだった。
「ああ、ごめんなさい、ルーリエさん! ついつい見入っちゃって!」
「何かあったんですか」
「えっと、説明するより見てもらったほうが早いです。ほら、今度はあたしが照らしますから!」
そう言ってシルフィスはルーリエを窓の方へと押しやった。ルーリエには何が何だかよくわからなかったが、シルフィスは早くも投光器を担ぎ上げて準備万端整えている。やむなく、彼女は半球の窓から外をのぞいた。
窓の外は暗闇であった。少なくとも、ルーリエにはそう見えた。ただでさえ夜盲である彼女にとって、仮に月夜ほどの光が差し込んでいたとしても、それは真っ暗闇に等しい。
そんな暗闇をのぞいていると、急にパッと視界が明るくなった。隣でシルフィスが投光器の電源を入れたのだ。目が眩むほどのまぶしさに、ルーリエはとっさに目を閉じる。
「ほら、ルーリエさん。見える?」
シルフィスの声に促され、ようやくルーリエは目を開く。二三度瞬きをして、眩しさに目を慣らして、そうしてやっと見えてきたものは――。
「……綺麗」
彼女には自分の目に映るものが夢の光景のように思えた。
濃い藍色の影を背景に、数えきれないほどに散らばった白銀がちらちらと瞬く。
いや、それは白銀なのだろうか。瞬くそれらは、あるいは群青のようで、あるいは紅のようで、あるいは枝葉のような萌黄色のようにも輝いて見える。そのように思われるのだ。
そして、彼女は思い出す。いつか、誰かが言った言葉を。
『今夜は、まるで宝石を散りばめたような星空ね』
記憶の彼方のその言葉と、今目の前の光景が、音を立ててつながったような思いに彼女は襲われた。そして、ずっとずっと意味が分からなかった言葉の示すものが、今ようやく分かったようなすっきりとした心地良さが彼女自身の中に広がった。
そうだ。それはまるで、今まで想像するしかなかった星空のようで。
こんなに美しいものを、私は得体のしれない不気味なものだと思っていたのか。
思わず彼女は、小さく笑ってしまった。
そして、ハゼムのことを思い出す。世界はずっとずっと広いということを、自分に見せてくれるのだと言った彼を。今この場に彼がいないことが、ルーリエは少し残念に思えた。
「ねえねえ。すごいでしょ!」
その興奮した声に、ハッとルーリエは我に返る。横を見ると、投光器を軽々と抱えながら、シルフィスが紅潮した顔でルーリエの顔を覗き込んできた。
「う、うん。すごいよ、こんなの初めて見た。というか、ちょっと近い……」
「あ、ごめん」と言って、彼女は引っ込む。「でも、すごく綺麗だったよね
、まるで澄み切った月夜の揺れる湖面を見てるみたいだった。ううん、もっと綺麗かも!」
それを聞いて。ああ、そうなんだ、とルーリエは思う。シルフィスにはそう見えるのだ。この湖の岸辺で生まれ育った彼女にとって、きっと一番美しく思えた光景がそれだから。
その違いは嘆くべきものではないけれど、ルーリエは答え合わせができなかったようで、少しだけ残念な気持ちにもなった。
一方で、ルーリエのそんな思いなどつゆ知らず、シルフィスはまだ興奮の色を隠せないでいるようだった。
「あれは多分、死んだ魚の鱗が湖の底に積みあがっていて、あんな風に見えるんだと思う。でも、人の手もなく、自然とあんなに綺麗になるだなんて……。数えきれないくらい潜ってきたけど、湖の深いところではあんな風になっているなんて知らなかったよ。――お父さんだって教えてくれなかったのに」
シルフィスはそこで少し表情が暗くなる。だが、すぐに顔を上げて胸の前で両手をグッと握った。
「でも、タシュクたちにはいいお土産話ができたかな。湖の底には、鱗でできた銀箔の水面があるんだって! ――あっ、お土産といえば」
ハッとした顔でシルフィスは振り向いた。その視線の先を追うと、積んである小さな桶がある。水の濁りが晴れたら、湖底の砂を掬おうと言っていた、アレだ。
「まずい、だいぶ時間使っちゃった。ルーリエさん、元の位置に戻って。私が砂を掬うから、そうしたら蓋をして、ルーリエさんの隣に積んでいってもらっていい?」
そこから潜水鐘の中はにわかに慌ただしくなった。
ルーリエがまたおっかなびっくりで元の位置に戻ると、その間にシルフィスは手に魚革製の手袋をはめて、器用な体勢で桶を水面に突っ込み、湖底をさらい始めていた。桶の中に七八分目位の砂が入ると、それをシルフィスがルーリエに渡す。それをルーリエが受け取って蓋をしっかりと嵌め、自分の横に積んでいった。
それを繰り返して、桶が五つあるうちの四つまでが終わり、「よし、これで最後」と五つ目の桶をシルフィスが引き上げた時だった。
「キャッ!」
何の前触れもなく、突然潜水鐘がぐらりと傾いた。バランスを崩し、シルフィスが持っていた桶がひっくり返る。桶の中身の泥砂が、潜水鐘の中にビシャリと飛び散った。
「これ、上で何かあったのかもしれない。ルーリエさん、ベルを目いっぱい鳴らして!」
飛び散った泥砂をもろに浴びる格好となったシルフィスだったが、構わず冷静にルーリエへ緊急用の指示を飛ばした。そして自分は前かがみになると、足元でなにやら操作し始めた。それは潜水用の重りを潜水鐘と連結している器具だった。
それまで潜水鐘を湖底にとどめていた重りが一気に外れ、一瞬ふわりとした浮遊感とともに、潜水鐘は湖面に向けて浮上を始める。本来はゆっくり浮上するために一つずつという話を潜り始めたころにしていたのだが、今や緊急操作であった。
「痛っ!」
「シルフィスさん、大丈夫ですか?」
浮上が続く中。急にシルフィスが肩のあたりを手で押さえる。揺れる潜水鐘の中、どこかへぶつけたのだろうかとルーリエが声をかけたが、シルフィスは手を振った。
「さっきどこかにぶつけたのかも。でも、そんなに痛くないから、大丈夫」
「なら、いいんですけど……」
「それよりほら、もうすぐ湖面につきそう。また揺れるだろうから、その砂の入った桶、今度はひっくり返さないようにしてね」
また、ガクンと潜水鐘が大きく揺れ、ザバッと湖面から飛び出す音がする。
途端に、男たちの歓声と、櫂を目いっぱいにこぐ水音が二人には聞こえた。
それは何はともあれ、二人が水上へ帰還したというしるしであった。
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