(2)原稿と伝文
さて。小一時間もたった頃である。
リダの姿は、ようやく暖かな編集部室にあった。『嵐』は先ほど過ぎ去り、今やこの編集部にもその姿はない。
編集部の一角に設けられた応接区画の、柔らかなソファの上で、リダは身を縮こませていた。冷たい廊下で、濡れ鼠のような格好のままでの長々の説教に、すっかり参り切ってしまったと、そんな有様であった。
そんな彼の前のテーブルに、湯気が立ち上るマグカップが置かれた。
「それ、飲んだほうがいい。体を一度温めなきゃ、風邪ひいちまうからな」
リダとさほど変わらない年頃のスラリとした体躯の男が、自身もまたマグカップの中身を啜りつつ、リダの対面に腰を下ろす。
フリック・ウェルバリン。『嵐』を前にした身の処し方を、扉の隙間からリダに教授した、その男だった。
「しかし災難だったな、リダ。奴さん、今日はいつもの不機嫌に加えて、腹具合も悪かったらしくてな。一日中ピリピリしていたんだ」
それで、何度も何度も便所に通っていたんだ、とフリックは説明する。この建物の便所は廊下の端っこ、通用階段とは反対側にある。リダは、その便所帰りのジンクスと出くわしたというわけだ。
「報告前から虫の居所が悪かったってわけですか」
「ハッ、そういうことだな。あの室長、文化人気取りのくせして『気の短さは、命を縮める』というありがたい教訓を、爺さん婆さんあたりから教わらなかったのかね」
「聞いたことありませんよ、そんな言い回し」
「そうか? オレの地元じゃあ、よく言われたもんさ。俺みたく、気が短いやつなんかは耳にタコができるくらい聞かされた」
「じゃあ、あの『嵐の夜の、農夫がごとく』っていうのもですか」
マグカップを両手で包むように持ち上げ、リダは手のひらに暖をとる。マグカップの中身は、一見すると普段から編集部で飲まれる紅茶のようであったが、立ち上がる香りには少し違和感があった。その濃い飴色の揺らぎを眺めながら、リダはフリックに気になっていたことを訊ねた。
「ああ。どうにもならない困難でも耐え忍べ、そうすればいつかはそれも過ぎ去る。昔から伝わる、農夫の心得だ」
「僕は農夫じゃありませんよ」
「知ってるさ、君の親は商売人だったっけな? でも、どんな仕事も基本は変わらない。そうじゃないか?」
「それは、まあ」
言葉を濁すように、リダは手元のマグカップからコクリと一口飲む。
そこで、彼は違和感の正体に気がつき、咽せた。
「ちょっと、先輩! コレ、酒が入ってるじゃないですか!」
「いいだろ? 体も温まるし、気分も落ち着く。というか、匂いで気がつくだろう」
「変わった匂いだと思ったくらいで、まさか酒とは思いませんよ!」
リダは別に酒がダメというわけではない。かといって強いわけでもなかったが。ただ、こういった不意打ちに彼は滅法弱い。
「編集部に酒を持ち込んでるなんてバレたら、今度はフリックさんがどやされますよ」
「俺の地元じゃ、野良仕事の合間には誰もが薄めた酒を水代わりに飲んでいたもんさ。紅茶なんていう高尚なもんは、ちょうど俺が村を出る頃になって、ようやく出回り始めたくらいさ」
「そんな言い訳が、あの室長に通りますか?」
「当然通らんだろうな。なにせ、ここは今をときめく『赤の街』アルカン=マジナ! この世の全てのものが集まってくる、世界の交差点。そんな名前も聞いたことがないド田舎とはまるで違う、と言われるのがオチだな」
フリックは大げさに身振り手振りを交え、さらにはジンクスの声音まで真似してみせる。
「しかし、そんなヘマはそうそう打たんさ。使いっ走りの小僧の頃から、俺がどれだけあの室長殿のシゴキをやり過ごしてきたと思っている?」
「そうであればいいですけど、油断は命取りですよ」
リダは、いかにも簡単そうに語る先輩を尻目に、酒入りの紅茶をコクコクと飲み進めた。
紅茶の風味とアルコールの芳香が口から腹へ下り、温かさとともにじんわりと全身へと、心地よく広がっていく。そういったものであると分かっていれば、咽せはしない。
なんだ、文句は言いながらも飲んでいるじゃないかとリダをからかいながら、フリックも自身のカップを傾けた。
「しかしだな」
しばし、熱い紅茶をゆっくりと味わい、互いの空になったカップがテーブルに並んだ頃。
フリックは今度は神妙な表情に一変すると、無精髭が生えた顎に手をやった。
「なあ、マーガスタン君。この『嵐』はそう易々と過ぎ去ることはなさそうにみえる。そうは思わないか」
「そりゃあ、厳命されましたからね。明日こそ絶対に原稿を回収してこい、と」
そう、あの暴風がごとき叱責の終いごろ。散々な罵詈雑言を並べ立てたジンクスは、また一時感情を失ったような表情に戻ると、有無を言わせぬ口調でリダにそう命令を下したのである。そして、自身は外套を着込むと、さっさと編集部を後にしたのだった。
しかし、フリックが真に言わんとしているのは、そうではないらしい。彼はリダの方へ、ずいっと身を乗り出した。
「いいや。明日のこともだが、リダ。本命はそれじゃない」
とぼけているつもりか、と彼は言葉を継ぐ。
「お前が求められているのは、お前の担当が書き上げた、愚にもつかない原稿なんかじゃない。我が編集部が成り立っていくための、世の衆目を集めるような読み物だ。記者作家に原稿を嫌々上げさせることではなく、金払いのいい貪欲な読者を満足させること。それがお前の仕事であって、成果なんだぞ」
フリックは、次第俯き加減になっていくリダの顔を覗き込みながら続けた。
リダは気圧されるように身じろぎしたが、それは恐怖というよりも、動揺によるものに近かった。本心ではわかっていながらも、見て見ぬ振りしている事実を的確に言い当てられたという、そんな心地がしていた。
2人の間に、しばしの沈黙が広がる。それからリダは言葉を慎重に選びながら、フリックに答える。
「……理解しています。少なくとも、そのつもりです」
「うん、そうか」
「僕にだって、読んだ人をアッと言わすような、面白いものを作りたい気持ちはあります。でも、その原型を作り出すのは、あくまでも作家や記者の人達であって。僕たち編集の仕事は、その良し悪しを見抜き、より良いものにして世に出すことです。その点、僕はまだまだ未熟で、無知です。作品や記事の良し悪しを見抜く目も、欠点を指摘して直させる力も、足りません。……それでも」
リダが顔を上げると、2人の視線がかち合う。それでも? とフリックが続きを促す。
「それでも、このまま成果を挙げなければ、僕は見習いのまま、クビを切られる」
「ああ、そうだ。そこまでわかっていれば、今のところ上出来だ」
その答えを聞くと、フリックはくしゃりと表情を緩めた。それとともにピンと張りつめた空気も、解けるようにリダには感じられた。
そこで話は御開きとなり、2人はくたびれたソファを後にした。
「まあ、俺だって、お前を追い詰めたいわけじゃない。むしろ、同情しているくらいなんだ」
2人は、既に他に誰もいなくなった編集部室で、帰り支度に取り掛かっていた。
雨音だけが遠くに聞こえる中で、フリックはポツリと言葉をこぼした。
「酒と女で身を持ち崩した記者2匹に、室長殿の甥っ子の半人前作家。そんな連中に、『見習い編集』の身分で組みつかなきゃならないなんて、室長も人が悪いなんてどころじゃない。なんだかんだで、よくやっている方さ」
「それでも、あの人達の中から成果を出さなきゃ、遅かれ早かれクビですよ」
「随分と難儀なことだな。……だったら、いっそのこと自前の作家候補でも引っ張ってくるとか。どこかに心当たりはないか?」
「あのお三方よりも書ける在野の人間をってことですか? そんな都合のいい話、転がっていないと思いますけどね」
かぶりを振ってフリックの提案を否定すると、リダは玄関そばの壁に掛けてある鍵を手に取った。
と、そのすぐ下に、彼は視線を落とす。配達人が郵便書簡などが置いていく、小さな丸テーブル。その上に1枚の紙片が置かれていた。
しかし、リダはなにやら胸騒ぎに襲われ、その紙片をひょいと摘まみ上げた。
そして、その裏に見覚えのある悪筆で記された走り書きを発見してしまったのだった。
その瞬間、彼の体はピシリと音と立て、硬直した。
「あの、フリックさん。ひとつ、いいですか」
「どうした、リダ。早く帰ろうぜ」
「路面汽車の『白の通り』行き、アレって何時まで動いてましたっけ」
「大学線のことか? 」フリックは、リダの様子に訝しみつつも壁の時計に目をやる。「確かあの路線は、大学行きの方が早く最終便が出るんだったか。はっきりとは覚えていないが、もうそろそろじゃないか」
「しかし、お前の下宿はと全然逆方向だろう」と口にしたところで、フリックは、手にした紙片を凝視するリダに気がついた。
かたわらに歩み寄り、横から見えたリダの顔には、半ば絶望半ば困惑の表情が浮かんでいた。
「リダ、もしかしてその伝言は」
「すいません、フリックさん! あとの戸締りだけ、お願いします!」
紙片に手を伸ばしたフリックの手は、突然リダの手に捕まる。そこで呆気にとられているうちに、手のひらには紙片の代わりに、強引に鍵が握らされていた。そして、フリックが我に返って二の句を告げる前には、リダは編集部から飛び出していった。
「オイオイッ! こんな時間から、どこ行こうってんだよ!」
慌ててフリックが後を追うと、すでにリダは廊下の曲がり角に姿を消してしまうところだった。
彼は、その背中に叫んだ。すると、階段室の反響を伴って、「文書蒐集館です!」の一言が返ってきた。「もう間に合わないぞ!」と叫び返すが、今度は返事はなかった。その後は階段を駆け下る足音のみが、だんだんと遠ざかっていくばかりであった。
あとには、押し付けられた鍵を指先でもてあそぶ、フリックの姿だけが残される。
「今からまた使いっ走りとはね。『自由学院』の学生とて忙しいもんだな」
彼にはこれまでの経験から、見習いの後輩が血相を変えて走り出ていった理由の見当はついていた。その彼の深いため息は、寒々とした廊下にしばらく漂い、消えていった。
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