第37話 処刑の時間(Lynching Time)

「まずはオレが相手になろう」


 赤いラインを跨ぎ、まずはマルヴォがリングに上がった。

 かつては柔道の大会で数々の強豪と戦ってきたが、59歳の女子プロレスラーと対峙するのは初めての経験である。


「マルヴォ、気を付けろよ」

 紫村が後ろで見守る。

「ああ、わかってる」


「なんや、なかなか恰幅のええ外人やな。倒し甲斐があるっちゅうもんやで」

 指を鳴らし終えた真理が、リングの中央で両手を構えた。

 キャミソール姿ではあるが、マルヴォとの体格差はあちらのほうが遥かに上だ。

「ほれ、かかってみんしゃい」


(くそっ……舐めやがって……)

 挑発を受けたマルヴォは、思わず飛び掛かって行きそうになった。

 しかしここで焦ってはいけない。

 相手の体格と自信を鑑みるに、闇雲に攻めてもおそらく勝ち目はないだろう。

(今のオレたちの目的は、アイコが打開策を持ってくるまで時間を稼ぐことにある)

 勝機も無しに自分から攻めていく必要はまるでない。

 今はじっくりと距離を保つのが得策だ。


「なんや、かかってきいへんのかいな」

 拍子抜けする真理。またぼりぼりとパーマヘアーを掻き始める。

「男のくせに情けないやっちゃのう」

 文句をつけながら、じわじわと歩を進めていく。

 マルヴォと真理――二人の距離が二メートルほどにまで縮まったとき、真理が告げた。

「ほな、ウチから行くで」


 目の色を変えた真理が、マルヴォの頭を目で捉えた。

(うっ……!)

 その顔はまるで、エモノを見つけたライオンだ。


「ガアアアアアアアッ!!」


 95キロの巨体をバネに、真理はマルヴォへ飛び掛かった。

 両腕を左右に大きく広げ、その全てを食らわんとする勢いだ。

 

「くそっ!!」

 引き下がりながらもマルヴォは立ち向かった。

 しかし力の差は歴然――なんとか組み合おうと両手を前に出すが、その両手ごと相手の両腕に飲み込まれてしまう。

「うわああああっ!?」


「逃がさへんでえ!!」

 繰り出されたのは、現役時代の真理の十八番‶スタンディング・ホールド〟。

 その太い腕と豊満な肉体で、ただ相手を抱き締めるだけのシンプルな必殺技である。


「うぐああっ!?」

 59歳の熟女に抱き締められるマルヴォ。

 その胸の柔らかさにほんの一瞬だけ気を緩ませるが、次に訪れた圧迫感は地獄だった。


「ぐわああああああああああああああああああああああっ!!」


 マルヴォの身体は、真理の剛腕な筋肉によって強力に締め付けられた。

 まったく身動きが取れず、反撃の余地は一ミリもない。


「マルヴォッーーーー!!」

 耐え切れず紫村は叫んだ。メリメリと軋む骨の音がこちらまで聞こえてくる。

 とても見ていられないが、仲間の勇士から目を逸らすわけにはいかない。

 しかしただ、声を上げることしかできない自分への無力さも拭えない。


現役時代わかいころを思い出すなあ……」

 真理はマルヴォを抱き締め続けた。

 レスラー時代の情熱を思い出しているのか、それとも、昔の色恋沙汰を思い出しているのかは定かではないが、その表情は恍惚だ。


「グオオエエエエ……」

 マルヴォは苦しみ続けた。

 凄まじい握力と胸筋による肉体的ダメージは勿論のことだが、実は精神的ダメージのほうが大きい。優越感に浸る相手のにやけづら(59歳・熟女)と目の前で向き合いながら、まったく動けず手も足も出せずに自分の身体をただただ締め付けられるだけ。ライオンの顔をした大蛇に巻き付かれているような地獄である。

 しかもそのライオンは、言葉を喋る。


「骨、一本折ってもええか?」


 軽々しい口調で真理は尋ねた。

 無論、いいわけがない。


「…………」

 しかしマルヴォは、その質問に答えられなかった。

 単純に意識が飛びかけている。


「や、やめてくれええええええっ!」

 代わりに紫村が叫んだ。

 無残にやられる仲間の姿に、居ても立っても居られない。

 

「ほんなら、脳味噌食ってもええか?」

 真理は選択肢を増やした。

「ウチがあんたらに何しようと全部正当防衛になるけぇ、なんでもアリやで?」

 恐ろしい表情で真理が言う。

「骨か、脳味噌か、選べや」


 真理は問うた。

 BORN or BRAIN. 

 骨か、脳味噌か。


 究極の二択。苦渋の選択。

 無論、選べるわけがない。答える理由が見当たらない。

 しかし、弱ったのか、血迷ったのか――なけなしの力を振り絞り、マルヴォは答えた。


「ほ、骨で……」

 

 次の瞬間、


 ベギィッ!!!


「アッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 マルヴォの身体の、どこかの骨に、ひびが入る音が、部屋に響いた。



「もうやめてくれええええええええっ!」


 その生々しい音を聴いた紫村は、即座に膝を落として床に手を着いた。

 土下座の構え。降伏の体現。

 敵に命を乞うなど愚であることは承知の上だ。

 おそらく徒労に終わるということも、頭の中では悟っている。

 それでも相手が、日本人の心を持っているならば、相手の動きを止められる。

(仲間を助けるためなら、俺のプライドなんていらない……!)



「ほな二本目、いくで~」


 しかし紫村の行動は、真理の目と耳にはまったく入っていなかった。

 目の前が楽しいと、周りが見えなくなるタイプ。



「おいクソババアッ!!!! 俺の話を聞けっーーーー!!!!」

 紫村は立ち上がり、豹変した。

 敵に媚びるのは、やはり性に合わない。

「今すぐにそいつを離せ!! 俺が代わりにリングに上がる!!」

 紫村は真理を指さした。

「俺がてめぇの顔面を粉々にしてやるよ!! 覚悟しろデブゴリラッ!!!!」



 その罵声は、ようやく真理の耳へと届いた。


「……なんやあ小僧……? ええつらしとるやないか……おおん?」


 血管を浮き上がらせた真理は、紫村の顔に興味を示した。

 そして、飽きた玩具のようにマルヴォを手放す。


「おまえはもういらん。邪魔じゃ。のいてろ」


 床に落ちたマルヴォは、そのまま場外へ蹴り飛ばされた。



「ぐはああああっ……!」

 紫村の横に転がるマルヴォ。惨敗だ。

 負傷はしたが、間一髪で大事には至っていない。



「小僧、リングに上がれや」

 真理は、指をさす紫村に鬼のような目玉を見せた。



「シムラ、行くな! お前でもあいつに勝てない!」


 仰向けで紫村を止めるマルヴォ。

 その発言はやはり弱っている。

 

「黙れマルヴォ。お前はそこで傷を舐めていろ」


 前を見ながら紫村は言った。

‶大人しくして身体を休めていろ〟

 そういう意図の発言ではあったが、頭に上った血のせいで手厳しい台詞になっている。


 しかし窮地を救われたマルヴォにとっては、それ以上の優しさはなかった。


(アイコ……早く来てくれ……! このままだと、シムラが、まずい……!)




 その頃、アイコは――。

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