プラスチック製の義務

5-1 無機質な願い

 例えば、それが奇跡の物語として、それがいつ起こるか分からない時、人は何を思うのだろう。


 人形と悪魔の愛が実ればそうなのか、人々の未来永劫の安楽を手にするのがそうなのか、はたまた一人の研究員の不毛な実験の成功がそうなのか……。


 しかしどれもこれも奇跡とは成り得ないのだろう。できるできないの蓋然的の話で奇跡は語れない。


 ここに百と一つのグラスがあるとする。

 百落として百割れ、最後の一つで割れなければ奇跡、そういうわけだ。

 だがその一つがもし割れてしまえば、奇跡は起こらなかったということになる。全ては結果論なのだ。


 では奇跡とはなんなのか。


「無意味よ」


 ルーフスが自分のデスクに頬杖をつきながら、モニターの光をメガネで反射しながら言った。

 部屋はちょっとした倉庫と言える程狭く、二つのデスクと資料棚一つでほぼ埋まってしまっていた。


「無意味、とはどういうことですか?」


 狭い小部屋でルーフスと同じく白衣を着た子供の研究員が疑問を返した。

 子供は資料を整理しているらしく、沢山の資料を右へ左へ動かしていたが、その度に紙が落ちたり、積み上げたファイルが雪崩れたりと収拾のつかない様子だった。


「奇跡なんて、都合の良いように解釈しているだけよ。そんなものは存在しない。表現したいがための言葉よ」

「でも、奇跡の様な出来事って、本当にそう思えるから奇跡なんじゃないですか?」


 子供が零れた資料を拾いながら反論する。


「偶然割れなかったと言えば偶然、奇跡的に割れなかったと言えば奇跡、結果としてそうなっただけ。それ以前に、例えばグラスが落ちる前に誰かがキャッチしてしまえば奇跡なんて起きてないのと同じだもの。そんな曖昧なもののエネルギーなんて収集できっこないのよ」

「ルーフスさんはシビアですねー」


 シビアと言われてルーフスは考えてしまった。

 出来事をどう受け取ろうかなんて各々の自由だ。決めつけるものではない。良い事を良いものとして、そう考える方が幸せだ。そして人はそれを楽天的という。

 それをわざわざ疑って、事実を妄想して悪い方へ考えてしまうのはシビアと言えばシビアだ。自らを思考の境地に追いやり、容赦無い想像を自分に要求する。これは悲観的という。


 しかしルーフスは目の前のモニターに見えている研究内容に対してどうも賛成の手を挙げられないでいる。


「エバーオール体収集実験……」

「まだ引っかかってるんですか? もういいじゃないですか、これが成功して人々が幸せになるのなら」


 適当に資料を片付け終えた子供は盆にお茶を注いだ湯呑を置き、ルーフスの下へ持って来た。

 どうやらこの子供は見た目の割に残忍な感性を持っているらしく、ルーフスの悩みを僅かにも汲み取ってあげようとする気持ちは無いようだった。


「ロッソ、私達は神々としてこの世界を守らなければならないのよ」


 盆から湯呑を取りながら言った。ロッソと呼ばれた子供は盆を傍の椅子の上に置いた。盆は木製、湯呑は沢山の魚偏の漢字を並べた渋いもので、部屋の無機質感とまったくマッチしていない。


「だからこうして高機転エネルギーに着目しているんじゃないですか」

「でもだからってこんな、……いえ、そうね。全ての人間を幸せにするには、多少の犠牲も必要ってことよね」


 一瞬の高揚を鎮め、モニターのウィンドウを操作パネルで閉じる。代わりにまたウィンドウを一つ表示させた。題目には『ニューラルネット・モデルの転用について』と書かれていた。


「今回の実験にはルーフスの研究も関わっているんです。この小さい部署がこうして最先端技術に携われることは嬉しい事ですよ!」

「そうねー、そうかもねー」


 虚ろに操作パネルをポチポチとする。傍でロッソが「もー」と文句の一つでも言いたそうに唸った。

 そう、この世界はイカれている。神でさえ人間一人くらいの犠牲は付き物なのだと考えるようになってしまった。


 救いを与える神、罰を与える神。はて神とはなんだったろう。こんなズルイ存在だったろうか。いやそうかもしれない。元々ズルイ存在だったものを人があれこれと思想を押しつけ勝手に作りあげてしまったのだ。

 人はどこまでも罪深い。


 ただ、一つ言えるのは、今この世にいる神々はいつか見ていた神の像と明らかに変わってしまったということだった。それこそ、あるべき姿へ。善と悪が気持ち悪くバランスを保って、不幸もあったが幸せもあった世界。

 ルーフスは戻したかった。

 だから今回の彼らに、せめてもの救いがあるように。


「……アネッサですか? それとも例の被検体?」


 心中を察したロッソはため息混じりにルーフスに尋ねた。


「どっちもー!」


 考え切って身体を固くしていたルーフスは思いっきりイスにもたれて伸びをした。

 アネッサと例の被検体。前被検体である手島章てじまあきらの改良型である手々島毅。

 一方アネッサの方はNo.0のプロトタイプからNo.20521、つまりは現在の手々島毅と交戦しているであろうアネッサまで、ルーフスの研究を元にして構築されている。

 この事実は詰まる所、人を守るべき神々の秩序を自らの研究で崩壊に導いてしまっているという皮肉である。


「このモデルは元々、人の世を便利にするために開発したものですもんね。こんな形で人々の平和のためになるなんて想像もしませんでしたけど」


 天然発言で皮肉を言うロッソ。ルーフスは眉一つ動かさず普通を装った。


「想像はしていたけど。まさか議会で多数の賛同を得るとは思わなかったかな。議決されたものは下手に手を出せないし」

「せめてもの監視役、ですか?」


 そう、ルーフスは上層部の神々からこの実験の監視を頼まれている。あくまでも監視、手を出すことは許されていない。破ればまた地上に元通りだろう。そうなればもうここには這いあがっては来れない。

 それだけは回避しなければ。


 ルーフスはこの実験を失敗に導き、研究を凍結させたかった。ジンと呼ばれるアネッサも、ゴウと呼ばれる手々島毅も助け、この馬鹿げた人間ジオラマストーリーを今回で終わらせたかったのだ。


「次の被検体はまだ回収されていないらしいですね」


 自分のデスクのモニターで実験記録を読みながら、ロッソはお菓子を口に含んだ。噛み砕く時のボリボリとした音が室内に響く。


「次の被検体、か」

「この赤髪は殆どの検査項目を高レベルで通過した上玉です。きっと実験もいい結果が出ますよ」


 モニターには、路地裏で何かから逃げているような様子の赤髪の男が画像で表示されていた。その赤のクオリアはルーフスの髪と類似している。

 適正検査で通った次の人間は、ルーフスの弟であった。実験として捕まえられないよう、今でも地上で暴れまわっているだろう。


「それはつまり、今回の実験は失敗するっていう暗喩かしら?」

「そうじゃありませんよ。是非とも成功して欲しいと思っています。ただ、今回また失敗したとしたら、被検体の精神汚染の後処理が面倒だなぁと。分析班として働く傍らに被検体の管理なんて、重労働過ぎてもう……」


 菓子を食いながら文句を重ねるロッソの話を、右耳から入れて左耳へ抜く。


「あんたは、きっと捕まらないでしょうねー」


 ボソリと、モニターの画像に向けて自分にだけ聞こえるような声で呟いた。

 その目には信頼や期待などといった色は見えず、ただ純粋に願いを請うかのような、危なっかしい弟を目で見張る姉の目だった。


   ◇  


 ゲルシュナーはまた劇場のバルコニー席の様な特等席で部屋を見渡していた。


「対象との収集プログラムに移行しました」


 モニターの明りをメガネで反射させる研究員が言った。


「いよいよ、か」


 いつもの定位置で蓄音器の箱の角を撫でた。

 その蓄音器は箱庭の中の大歓楽書店にあったものと同じ香りがしている。長年の経過による形容しがたい芳香だ。黄金の世界はただ夢を見せるだけ。


「今回の実験が成功すれば、こいつもお役御免だ」


 優しく、子供をあやすような手で箱を叩いた。木質なトントンという音が叩くたびに鳴る。


「それは先生が御持参されたとか」


 傍に立っていた付き添いの研究員が口を開く、ゲルシュナーもそれにうむと頷いた。


「これはわしが物心気付いたときから傍にあったものだ。いつの時も、不思議とこいつはそこにいて、わしを音楽で癒してくれたのだ。こいつのベルを見てみろ」


 促されるまま付き添いが蓄音器に近付き、モニターの光しかない中、黄金を覗いた。

 ぼんやりと映る付き添いの整った顔ともう一つ、何かが通った気がした。

 何かというか、黒猫だった。

 暗くて完全に見えたわけではないが、特徴ある背中の運びは猫のものに違いない。そしてその漆黒の身体は暗い黄金の世界でもよく映えていた。


「これは?」

「こいつに宿らせた精霊だ。名は無い。ただ自由に、黄金の世界で生きる」

「これが、なにか?」


 いまいち反応の鈍い付き添いにゲルシュナーは面白くない顔をして説明した。


「これと全く同じものを箱庭に置いた。要は監視か、傍観か。この猫が気分で向こうを見てくるのでな、データ管理している向こうの環境と照らし合わせている」

「あぁ、なるほど」

「まぁ、黒猫がここに戻ってきているということは、向こうのはもう壊れたんだろうがな」


 箱を擦り、あんまり寂しそうにゲルシュナーが言うのを付き添いは気遣った。


「よろしいんで?」

「実験の成果は見られそうだ。どうやら今回は今までの実験の中で一番期待値が高い様だからな」


 知ってか否か、同じ香りのするその蓄音器が向こうで簡単に壊れた事を痛んでいるのでは、と付き添いは思ったが、ゲルシュナーはそれ以降その蓄音器の話には触れなかった。


「期待値が減少中!」


 突然、部屋に十分響く声で研究員の一人が叫んだ。


「原因は?」

「不明です! 直ちに被検体に憑依薬を投与します」


 研究員がパネルを操作する。躊躇いのない行動に付き添いが苦い顔をした。


「酷い事をする。処理班の者がまた滅入ってしまうな」

「人類の存亡がかかっている。細かい事を言うな」


 顔色一つ変えず、言い聞かせた。


「我々神々の存亡はどうなっても構わないと?」

「ふざけるな、神は地に降りた。もう人間と変わらんだろう、人のために我々が尽くし、人類を繁栄に導くことは大昔より決まっておる」


 執念深く付き添いに厳しい視線を送るゲルシュナーに、付き添いは諦めた様子で短いため息を吐いた。


「ルーフスのとこにいるのが喚くのです。狂った生き物の処理が大変だから憑依薬の投与は控えろと」

「ふん! あのクソ女のとこのクソガキなど、喚くのなら堕としてしまえ」


 少し頑張って説得しようとも思ったが、ゲルシュナーの機嫌が急激に悪くなったのを察して、付き添いは口を閉じた。

 代わりに肩を上下させ今度は本気で諦めた。


「期待値、戻りました」

「限界まで上げよ」


 研究員の報告に、二の句も継げぬ早さで命令をした。


「は……しかし、これ以上の投与は本体が持ちません!」

「聞こえなかったか、限界までだ。一本でも二本でも、三ミリでも四ミリでも。余裕が無くなるまで投与させよと言っているんだ」

「規定違反になります! 万が一本体が持たなかった場合、箱庭にも影響がでます!」

「構わん、また作れば良かろう」

「そんな、……我々の努力をドブに捨てろとおっしゃるのですかっ!」

「もうよい」


 ゲルシュナーの指が軽快な音を響かせると、報告をしていた研究員は糸の切れた操り人形の如く、その場に崩れた。

 人形になった者は目を明後日の方へ向けながら泡を吹き、血涙を流し、糞尿を垂らしていたが、周りの研究員は少し目の色を変えるだけで己の作業に集中していた。


「そこの、今わしの言った通りに手配しろ」

「は、はい!」


 視線を向けた先の女の研究員に同じ指示をすると、その女は急いで作業した。

 慌てふためく様子で手を震わせ、潤んだ目でモニターを操作した。


「怖い事をなさる」


 冗談でも言い合うかのような軽快ささえ見える口調で付き添いは言った。直ぐにモニターには投与レベルを限界まで高めた表示がされていた。


「しつけの悪い者には仕置きが必要だ」

「なるほど、仕置きが効けば良いですね」

「もう効いた。あいつは身を持って皆に波及させた。褒めてやらんとな」


 それこそ冗談で笑うかのように言うゲルシュナーに、やれやれと付き添いは手を上げて首を振った。


「それより、次の適性者ですが」


 冗談はさて置きといった風で、付き添いは話を変えた。


「うむ、あのクソ女の弟か、……上手く逃げているようだ。捕まえるまでもう少しかかりそうだと捕獲班から報告を受けた。今まではどの被検体も言葉で上手く寄こせたのだが、このクソ女の弟というのがやけに機転がきく、捕獲班を半壊させたとの報告も添えてあったわい」

「それは大変だ。私の班からも援護を出しましょうか?」


 付き添いはどこまでも楽しそうだった。できる事ならこの身で一戦交えたいとさえ思っていた。しかし、ゲルシュナーの目には付き添いは映っておらず、その卑しく不気味な笑みは見えなかった。


「いらん申し出だな。もう手を打ってある」

「これはこれは、余計な事を申しました。一体どんな手を?」


 興味津津といった体で付き添いは尋ねた。ゲルシュナーはその老いて皺の目立つ目の端を付き添いに向け、一言。


「軍だ」

「軍ですか」


 愉快な笑みに作り変えていた付き添いは「上には報告しているんですよね?」と付け加えた。当然そうしているという確信とただの冗談のつもりの確認だったが、ゲルシュナーはその問いに「いや」とだけ返した。


「……怒られますよー?」


 付き添いは暢気な口調とは裏腹に完全に顔が引きつっていた。もう少し明るい場所なら顔も青ざめていたに違いない。


「わしももう長くは無い。最後の悪足掻きだ」

「またまた御冗談を、上の指示に対してこうも権力を維持できているのは先生が我々の五倍以上も生きているからじゃないですか、死ぬなんてそんな」

「生きるだの死ぬだの……! 五百年前のわし等には無かった言葉だ」


 慰めに見え、憎らしい態度の付き添いに不機嫌を返した。そんな老いた神の後ろを、付き添いはキリリと冷えた目で見つめる。


「まぁ、時間の問題ですよねぇ。ホント」


 これはゲルシュナーには聞こえなかった。なにせ付き添いの内心でそう言っていたからだった。


 蓄音器、黄金の世界の猫はゲルシュナーと付き添いを向こうから覗いていた。尻尾をあちらこちらと振り、耳はぱたぱたと色んな方向に向けた。何度かその愛らしい肉球の手で頭を掻くと、音もなく暗闇に消えていった。

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