(6)潜水鐘

 駅亭での夕食後、二人のもとに駅亭にシルフィスからの短信が届いた。曰く、翌朝早くにタシュクが細工品を紹介してくれる段取りとなったらしい。なるべく早い時間に先日訪れた工房まで来てくれるように、とそのように書いてあった。

 そこで二人は翌朝早く、朝食も軽く済ませる程度にして、眠い目をこすりながら魚鱗細工工房へと向かった。日の出たばかりの街路はまだ人通りもまばらで、湖から流れてきた靄が街全体を深く覆っている。そのため、ルーリエはハゼムについていくのに難渋していた。

 やがて、二人は工房の前へと差し掛かる。すると濃い靄の奥から人影が近づいてきた


「おはようございます。ハゼムさん、ルーリエさん」


 その人影はタシュクだった。彼は先日と同じく穏やかに挨拶を済ませると、二人をまだひっそりと静まりかえっている工房へと招き入れた。


「早い時間に来ていただいてすみません。ここも日中は忙しいもので」

「いやいや、元々はこちらの勝手なお願い。時間をとってもらっただけでも痛み入る」


 先を行くタシュクは生臭い匂いの残る捌き場を抜け、先日工芸品を見せてもらった仕上げ部屋も素通りして裏庭に出る。その裏庭を取り囲むように配置された長屋づくりの建物を彼は指さした。


「あの長屋の一部屋一部屋が個々の職人の仕事場になっているんです」


 タシュクはそう言って左手の一室を目指した。そこが彼に割り当てられた仕事場らしかった。

 タシュクの仕事部屋に入り、彼がランプに火をつける、すると、たちまち仕事部屋の全容が知れた。窓に面して大きな作業机があり、その周辺には手入れの行き届いた仕事道具が良く整理されていた。そして部屋のそこかしこの壁の棚には彼の作品らしき工芸品が小さな美術館のごとく、見栄え良く陳列されている。それらは先日工房の仕上げ部屋で見せてもらった品々とは違い、多くが一点ものらしい手の込んだ品々だった。

 例えば、入り口横の壁に掛けられた壁掛け。それは幾何学模様ではなく、雲の浮かぶ大空を舞う鷲のような大鳥が全て魚鱗細工で描かれていた。

 また、その傍らの棚には、ガラスの小瓶に色鮮やかに魚鱗細工が施されている。見る角度を変えると光の当たり方によって、色が変わるような仕掛けがされているのか、玉虫色に輝くのだった。


「ああ、それは試作品ですよ。きれいなガラス瓶が手に入ったので作ってみたんです。触ってみてもらってもよいですよ」


 と、タシュクは気軽に言う。しかし、余りの神々しさにハゼムもルーリエも手が出ないのであった。


「見事なものだ、これらはみな貴殿が?」

「はい、皆、自分の作品です。ただ、売り物ではありません。領主様への献上品として試作したものが大半です」

「工芸品を領主に献上するのか」

「ええ。昔からの習わしとして、半年に一度、各工房の佳作を持ち寄りお披露目するのです。もっとも目的は献上そのものというよりも、各工房の技量の向上という面が大きいのですが――」

「タシュクさん! いらっしゃいますか?」


 と、その時、一人の少年が慌てたように作業部屋に飛び込んできた。

 見習らしき少年はタシュクを見つけたことに安堵するとほぼ同時に、ハゼムらの存在にも気が付いて、背筋を正した。そして、ぺこりとお辞儀をしてから、タシュクの耳元に口を寄せて何事かを伝えた。


「お二人とも、すみません。親方に呼ばれたので、ちょっと行ってきます」

「ああ、いえ。忙しいところすみません」と、ルーリエ。

「大丈夫ですよ。自由に見ていただいていて結構ですので。……ただ、これらも試作とはいえ、われわれどもにとって大事な品々です。くれぐれも壊したりはしないようにしてくださいね」

「はい、それはもちろん」

「では、失礼して」


 タシュクは、彼を呼びに来た少年とともに部屋を出て行く。それを見送った後、ハゼムとルーリエは思い思いに部屋の作品群を見て回った。装飾品といい、器といい、あるいは壁掛けといい、種類は限られるものの、その全てが工夫の凝らされた美術品であった。しかも、意識してみなければ、それらが皆魚鱗細工であることすら忘れてしまいそうな出来である。二人は何度も感嘆の息をついた。

 ルーリエは恐る恐るといった様子で、一つの腕輪を手に取る。それは先日見たような木の下地ではなく金属製のもので、それに花弁が舞い散るように魚鱗細工が施してあるのであった。驚くのは、その花弁が桃色であることだ。ということは、このような鱗を持つ魚すら、この狭界の湖には生息しているということである。


「ハゼムさん、こちらにあるものは売ってもらえるんですかね」


 ルーリエの問いは、果たして真に迫ったものであった。これらはとても簡単に売ってくれとは言いだすことができない、そんな品々ばかりなのだ。問われた側のハゼムとしても、今回は少し当てが外れた気さえしているのだった。

 しかし、そんな時、部屋の隅に小さな開き戸があることを彼は見つけた。空箱が前に置かれているせいもあって気が付きにくかったのだ。


「ルーリエ、どうやらこちらへも入れるようだぞ。もしかしたら、こちらが在庫の保管庫かもしれん」


 そういって、ハゼムは空箱をどかし。その開き戸を開く。その間口はやけに低く、通り抜けるには少し小柄なハゼムですら身をかがめねばならないほどだった。先にハゼムがそこを通り抜け、ルーリエが後に続く。中は埃っぽい匂いで満ちていた。

 果たして、ハゼムの読みは外れたというほかなかった。というのも、そこは単なる倉庫のようで、あまり使わないような作業工具や、日の目を見なかった材料の切れ端というものが棚に積み上げてあるというのが実際だったからである。


「わっ、ひゃっ!」


 それでも、何かないかと探し回っているうちに、ルーリエが足元に落ちていた何かに足をとられたらしく、躓いて転んだ。


「大丈夫か、ルーリエ」

「は、はい。私は大丈夫です。でも、転ぶ時、何かをつかんでしまって……」


 ハゼムが見ると、彼女の右手には黄ばんだ古い布地が握られていた。その布地を目で追っていくと、それが何かハゼムの背丈ほどの大きさのものを覆う大きな布であることに気が付いた。

 その覆い布を取り払ってみると、その他の工芸品とは明らかに一線を画する代物があった。

 人の身長ほどの深さの木製の水槽である。そしてその中をのぞき込めるように踏み台もこしらえてある。ハゼムが踏み台に上ると、水槽の中にはなみなみと水がためてあって、よく見るとその水中には何かの影があった。そしてその影には何本もの綱と管とがつながっている


「ルーリエ、灯りを貸してくれ」

「ハゼムさん、勝手にみてもいいものなんでしょうか」


 心配そうなルーリエをよそにハゼムは興味の赴くまま灯りを水面近くまで引き寄せた。すると水中の物影がにわかに浮かび上がり、それが鐘の形をした作り物であることがわかる。しかし、はっきりとは正体が知れるほどではない。

 ハゼムは水槽のわきにランプを置いて、一番太い綱を引っ張ってみた。それはしっかりとした手ごたえがあったが、決して一人で持ち上げられない重さでもなかった。

 やがて、水中にあった何物かは水上に姿を現した。

 ハゼムが再び向けたランプの光に照らし出されたのもの。それは多くの部分が木と皮、そして各所に金属が配された鐘の形をしていた。


「一体なんでしょう、それは?」

「これはおそらく、推測でしかないが潜水鐘の模型だろうな」

「センスイショウ?」

「人が深い水の中に潜るための、数ある道具のうちの一つだ。我輩も実物は初めて見るが」


 潜水鐘。聞きなれない言葉であるが、ハゼムは旅の中でその名を知っていた。

 さて読者の方々は、桶を逆さにして水に浮かべ、それをそのまま水中へ沈みこませる遊びをしたことはないだろうか。そして、桶をひっくり返すと、途端に巨大な空気の泡が水面に浮かび上がってきたことだろう。これは要は、逆さにした桶の中の空気がどこにも逃げられずに、桶の中にとどまっていたからである。

 いうなれば、それが基本的な潜水鐘の仕組みである。ひっくり返した桶を、中に人が入れるほどに巨大化させたものが潜水鐘なのである。

 潜水鐘は、名前の通り大きな鐘の形をしている。そしてその下には鐘のように開口部がある。しかし、鐘を鳴らすための舌(ぜつ)はついていない。かわりに、その中には人が乗り込めるように腰かけなどが作られ、浮沈(バラスト)と均衡(バランス)を司る重りがつけられる。

 そしてここに、何らかの方法で吸気する仕組みを付け加える。これには二つの理由がある。一つは、水深が深くなっていくにしたがって高まっていく水圧に抗するための空気圧を鐘の中に生じさせること。そしてもう一つが、新鮮な空気によって鐘の中の乗員の呼吸を維持すること。この二点のためである。その方法は、鐘とともに底が開いた樽をいくつか一緒に沈めて、そこから管を介して吸気してもよいし、水上の母船から発動機か何かで強制的に吸気してもよい。

 以上が、潜水鐘の概略である。


「しかし、なぜこんなものが――」

「そこで何をしておられるのですか?」


 ルーリエの言葉を押しのけて、鋭い声がとぶ。二人が振り向くと、そこには眉間にしわを寄せたタシュクの姿があった。


「タシュク殿、いや失礼した。夢中になるあまり、こんなところにまで入り込んでしまった。こちらの倉庫は入ってはいけなかったかな」

「ええ、出来れば入っていただきたくはなかったのですが、ご注意しなかったのはこちらの落ち度でした。こちらにはおそらく荷背の方の目を引く者などありませんし、何よりこんな埃っぽいところです。一度出られませんか」


 穏やかな物言いだが、ルーリエにはタシュクの目に有無を言わせないものを感じた。


「いや、そんなことはない。むしろ実に珍しいものが見られたと思ってな。潜水鐘の実物など初めてであるからして、ついつい興味をそそられてしまった」


 潜水鐘。その単語を聞いたタシュクの目が驚愕で見開かれる。


「驚きました、潜水鐘をご存じなのですね。流石はいくつもの狭界を旅されてきた方々」

「いやいや、たまたま見聞きしたことがあったまでのこと。荷背でも知らぬものは多かろうよ」


 先ほどまでとは一転して、タシュクが動揺しているのがルーリエにも分かった

 そこで彼女は横目に、ハゼムの口元がにやりと笑みを浮かべたように見えた。


「しかし、潜水鐘を使うということは、何が目的かな」

「目的とは?」タシュクの声が震えているのがルーリエにも分かった。「何をおっしゃりたいのですか」

「『湖底の禍』という禁忌、であろう?」

「なっ!?」


 途端、タシュクの顔はたちまち青ざめた。

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