欠地伯の迷宮放浪記

渡毛 継介

プロローグ : 今は綴られし、いつかの伯爵

(1)嵐の夜の農夫がごとく

『赤の街』の新市街。縦横無尽に張り巡らされた通りのうち、その主だった街路には、たいてい2本のレールが敷かれている。それは当地の象徴シンボルのひとつである、路面汽車のものだった。

 そのうちのある大通りを、灰色の煙をたなびかせながらのっそりと進んでいく一両の路面汽車があった。。

 薄暮れに現れては消える停車場を汽車が次々と通り過ぎるその度、 車中最後尾の席に腰かけた青年の気分は段々と重いものになっていった。それはまるで、窓外で篠突く雨を降らす曇天模様がごとく、ずっしりとして堪え難い。


「……参ったなあ、これ」


 そして、ついに耐えかねてこぼれ出たのが、諦めの極致に達したようなこの独り言であった。

 彼の膝の上には黒い書類カバンを抱えられている。皮革に防滴加工が施され、ゆったりと幅をもたせながらも、縫い目は丈夫に仕上げられたカバン。少し色あせた、社名らしき刺繍もある。見る人が見れば、この持ち主が何かしら出版業種に携わる人物であることが分かる品だった。

 事実、青年は、とある出版社に出入りする見習い職員だった。いうなれば下っ端である。彼はこの日、原稿回収任務を命ぜられ、今はその帰路にあった。

 しかしながら、彼が抱え込んだ書類カバンは、その職務遂行後にしてはあまりに膨らみに乏しかった。薄っぺら、といってもいい。

 青年は時々、鞄の表面を祈るような面持ちでポンポンと叩いた。その度に、心もとない、けれどもひとまずは確かな感触が彼の手のひらに返ってきた。カバンの中に目的の原稿封筒は入っているのだと、その事実に彼は束の間の安心感を覚える。と同時に、その封筒が想定よりもいくらか薄いという事実、次いで本来であれば、あと2つの封筒がそこに収まっていなければならなかったという事実が襲いかかってきて、青年は再び頭を抱えた。ついには、ここにあるはずの原稿封筒さえ、気がついたら霧散してしまうのではないか。そんな妄想めいた不安にまで苛まれて、彼はまた、カバンを無意味にポンポンとやりだすのであった。


 そうこうしているうち、近くに立っていた車掌が無情にも、目的の停車場が次に迫っていることを大声で告げた。

 彼が車窓から外をみやると、雨はまだ降り続いていた。せめて原稿を濡らさないようにと、羽織っている外套の内へカバンを抱え込み、彼は席を立った。

 やがて、路面汽車は停車場にオーバーラン気味に停車場へ滑り込んだ。これはよくあることだった。特に、今日のような雨の日の場合は。

 停車場で待っていた新たな乗客たちも慣れたもので、ホームの端近くまで行き過ぎた乗車口に向かって、表情を変えずノソリノソリと移動していく。人々のその様子を傍目に、青年は停車場へ降り立った。

 さて、この不手際をどう言い訳したものだろうか。

 彼としては、じっくりと考えながら行きたいところだったが、雨脚はまるで彼をせかすように、一向に弱まる気配を見せない。

 止むを得ず、彼は頭から外套を被り、煤にまみれたビルヂング群の路地へと駆け込んで行った。

 目指すは勤務先、ガラサン出版社である。


 大通りを路地一本入ったところの、薄汚れた6階建のビルヂング。その4階、中小事業者向けの貸事務所の一室に、ガラサン出版合同会社の第3編集部が置かれている。

 青年がそのビルヂングの通用階段にたどり着いた頃には、雨は幾分弱まっていた。頭から被った彼の外套は、雨水がその内側に染み込むほどにびしょ濡れになっていたが、代わりにカバンは無事に済んだらしかった。外套は早い所脱ぎ去ってしまいたいところだったが、青年にとっては今は一刻も時が惜しかった。じっとりと水気を含んだそれを着直し、彼は階段を一段飛ばしに駆け上がっていった。

 そうして、一気に4階まで登りきり。廊下を小走りに曲がり、表札の出ている編集部のドアが見えてきた時だった。廊下の反対側から、ヌッと大きな影が現れる。あまりに突然で、青年がそれと気がついた時には、最早隠れる暇すらなかった。


「マーガスタン君!」


 向こうからやってきた大柄の人物は、鉢合わせた青年を瞬時に認識すると、途端に廊下に一喝を響かせた。

 走って荒れた息をここで一旦落ち着け、雨に濡れた服装を整えて。しかるべきのちに、人目を忍んで編集部へ滑り込む。青年リダ・マーガスタンのそんな思惑は、その階上階下に響き渡るほどの一喝とともに、儚くも崩れ去った。彼が不幸にも行き合った人物は、今、最も顔を合わせたくない人物、ゴーント・ジンクスそのひとだったのである。

 ゴーント・ジンクスは、編集部室の長である。

 中年の恰幅の良い体躯を、特注品だというシャツとジャケットで包み、その上に脂ぎった濃い丸顔をのせている。カネ集めに関わる外向きの要件以外では常にしかめ面で、しかしその方面の手練手管にはヘタに長けているものだから、編集部においては絶対権力者として君臨している。ただ、ここ数週間はその金策すら行き詰まりかけているとかで、輪郭が一目でわかるほどに細くなったというのが、編集部内でもっぱらの噂だった。


「室長、どうも」

「どうも、じゃあない! 一体、今までどこをほっつき歩いていた! たかだか原稿3本回収するだけの仕事に、丸一日もかけるノロマがどこにいる?」

「いえ、その、原稿回収についてなんですが……」


 原稿のことなど、どうせ全てご承知のくせに、今日も見事なキレっぷりですね、とはさすがに口に出せなかった。あくまでそれは、リダの心中の愚痴である。

 ともあれ、まずは気を持ち直さなければ。

 不意の一喝でひるんだものの、彼は襟元を直すふりして胸を叩き、改めて気持ちを鼓舞した。努めて「冷静」に、これが大切だ。そうしてから、ようやくこの怒れる上司に対峙する決心がつく。

 そもそものところ、こんな寒々しい廊下で戦闘開始といかなくとも良いではないか。

 リダは、そう思った。ただ周囲に人はいないのだから、逆に考えればかえって気安いものなのかもしれない。無論、薄いドア一枚隔てた編集部内には、これ何事かと耳をそばだてているであろう他の職員たちがいたとしても、だ。

 何はともあれ、事の顛末を報告しないことには仕事が終わらない。眼前の不機嫌と憤怒の炎に、更なる燃料を追加しなければならないのは辛いことだが、仕方がない。

 辛いことは、一度に終わらしてしまったほうがいい。その口火を切る。


「カルオス先生の原稿については、回収完了いたしました。ただ、他のお二方には逃げられてしまい、回収できておりません。申し訳ありません」

「なんだと?」


 報告を聞いたジンクスの表情から、怒りが一瞬消える。ほぼ同時に、その口元が二三度、神経質そうにヒクついた。

 ああ、マズい。

 リダは察する。これは怒りの階梯が一段階上がる時の、この上司のクセである。

 経験上、このまま最後まで報告を済ましてしまったほうがいい。意を決し、もう全部まくしたててしまうことを彼は選んだ。


「お二方の下宿先はもちろん、知人の家、女の家、行きつけの店、あとは彼らが隠れていそうな安宿を探し回りましたが、結局捕まりませんでした。下宿先については、管理人さんに頼み込んで部屋に入れてもらいましたが、それでも原稿は見つかりませんでした」

「おい、マーガスタン! 貴様は何をやっとるんだ!」


 途端にジンクスが怒鳴りあげ、煙草臭い唾のしぶきがリダの顔面に降ってきた。


「いいか、これは仕事だぞ! 金をもらった上での、仕事だ! 出来なかった言い訳などという、一銭にもならん御託は要らんのだ! しかも……、子供の小間使いのような、簡単な仕事で、こうも当然のように下手を打ってみせるとは! 貴様のように、最近の若いヤツは、雑用すら真っ当にこなせないのだな! 挙句、人の貴重な時間すら取らせて……。いいか、マーガスタン? 俺がお前を叱ってやる時間も、タダじゃあないんだぞ、理解しているんだろうな!」


 怒涛のように押し寄せる罵声。

 リダはただただ肩をすくめ、じっとこらえた。

 力なくこうべを垂れたまま、ふとリダは、編集部室の扉がソッと開くのに気がついた。その隙間から、見慣れた先輩の顔が覗くのが見えた。その先輩の口が、何か言葉を言うようにパクパクと動く。


『嵐の夜の、農夫がごとく』


 唇の動きは、そう読み取れた。

 そうだ。リダも自身の口元で繰り返す。

 嵐の夜の、農夫がごとく。

 今はじっと耐えるしかないのだ、と。恐らくはそう言いたいのだ、かの先輩は。

 このリダ・マーダスタン。商家の三男坊であり、嵐に臨む農夫の心持ちといったものには一向ピンとこないのだったが、この土砂降りの折にはどうしようもなく、先輩からのありがたいご教示に従うことにした。

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