(3)闇の中の文書蒐集館
ガラサン社第3編集部よりほど近い大通りに敷かれた路面軌条は、そのまま通りに沿って東に伸び、突き当たりの広場にてほぼ直角に北へと進路を変える。そこからは従前の平坦な通りとは打って変わり、街の後背地たる丘陵を登る、なだらかな坂道が続く。
路面汽車はその坂道を、まるで杖をつく老人のように慎重な足取りで、ゆっくりと登っていった。本日最終便となる車内には、けして少なくない数の乗客が入っていて、俯いて瞑目している者もいれば、車窓に打ち付ける雨粒の大きさをジッと目で測っている者もいた。
編集部を飛び出してきたリダもまた、その車中の人であった。習慣のように最後尾の席に陣取った彼はというと、乗客の中でも、もっぱら前者の振る舞いに終始していた。
編集部のストーブに暖められ、湿り気がいくらか飛んだ彼の外套は、今やすっかり温かみを失っていた。今日の彼は、このじっとりと重い外套をなかなか脱げずにいる。もう1日も終わりなのに、である。乗り合わせた乗客たちは、ほとんどが帰路にあるのだろう。彼も早く下宿に舞い戻り、気の利く女将さんの温かい夕食にありついて、自室の愛しきベッドの中に潜り込みた胃というのが本音であった。しかしながら、こうも新たな用事が降って湧いてはそうもいかない。
彼には、既に予定が翌日に控えてある。しかも、彼の今後に関わる最重要の用事だ。
とはいえ、もうひとつ。伝達人が、一声もかけず放り投げておいた紙片(全くもって不真面目の一言!)。それがもたらしたもう1つの用事の方もまた、無為に先延ばしにしては彼の「本業」に関わる代物なのだった。
ならば、彼の取りうる選択肢はひとつしかないではないか。
下宿の女将さんのお小言を貰おうとも、冷めきった夕食しか待っていなくとも。更には、温い寝床からの夢への逃避が叶わずとも。――今日、済ませられることは、済ませておくよりほかはない。
路面汽車が目的の停車場に着くやいなや、彼は半ば叩きつけるように運賃を車掌の手に押し付けると、夕闇の中へと駆け出していった。
かねてからの雨は、小降りになっている。まばらに行き交う傘の合間、リダは『白の通り』をひた走った。
長く東へと尾を引く丘陵地「カレミの丘」。その斜面に沿って築かれた街並みは、この街の新市街地にあたるとともに、国家公認の高等学問所を中心とする学術活動の拠点である。『白の通り』とは、その高等学問所のほど近くに位置する一本の通りのあだ名だ。下宿屋や書店、文具用品店に喫茶店といったような看板を出す建物が軒を連ねる、学生たちの街である。
この通りの名があくまでもあだ名でしかないことには、ぜひ注意を払われたい。正式な名称は他にあるのだが、この街に住む者の多くはそれを知らないのだ。知っていたとしても、きっとその正しい名では呼ばないだろう。
これには、理由がある。
この『白の通り』と呼ばれる場所は、高等学問所の創立以来、最も古い学生街だった。そして当時、麓の旧市街『赤の街』と同じように、この通りの建物は全て赤いレンガでもって造られていた。
そう、赤いレンガなのである。
今、大河と半人工運河の合流地点にて隆盛を極める、この河港アルカン=マジナは、目に鮮やかな赤のレンガによって積み上げられた街だった。『赤の街』の異称は、その街路という街路を埋め尽くす赤レンガ造りに由来する。
では、その『赤の街』にあって、『白の通り』とはどういうことか?
それというのも、かつて高等学問所で学び、しかるのちにこの街でひと財産築いた実業家が一枚噛んでいる。かの男は、晩年に至り、ふと自らが生きた証を残したいと考えた。このとき彼の脳裏をよぎったのが、懐かしき青春時代を過ごした、学生街であった。彼は学生のために、自らの財産をはたいて何かを成そうとした。そして、一体どういう思考回路を辿ったのか知れないが、次のような結論に達したのである。
赤レンガ一面の街並みは、アルカン=マジナの代名詞である。しかし、勉学に励まんとする学生たちにとって、この赤という色が至る所で目につくのはどうしても精神集中の乱れとなる。ならば私が学生たちにしてやれる事は、この学生街だけでも静穏にして清廉な白で染め上げることくらいであろう、と。
全く金持ちの発想というのは、一般の常識から逸している部分がある。そして浮世離れしているのは、当時の市議会議員や学問所の教授連らとて同じであったらしい。この老資産家の提案は、あっさりと受け入れられた。そして、半年も経ぬうちに、学生街は白一面の街並みに生まれ変わったのである。かの老資産家もその一変した風景を目にし、満足のうちに逝ったという。
かくして、この学生街は『白の通り』と呼ばれるようになったのだ。
快晴の日の昼日中であれば、この通りの風景はきっと名前通りに、青空とよく映えていたであろう。
だが、曇り空模様の、日がどっぷりと暮れた頃となっては、その美しさも息を潜めてしまっている。街灯が煌々と灯っているとはいえ、足元をほのかに照らす程度のそれでは、やはり物足りない。
息を切らして走るリダは、『白の通り』の四つ角をいくつか通り過ぎ、とうとう一軒のひときわ大きく立派な門構えの建物の前にたどり着いた。その建物は、煉瓦造りではなく石造り、しかも通りの他の建物とは違って、塗ったのではなく石そのものの白さで街並みに溶け込んでいた。実はこの建物が『白の通り』誕生の折、その生みの親によって記念碑がわりに建てられたものであるとは、これまた多くの人が知らない(知っているのは学問所の教職員と、物好きな学生くらいである)。出入り口の重厚な木の扉の上には、『高等学問所付属文書収集館』と刻まれたレリーフが掲げられていた。
リダは、その門扉に手をかけようとして、途中で止めた。扉にはめ込まれた曇りガラスの向こうから、光が漏れていなかったからである。閉館時間など、とっくのとうに過ぎていた。
彼は、一旦通りまで戻って建物を見上げた。4階建ての建物の、どの窓にも明かりは見えない。しかし、文書館とその隣の建物との間に伸びる路地にまで目をやったところで、文書館1階のある一室から、路地に向かって光が漏れ出しているのに気づく。彼は何度かこの文書館に訪れている。だから、その光が漏れている部屋が、文書館の管理人室であることが分かった。
リダは管理人室の窓を目指し、水たまりを避けながら狭い路地を進んでいった。そうして窓から中を覗き込むと、机に向かって座っている白髪の老婦人の背中が見えた。
リダは、一瞬のためらいののち、意を決して窓ガラスを軽くコツコツと叩く。
するとガラス越しに、老婦人の背中がピクリと動くのがわかった。
「もし、アンネラットさん」
続けて名を呼ぶ。どうやら聞き間違いではなかったと気がついたらしい老婦人が、リダの方を振り返った。そして、彼の顔を見つけると、彼女は驚いた顔をして立ち上がり、すぎに窓を開けてくれた。
「あら驚いたわ! あなた、『迷宮博士』のところの学生さんね。お名前は確か……」
「リダ・マーガスタンです。あの節はお世話になりました、アンネラットさん」
「いいえ、『自由学院』の方とはいえ、学問を志す方ならば誰であれ当館は拒みませんわ。もちろん、大切な文書を大切に扱ってくれる方であれば、ね」
「もちろんですよ。しかし、こんな遅い時間にお尋ねして申し訳ありません」
「しかも路地裏の窓から、ね」
老婦人もといアンネラット女史は、ほっそりとした顔にチャーミングな微笑みを浮かべた。
このような常識知らずな訪問に、嫌味の1つや2つはぶつけられることを覚悟していたリダは、かえって面食らうことになった。と同時に、あるいはひょっとして、とひとつの疑念が生じた。
「実は、本日急ぎお伺いした理由なのですが」
「わざわざおっしゃらずとも、こちらも了解しています。夕刻、あなたの先生からの言伝がありましたの。『うちの学生を使いに送るから、悪しからず対応してほしい』と。まさか、この雨の中にいらっしゃるとは思いませんでしたけれど」
やはり、とリダは得心する。既に別便で、連絡が回っていたようだ。そうなれば、アンネラット女史は事の次第をすっかり把握していると見ても良くなる。心配事がひとつ消えたために、彼は内心でホッと安堵の息をついた。
そうしているうちに、アンネラット女史はさっと裏口へと回り、リダを館内へと招き入れる。
「そんなに濡れて、大変だったでしょうに」
「いえいえ。こちらこそ、こんな格好で申し訳ありません」
「それは一向に構わないけれど」彼女は濡れ姿のリダを迎えて入れながら、申し訳なさそうな表情を浮かべた。「あの、先生に今度お会いした時にでもいいから、あなたから伝えておいてくださらないかしら。彼女の件について黙っていたこと、私が謝っていたって」
「別に構いませんが。けれど、口止めは彼女の、――キュリオーネさんの頼みだったのでしょう?」
「それでも、です。その頼みをよしとしたのは私ですし、先生が彼女を探していたのはこの半年間、何度も耳にしていましたから」
「わかりました。伝言は、必ず教授にお伝えします」
女史は、リダに手提げランプ(これは落下の衝撃が加わったり、一定以上傾くと即座に火が消える、図書館や文書館御用達の品である)を手渡すと、色あせた館内案内図を彼の前に広げた。彼女の細く白い指先が、現在地の裏口から目的地までの道順を迷いなくたどっていく。
「彼女がいるのは3階のここ、個別閲覧室が並ぶ廊下の一番奥の部屋です。元々物置だったところを、彼女の希望で貸しています」
「わかりました。ご丁寧に、ありがとうございます」リダはアンネラットに目礼し、1人、館の奥へと歩みを進めていった。
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