第89話 整備士に最大の感謝を……

 ヨトゥンの谷へ向かう当日。

 フルートは日が出る前に起きて身支度を始めていた。

 着替えている最中、隣の部屋から目覚まし時計の鳴る音と、酒焼けした「ウルセエ!!」という声が聞こえて、アークも起きたと分かった。


「ナディア、私も頑張るからね」


 身支度を整えた後、部屋を出る前に机の上に置いたナディアの本を見て自分を鼓舞すると、静かに部屋の扉を閉めた。

 フルートが1階でソファーに座ってコーヒーを飲んでいると、眠たそうなアークがボサボサの髪のまま降りて来た。


「おはよう」

「ん? おはよう」

「眠そうだね」


 呆れた口調でフルートが言うと、アークが肩を竦めて彼女の正面に座った。


「昨日はジョセフ達に誘われて飲んでたからな」

「ジョセフ?」

「名前は知らないのか。ほら、お前が心底嫌ってる風俗案内所だよ」


 ジョセフが何時もアークと下ネタを言い合うマーシャラー航空機誘導員だと知って、フルートの顔が露骨に歪んだ。


「あの人ね……」

「そう嫌な顔をするなよ。アイツのお陰で、お前の誘拐が未然に防げたんだからな」

「確かにそうだけど……」


 フルートが席を立つと、ケトルに入ったコーヒーをコップに注いで、アークに渡した。


「それで目を覚まして」

「お、悪いな」


 アークが礼を言ってコーヒーを飲むと、コーヒーの苦味が脳を刺激して体が目覚める感じがした。


「そう言えば、昨日飲んでいる時に面白い話を聞いたぞ」

「何?」

「ストーカーSを覚えてるか?」

「あの女の敵の人?」


 フルートの返答に、アークが「くっくっくっ」と笑い返した。


「まあ、確かにそうだな。そのストーカーSだけど、あの事件でストーキングしていた女に正体がバレて、憲兵に捕まる前に町から逃げたらしい」

「助けてもらった事には感謝するけど、自業自得だから同情はできない」

「アイツって4人同時にストーキングしていて、それでずっと正体がバレなかったんだから凄げえぜ。マネをしたいとは全く思わねえけどな」

「確かに凄いと思うけど、面白い話ってそれ?」


 呆れた様子のフルートに、アークが右手の人差し指を左右に振った。


「いや、まだ話に続きがある。町から逃げたストーカーSだけど、今はダヴェリールの首都の空港で、保安検査員として働いているらしい」

「そうなんだ」

「趣味と仕事の相性が良かったのか知らんが、アイツが調べると巧妙に隠してある違反品でも一発で見つけるんだとさ。密輸業者のケツ穴から座薬に入った麻薬を見つけて、それ以来『座薬発見器』ってあだ名で呼ばれているとか、マジ笑えるぜ」

「酷いあだ名……。それに、趣味がストーカーと知ってるから、素直に褒められない複雑な心境……」


 自分の話に笑っていたアークだったが、真面目な表情になると続きを話し始める。


「そのストーカーSからの情報だ。俺達が戦った前翼型の戦闘機、あれはダイアンR社の新型機でベルセブブと言うらしい」

「え? ……それ、本当?」


 話の内容にフルートが驚く。


「そして2週間前から、ソイツは輸送機にバラバラに分解した状態でニブルに送られている。と言うのが、ストーカーSが手にした情報だ」

「……外観から空獣用にしては、アイテムボックスとか、エネルギータンクのサイズが足りてなかった気がしたけど、やっぱり戦争用だったんだ」

「そうだな。ニブルがこのタイミングで空獣用に購入するとは考えられない。お前の考えで当たっていると思う」

「それで、どうするの?」

「どうすると言われても、俺達がどうこう出来る問題じゃねえよ。とりあえず昨日の酒の席で、ラビットの旦那にベルセブブが現れたら逃げ回れって、ルークヘブンへ伝えるように頼んどいた」


 その話に、フルートが首を傾げる。


「逃げる?」

「正面から戦ってもベルセブブは強いから損害がデカくなる。だけど、俺の勘だとアレは攻撃、速度、旋回は凄いけど、燃費が悪すぎて戦闘開始から30分もしたら、燃料が切れる気がするんだ」


 フルートは腕を組むと、顎に手を添えて考える。


「もしそれが正しかったら、何とかなるのかな?」

「さあ、どうだろうな。ルークヘブンの新人だらけの空獣狩りじゃ、逃げるだけでも難しいとは思う。まあ、俺達が悩んでも仕方がねえよ。後はドー……? ド、ド、ド……」

「ドーンさん。もしかしてワザと?」

「いや、あの三兄弟は名前が似てるから、ちゃんと思い出した事が1度もない」

「それは、それで酷い……」

「おっさんの顔なんて思い出しても、何も面白くねえし、興奮もしねえ。逆に興奮している奴が居たら、肛門の筋肉を絞めて逃げるぜ。という事で、ベルセブブに関しては、ドーンの旦那に任せるって事で話は終わりだ。そろそろ行くぞ」

「分かった」


 アークに促されてフルートが頷く。

 2人は席を立つと、荷物を持って家を出た。




 ドッグへの移動中、後方から足音がして2人が振り返ると、頭に包帯を巻いたレッドがこちらに向かって走って来た。

 息を切らしたレッドは2人の前で止まると、膝に手を置いて「ハァ、ハァ」と呼吸を整えた。

 ちなみに、昨日トパーズがぶん投げた文鎮は、壁に当たって跳ね返ったのが彼の後頭部に当たっていた。

 診療した医者曰く、もし文鎮が直接頭に当たっていたら、確実に死んでいたらしい。


「フルートさん!!」


 息を整え終えたレッドが真っすぐフルートを見つめる。


「レッド君? 朝からどうしたの?」


 大声で呼ばれてフルートが驚き、その横ではアークが、これからの展開を期待して、ワクワクテカテカな表情を浮かべていた。


「これから危険な所へ行くって本当ですか?」

「え? うん」


 フルートが戸惑いながら答えると、レッドが唇を噛みしめた。


「……店のお客さんの話だと、2人は生きて帰って来れないだろうって言ってました。何でそんな危険な所へ行くんですか? 他の誰かに行かせれば良いじゃないですか!」


 レッドの話を聞いて、フルートとアークが顔を顰める。


「その誰かって、誰が行くの?」

「それは……」


 フルートの質問に、感情のまま話していたレッドが言い淀む。

 彼女の横では、アークが笑いを堪えて「ストレートに告白しちゃえよ!!」と心の中でレッドを煽っていた。


「南で戦争が始まって、私達の友達が命の危険に晒されているの。だけど、私達がヨトゥンの谷に行ってファナティックスを倒せば、もしかしたら戦争を終わらせる事が出来るかもしれない」

「だけど!!」


 大声で叫ぶレッドを、フルートがジッと見つめて頭を左右に振る。


「レッド君の私に対する気持ちは知っている。だけど、私はアークが飛ぶなら、どこへ行こうが一緒に飛ぶ。それが私が望む夢。だから、ごめんなさい」

「僕がもっと大人だったら……」


 レッドが拳を握りしめ、目から流れる涙を荒々しく拭う。

 そして、一度だけアークを睨むと、視線をフルートに戻した。


「フルートさん! 僕がパイロットになった時、必ず会いに行きます。だから、必ず生きて帰ってください!!」

「分かった。待ってる」


 フルートの返事にレッドは泣き顔のまま笑うと、一度だけアークに頭を下げてから、走り去った。


「うーーん。やっぱりダメだったか」


 アークが走り去るレッドの後ろ姿を見て呟く。


「やっぱりって? アークは予想していたの?」


 無言でレッドを見送っていたフルートが尋ねると、アークが口をへの字に曲げて腕を組む。


「なんて言うか……アイツと初めて会った時から、若いのに当て馬のスメルを感じたんだよな」

「当て馬のスメルって……」


 アークの話に、フルートの顔が引き攣る。


「レッドって素直で真面目だし、顔もそこそこ良いだろ」

「……そうだね。レッド君がもう少し成長したら、今よりもさらに格好良くなって女性にモテると思う」

「だけど、本命の女には振られる。何と言うか、そういう星の下というか、宿命? アイツって、そんな人生を送るような気がするんだ」

「……何それ、酷い」

「だけどさ。お前も俺と一緒に飛びたいからって理由で、フリーでいる必要なんてないし、男を作っても良いんだぞ」


 アークの話に、フルートが頭を横に振って否定する。


「今は恋愛よりも空を飛びたいから、彼氏はいらない」

「お前は一生、乙女の純情とやらが戻らねえ気がするな」


 それを聞いた途端、フルートが拳を握りしめて天高く突き上げた。


「それはそれ、乙女の純情は何時か必ず取り戻して見せる!!」


 そんな彼女の様子に、アークは肩を竦めて笑っていた。




 2人がマイキーのドッグに行くと、すでにワイルドスワンの準備が整っていて、目の下に隈を作ったフランシスカが待っていた。


「遅かったな」

「フルートが純朴な少年をその気にさせたのが悪い」

「……?」


 フランシスカが首を傾げる。


「別に……その気になんてさせてない」


 そうフルートが言うと、アークが肩を竦める。


「そうか? 自分で気づいてないだけだと思うぜ」

「……うっ!」


 そう指摘すると、自分でも心当たりのあるフルートは何も言い返せず、顔を顰めた。


「それで準備の方は終わったか?」


 アークがフランシスカに話し掛けると、彼女は疲れた様子で頷いた。


「つい先ほど終わったぞ。本当にあのクソ親父は、「こんな時に用意しといた」と言うのがズレていて、人に迷惑を掛けてばかりだ!!」


 そう怒鳴ると、フランシスカはため息を吐いて項垂れた。

 彼女は3日前にマイキーから、新しく作ったアイテムボックスがあると聞いて、「何でもっと早く出さない!!」と怒鳴った後、今日まで殆ど寝ずにワイルドスワンのアイテムボックスを交換していた。


「本当に何で1カ月前に作っていたのを、誰にも言わずに隠していたのか……そう言えば、ギーブもワイルドスワンを20年近く隠していたな」


 アークの話にフランシスカとフルートが驚く。


「20年間もか!?」

「そう20年以上だ。その間、洞窟で1人シコシコとドーパミンやら、白い特濃汁を出して整備していたらしい。年季の入った整備士ってヤツは、犬みたいに大事な物を隠す性癖でもあるのか?」


 ちなみに、ギーブはワイルドスワンの整備中に、白い特濃汁を出したことは1度もない。


「私はそんな面倒くさい性格にはなりたくはないな。さて、既に親父が説明しているけど、もう一度、私からアイテムボックスの説明をしよう」

「オーケー。忘れてるから頼む」

「……お前は本当にピンポイントでイラッとさせるな。コイツはアルセム戦の時に使った、燃料と弾丸をストック出来る仕様だが、同時に空獣を格納出来る様になっている。しかも、重量は本来のままだ」


 フランシスカの説明に、アークが肩を竦める。


「特許料だけで凄い金額になりそうだな」

「輸送機にコイツを積んだら、補給なしで長距離輸送も行けるからな。特許申請したら、ひょっとしなくても莫大な金が親父の口座に入るぞ」

「……ふむ。お前も億万長者の娘か。なあ、ロイドなんかと別れて俺と結婚しね? マイキーをぶっ殺して資産を半分に分けた後で離婚するから、そしたら、もう一度ロイドと付き合えばいいし」


 アークの求婚に、フランシスカが露骨に顔を顰める。


「人類史上、最低の求婚だな。死んでもお断りだ。付き合いきれないから話を戻すぞ。万が一のために、外部にも燃料タンクを搭載しておいた。谷に行くまでのエンジンは外部タンクから燃料を供給するから、空になったら捨ててくれ」

「分かった」

「これで丸1日飛べる計算だ」

「俺の肛門様がそんなに持たねえよ。なあ、フルート」


 突然アークがフルートに話し掛ける。


「……何?」

「飛んでいる最中にクソがしたくなったら、それを撤収の合図にする。何時でも俺に言ってくれ」

「絶対に言わない!!」


 アークの指示に、フルートが声を荒らげて拒否する。


「我慢は体に悪いぞ」

「今、精神的に我慢の限界が近づいてるから」

「クソして発散してこい。とりあえず、俺がクソしたくなったら戻るよ」

「勝手にしろ」


 フランシスカはそう言い放つと、アークとの会話に疲れたのか深く溜息を吐いていた。




 フルートはドッグの皆に別れの挨拶をすると、ワイルドスワンに乗り込んだ。

 彼女は、未知の場所への好奇心、それと同時に、死ぬかもしれない恐怖、その2つが入り混じって、不安な心境が表情に出ていた。


「クソは済ませたか?」


 トイレで出すものを出して来たアークが、ワイルドスワンに乗り込むと機器の点検をしながら、彼女に話し掛けてきた。


「……さっきもそうだけど、女性に生理現象の話は完全にセクハラだから」

「残念だが、男でも女でもパイロットである限り、セクハラよりも健康維持が優先だから諦めろ」


 そうアークに言われて、フルートが顔を顰める。


「……それを言われると、反論できない」

「そして、俺はそれを口実にセクハラをしているけど、それはそれで仕方がないから諦めろ」

「アーク!!」


 その冗談にフルートが怒鳴ると、アークがニヤリと笑う。


「大声を出して、少しは緊張が解けたか?」

「…………」


 アークの質問に、フルートがキョトンとする。


「お前が真顔の時は、大抵クッソくだらねえ考えで不安になってるからな」

「……ありがとう」


 フルートのお礼に、アークは点検を続けながら肩を竦めた。




「準備は良いか?」

「こっちはオッケー」


 フルートの返答を聞いて、アークが座席から身を乗り出して、待機していたフランシスカに声を掛けた。


「フラン!!」

「何だ?」


 フランシスカが大声で返答すると、アークが彼女に笑い掛けた。


「お前が居なかったら、俺達はここまで来れなかった! 今まで何も言わなかったけど、今日までありがとう!!」

「なっ!!」


 突然礼を言われて驚いたフランシスカが、アークとフルートに向かって微笑む。


「礼を言うのは私も同じだ。今まで私を信頼してくれて、ありがとう。整備士としてワイルドスワンを弄れたのは最高の幸せだ!!」

「それじゃ行って来るぜ!!」

「フラン!! ありがとう。行ってきます!!」


 2人がフランシスカに手を振ると、彼女も手を振り返した。


「必ず生きて帰ってこい!!」


 皆が見守る中、アークは窓を閉めるとワイルドスワンのエンジンを起動する。

 ワイルドスワンのプロペラが回って動き出すと、ドッグを出て滑走路へ向った。




 滑走路へ向かう途中、アークがマーシャラーを見れば、何時も冗談を言い合うジョセフがワイルドスワンを誘導していた。

 真面目に仕事をするジョセフに向かって、アークが人差し指と中指の間に親指を入れてジェスチャーをすると、それに気づいたジョセフが笑って同じジェスチャーを返す。

 その2人を見ていたフルートは、仕方がないといった様子で苦笑いをしていた。


 ワイルドスワンが滑走路へ到着すると、滑走路の脇に航空職員、ギルド職員、パイロットが集まっていた。

 その中にはトパーズと左右の受付嬢や、アレックスやロイドを代表とした空獣狩りのパイロット達、ベッキー、ダイロット一家、全員がワイルドスワンに向かって手を振っていた。

 2人が彼等を見ていると、管制塔からの無線が入って来た。


『コ・チ・ラ・カ・ン・セ・イ・ト・ウ・ワ・イ・ル・ド・ス・ワ・ン・リ・リ・ク・キョ・カ・ス・ル・イ・キ・テ・カ・エ・ル・ホ・ウ・ニ・ゼ・ン・ザ・イ・サ・ン・ヲ・カ・ケ・タ・カ・ナ・ラ・ズ・モ・ド・レ(こちら管制塔。ワイルドスワン離陸許可する。生きて帰る方に全財産を賭けた。必ず戻れ)』


「何だ、賭けてたんだったら、俺も乗っかればよかったな」

「オッズが知りたい……」

「そんなの、ラビットが賭けた方が低いに決まってる。しかも全財産だ。相当倍率が高いぞ」

「それはそれで悔しいかも」


 それを聞いて、フルートの眉間にシワが寄る。


「だったら、冗談で谷に行かずに帰ってみるか?」

「それは冗談が酷すぎるから、止めた方がいいと思う」

「あっそ。んじゃ行くぞ」

「了解!」


 ワイルドスワンが滑走路を走り出す。

 時速130km/hを超えると車輪が滑走路を離れて空へと飛んだ。


 ワイルドスワンはコンティリーブの上空を一周すると、神の詩を聴きにヨトゥンの谷へと飛び去った。

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