4-2 死神は本を買う
あれから毅はアネッサに店番を任せ外出していった。いや、正しく言うなれば逃げ出した。
きっと容赦ない日差しの熱に逆上せていたに違いないと、毅は自身に言い聞かせた。
「はぁ……、俺、どーしたんだろ。耳の事がショックで頭おかしくなったのかな」
ふらふらとちょっと歩いては電信柱に寄りかかったり、また歩いては自動販売機に寄りかかったりと、傍から見れば具合の悪そうな人にしか見えない有様だった。
蝉だけが強かに励ます中、大きくため息を吐く。
「あー、何で出てきちゃったんだろ。帰りづれぇ……。アネッサ、忘れててくれないかな」
普段から自分は結構冷静に行動できる人間だと思っていたが、まさか咄嗟の拍子にあんな、キスをしてしまうなどとは夢にも思わなかった。
キス。その二文字が形容しがたい感情を沸きあがらせる。
「うがー!」
フラッシュバックされるあの感触が頭から離れない。退院する時に触れたひんやりとした手、頬も同じく暑さには心地の良いしんとした冷たさがまだじわりと唇に残っている。
自分の指でその思ったより弾力のある肉襞をつまんだ。
「柔らかかった……」
この人生で初の試み。毅の中に芽生えた衝動を一番リアルな表現で現れたものだった。それが恋のようで恋でないような気がするのは、自分の恋愛経験が浅いせいなのだろうか。
毅はおぼつかない足取りで行く当てもなく歩いた。
取り残されたアネッサは依然、落ち着いた様子でカウンターに座って紅茶を嗜んでいた。
「ふぅ、上手くいけばいいですね」
誰に話しかけるわけでもなく、目の前の蓄音器のベルを指で滑らす。黄金の世界は風も吹かず、音も鳴らない。ただ落ち着いたラグタイムの音色がレコード盤の凹凸から運ばれていた。
「そうそう、そういえばあれももしかしたら……」
傍のレコードが並ぶ棚。アネッサは飲みかけのティーカップを傍に置き、その端にある中学のアルバムを抜き取ると一枚ずつ捲っていった。独特の硬さ、厚さを指に感じながらクラス写真のページを眺める。
「手々島、手々島……」
探している名前を呟きながら、左上から視線でなぞる。
「手々島……、やはりありませんか」
最後の六組のページまでみたが、手々島の名前は載っていなかった。この中学のアルバムの中に、毅または手々島という人物が存在していた痕跡は見当たらない。
アネッサはアルバムを閉じてポシェットに仕舞った。
「今夜にでも、始まるかもしれませんね。リーサルウエポンの整備が必要です」
ティーカップを消して、アネッサは和室で寝息を立てる祖父を素通りし、二階にある自室に戻った。
毅の部屋の反対にあるほぼ物置になっている部屋、何とか奥の方にスペースを空けて祖父に買ってもらったミニチュアの家がイスの上に置いてあった。アネッサは指を鳴らして煙と共に中に入った。
そこには外観から想像できる生活空間などは一切感じられない。部屋には銃器または刀剣など様々な武器、火器が収容されていた。
「こんなもので対応できるなら、二万もの間に収まっていたのでしょうね」
その中でも手頃と思われるサイズの銃器を手に取る。生々しいアルミ合金フレームの黒光りがアネッサの服と同化しそうだ。手慣れた様子で弾を装填し、セーフティを解除すると遠くにマネキンを出し、数発撃ちこんだ。
殆ど真ん中に射止めた的の命中に別段気にも留める事なく、マネキンを変えて今度は何丁か銃を魔法で宙に浮かして発砲する。
けたたましい騒音を弾かせてまたマネキンの胸部を貫いた。音の反射が空に消えるまで暫く。アネッサは銃を置いた。
「こんなチープなシナリオ、誰が感動するんですかね」
自嘲気味に口角をあげて笑うアネッサは心底呆れていた。
「私の魔法にも限界がありますが、これがあれば少しは……」
ポーチから手に取ったのは水晶の様なものに閉じ込めた毅の耳の欠片だった。
アネッサの瞳には今まで毅や祖父と接してきた明るく陽気な表情は伺えなかった。鋭く冷えた、絶望すら感じる程黒く沈んだ色を浮かべていた。あの光を受けて煌くピジョンブラッドの瞳の面影は無い。
「今夜、あるいは明朝」
影を落としたアネッサの口元は酷く歪んでおり、悔しさや苛立ちを隠せない様子だった。かと思うと、短い呼吸をして今度は切なさで満ちた顔色で手の甲を額に付けた。
「退院祝いがこんなことになるだなんて、浮かばれないったらありゃしない、ですね。貴方は一体、こんな時何を思うんでしょう」
落胆し、服に目立たないように付いたツマミを引っ張ると、服が弾けて黒いコンバットジャケット姿になった。そして二階に続く階段を上っていくと、もう無人の家になったかのように静まり返って夜になるまでそこから出なかった。
毅は三十分程で帰宅し、一応店先の様子を伺ってから家に入っていった。
「店番ほったらかしてどこに行ったと叱ることも然る事ながら、居ないのが今の俺にとっての幸いだ」
あれからヘロヘロと考えた結果、結局答えという答えは出ずに状況に合わせることが吉と脳内会議で議決された。
素知らぬ顔でカウンターの緑色のドーナツパイプイスに座る。
「やぁ、毅くん」
一息ついた矢先、店にここ一ヶ月内で初めての客が来た。
「あ、善治さん!」
見知った顔ではあったが、善治さんはいつもわけもなく突然来て、適当な本を一冊買っては世間話をして帰っていく。とてもいい人だ。
「朝退院したんだって?」
「そうなんですよー」
「もう、具合はいいのかい」
「いやぁお陰さまで。じーちゃんといい俺といい、お世話になっちゃってすみませんでした」
善治さんの家や玄関先で色々と惨事を起こして迷惑をかけてしまったのに、先程飛び出したついでに謝罪に行けばよかったと心底後悔した。そして、感謝よりも逆上せあがっていた自分の頭に呆れた。
「いいんだよそんなの、これね」
カウンターに文庫本を一冊置く。毅は卒なくレジ会計をし、そのまま手渡した。
「世間話しにわざわざ本なんか買わなくていいんですよ?」
「ここが無くなると、本当に寂しくなっちゃうからね」
半分冗談、半分本気な様子で陽気に笑った善治さんは、傍の蓄音器を見据えた。
音は鳴っておらず、レコードも設置していない蓄音器。黄金はそれでも黄金であり、絶えまない世界の景色を映している。
そして善治さんは毅の方へ向き、こう続ける。
「でも、もしかしたらもうこの匂いは嗅げないかもしれないなぁ」
「え?」
「今日は見納めに来たんだ」
「え、どこかに引っ越されるんですか?」
「いや、違う」
いまいち要領を得ない。遠まわしなさよならをする目の前の老人が、不思議でならない。
「あの、どういう……?」
「まぁ、その内わかるさ。ごめんね、退院だっていうのに祝いの品も持ってこないで」
「あ、あぁいえ、お気になさらず。こちらこそお茶も出さないで、すみません」
「じゃ」
毅は軽い会釈をして善治さんが店を出ていくのを見送った。
祖父への挨拶はいいのだろうかと考えたが、なにやら毅自身と話をしたかったようなので要らぬ気使いかと口にはしないことにした。
また一人になる。
「今日はなんだか様子がおかしいな」
なんとなくじりじりする欠けた耳を指でいじる。何度触っても隠しきれない奇抜さに少々戸惑う。
鏡を取り出して眺めてみた。
「ファンキーだよなぁ、学校行ったらなんて言われるか……。教師には説明しなきゃいかんだろうな」
夏休みも終わりに近づく、この一ヶ月で毅に起こった出来事はあまりにも予想だにしなかったもので、ほとほと困ってしまった。今となっては、と言える程気が落ち付いていられるのは奇跡に近いものなのかもしれない。
「なんか、なんなんだろう、この感覚」
願いを叶える魔法使い、アネッサ。彼女の登場がこの一月の間の事で、その出会いは毅の人生の景色をがらりと変えてしまった。
それは不本意ながらも少し楽しげでそして刺激的であった。
彼女がなぜこうも奇想天外な神技を成しえているのか、それだけを考えるとただただ不安になるのだが、この見えないながらに存在しているのは何なのか。
毅の今の頭では到底計り知れるものではなかった。
「でも、幸せだと思ってしまう自分が、一番よくわからない」
何事もなく暇であった日々、正直退屈過ぎて吐きそうだった。それを変えてくれたアネッサに、そうなったらいいと望んでいた自分に、毅は幸せだと思い困り果てるのであった。
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