不穏な心
4-1 望んだもの
というわけで退院である。今日も今日とて日差しが暑く、病室の空調機の恋しさを引きずりつつ毅は病院の玄関口まで来ていた。
隣りには昨日言っていた通り、アネッサが迎えに来ている。
相変わらずの黒々しい服装がこの暑さの中全く以って不愉快であるが、本人はこれでもかという程涼しい顔をしている。
「さぁ、楽しみですね」
「本当に変な事してないんだろうな」
汗一つ流さない表情のアネッサに不安になるなという方が無理な話で。毅は鬱屈した心情のまま歩を進めた。店が西洋書店のように小奇麗になっていても、覚悟はしておこう。
「あのぉ、毅?」
二三歩進んだところでアネッサが何か物言いたげな様子で呼びとめた。「何?」と短めに尋ねると、すっと人差し指を立てて言った。
「『いないいないばあ』しませんか?」
突飛すぎる。
何故という、毅は純粋な疑問の渦に飲み込まれた。なぜここで幼稚遊びなのか、唐突もいいとこである。久しぶりのサプライズに、毅の脳内は少し焦りを生じたが、なんとか溺れずにアネッサに対して了解を得た。
パターンからして、十中八九何かするつもりなのだろう。
「ん、いいよ」
「いないいな~い」
望むままに、毅はアネッサの手によって視界が塞がれた。妙にひんやりとした手が気持ちいい。あぁ、本当に人間ではないんだな。毅はなめらかな手の感触にそんな事を思いながら、次の一手が想像できている自分に心底失笑した。
「ばぁ!」
声と共に視界が開け、射しこんでくる夏日に目が痛がった。
ほら、これだ。想像通り、してやったり。悪戯な心情が妙に気持ちを浮かせて、それがなんだかくすぐったくて笑った。店の外観が毅の瞳には映っていた。
毅の様子にアネッサは膨れる。
「むぅ、もう慣れてしまったんですか? 最初の頃はいちいち驚いてくれたのにぃ」
なんだ。
「俺は今のこの慣れてる感じが好きだけどな」
楽しんでいるんじゃないか。
「ふふっ、私も楽しんでる毅がとても嬉しいです」
毅はこの状況を、言ってしまえば最初の頃から嬉しく思っていたのかもしれない。
そうだ。自分は退屈に思っていた。手々島 毅という人物にも、この寂れた大神商店街にも、単調な学校生活にも、世界にだって。
なんて緩やかに時は食んで行くんだろう。ただカウンターに鎮座してラグタイムを奏でるだけの人生なんて、なんて……、なんてつまらないんだろう。
あの日あの本を見つけなければ、こんなエンターテインメントを体感する事もなかっただろう。
そんな事を考える。
「さぁ! 今夜は退院祝いでパーティだ!」
「おめでとー!」
「ぶらぼー!」
気を取り直して数人の小さいアネッサがクラッカーを鳴らした。飛び散る紙屑が毅の頭に引っかかる。
そして間髪入れず隣りにいたアネッサが指揮のポーズを取ると、楽器に持ち替えた小さいアネッサ達が騒音を響かせた。蟬をも静まり返る程の演奏に毅はしびれを切らして叫んだ。
「やかましいっ!!」
頭の紙屑を払っていると、小さいアネッサ達はポフンと消えた。一つ咳払いをして、アネッサは荷物を持って店に入っていった。
「先程、毅を迎えに行く際おじい様も出て行かれて」
「あ、そうなんだ。どこ行ったの?」
「退院祝いと称して駅前のあの洋菓子店へ」
店に入りつつ、毅は変わらぬ我が家に安心感を覚えていった。聞きなれた風鈴の音、カビ臭い古本の背表紙、周期的に揺れる扇風機。そして――。
「あれ、針が落ちてる」
蓄音機も相変わらずだった。金色の世界は直も幻想的で、季節感の無い風景が永遠の時さえ感じ取れてしまうような不思議な感覚を呼び覚ます。
暫く見ていなかったせいか、胸の奥がじわりと熱を帯び血と共に流れていく。
「どうかしましたか?」
ぼーっと蓄音器を眺める毅にアネッサは心配そうに尋ねた。
「あぁ、いや。暫く見なかったせいか、妙に懐かしくて」
「毅と出会った時の曲をかけていたんですよ」
そう言って蓄音器の針をまたレコードの上に走らす。レコードの細かな凹凸を針がなぞり、震える振動が管を通って大きく開けた黄金のドレスから音を鳴らした。
確かに、この曲はアネッサと出会った時に流していた曲だ。
「あれからまだ一週間も経っていないのに、どうしてか懐かしいのです」
「それは、……俺もそう思う」
荷物も置かず、暫く夏の騒ぎとラグタイムの音色を聞いていると、祖父が返ってきた。
「二人とも、そんな所で何をしておるんじゃ」
既視感が脳を押す。祖父が駅前のあの洋菓子店の袋を下げて返ってくる様子を何度見たことか。額に汗を浮かばせながら返ってきた祖父に、毅は少し安堵した。
「じーちゃん、おかえり」
「そりゃこっちの台詞じゃ、ほれ、ケーキ買ってきたぞい」
兎にも角にも、毅は身辺を整えた。
昼もまだ登り切っていない頃だったので、素麺を湯がいて簡単な昼食を用意しつつ、これからの予定を考える。
「ほぉ、見事に欠けとるな」
祖父が口から何度か素麺を飛び出させながら言った。その目は毅の耳に向いている。あのアネッサに切り取られた耳だ。今はもう痛みは無く、若干の違和感はあるものの、通常と呼べるに値する感覚を持ち合わせていた。
「パンクだろ?」
「はぁ? パンツ?」
「……なんでもないよ」
パンクなんて言葉を祖父が知っているのかわからない毅は、説明の面倒くささから逃げ、素麺を啜った。
「今日はこれからどうするのです?」
つゆにネギを振り足しながら、アネッサが聞いた。
「どうするもなにも、店にいるよ。宿題終わらせる。もう夏休みも長くないし」
「あ、じゃあ私お菓子作ってあげます。おじい様が買ってくださったケーキもありますから、ちょっとしたのを」
楽しそうに指を立てて提案するアネッサに、毅は了承した。
今日は静かな一日になりそうだったので、宿題を終わらせてしまうにはもってこいだ。祖父には外を出歩かないように釘をさしておかねばなるまい。
天気は良好、日差しも容赦ない。近年稀に見る猛暑日が続いて水不足のニュースがテレビで報道されいる昨今、外を不用意に出歩かれ熱中症でぶっ倒れてしまうのではないかと気が気でない。
祖父も毅の心配を素直に聞き入れ、リビングでテレビを見たり、和室で新聞を読んだりするようだ。
そんなわけで、今日は皆個人々々の静かな時間を過ごすことになった。
宿題は連日の店の暇さもあってそれ程溜まっておらず、英単語や四字熟語の書き取りなどは長い針が二回りもしない程で終わってしまった。
その間アネッサは珍しく静かに騒いでいた。自分で出したソファに座り、プカプカ宙に浮きながらシャボン玉を吹いたり。小さいアネッサをポシェットから叩き出し、共にジェンガをしたりと、一人遊びのレパートリーを増やすことに余念が無い様子だった。
祖父も祖父で、傍に浮くアネッサを気にも留めることなく、リビングでテレビを見た後、和室で新聞を読んでいたが、その内寝こけてしまったらしい。
この短時間で皆よく暇つぶしに専念してくれた。お陰で残りの宿題も片付きそうだ。
「毅、お茶はいかがですか?」
さて、次の宿題も片付けようとしたところ、アネッサがフワリと飛んできた。コースターにグラス、麦茶を出して注ぐと、ポップコーンのように空気が弾けて氷が三つグラスに入った。
「どうも。狭いんだから、頭ぶつけるぞ」
「大丈夫ですよー。所で何かしてほしい事無いんですか?」
どうやら本当に暇になってしまったらしい。手持無沙汰な様子に、毅は少し考える。
「うーん。俺は特にないんだよなぁ」
「もう、すっかり願いを言ってくれなくなりましたね」
「最近って、俺入院もしてたし。あの件から反省してんだよ、お前を道具みたいに扱ってた自分をさ」
「んーでも、私願いを叶えるのが仕事ですし……」
そんなこといわれても、願い事なんて結構無いものだ。もちろん欲望の全てを叶えろと言えば、お金持ちにしろ、学校でいい成績を取れるようにしろ、彼女を作らせろなど全く非モラル的な願いはある。
だがそれを叶えて貰おうなんて、人間として終わりだ。
だから、例えば今回願いを叶えて貰うのはこんなことぐらいしかない。
「んー、じゃあここの空調をどうにかできない?」
「お安いご用ですよ!」
パッと明るくなり、準備運動になぜかバッドの素振りをするアネッサ。柔らかい素材のものだが、店が狭い為危なっかしかった。
今日の風は蒸し暑く、何だか不快だ。扇風機から送られてくる風も正直嫌がらせのように思えてくる。じわじわと汗も滲み、白旗をあげて夏に降伏したい気持だった。
「じゃあ、どうしようかな。何をあげよう」
バッグを漁るが、宿題と教科書類しか見当たらない。対価が無ければ願い事を叶えて貰うわけにはいかない、それは前例然りだ。もうあんな痛い思いも、耳を千切られるのもごめんだ。といっても、周りにあげられるものが無い。
レコードでもあげようかと考える中、単刀直入に何が対等なのかをアネッサに尋ねてみる。
「そうですねぇ……」
優雅な立ちずまいで一通り考えを巡らせたアネッサは、湿った唇を動かし、応えた。
「じゃあ、キスしてください」
「はぁ!?」
愛嬌に人差し指を唇に当ててる様子が全く以って憎ったらしい。毅は思考のボイドを経てザックリと驚いて見せた。何を突然そんな事を言い出すのか、それは対価として成り立つのか、そもそも対等という熟語を用いて聞いたと思ったがよもや部屋の温度を下げるためにちゅーを要求してくるとは思わなんだ。
目を閉じて顔を寄せてくるアネッサを毅は押し返した。
「ちょ、ちょっと待て!」
「なんですか?」
「いや、なんで今このタイミングでキスなんだよ!」
今までは物々交換のような事をしていたのに、急にこんな儀式的な事をしようだなんておかしい。
「物々交換だって十分儀式的ですよ。物の時あればキスの時ありです。対価として十分な報酬を貰うのが目的なんですから、これくらい安いもんですよ」
「いやだ!」
「子供みたいなこと言ってないで、童貞じゃないんだからキスくらいいいじゃないですか」
「俺はまだ子供だし童貞だよ!」
高校生は子供だ。そして毅は高校で童貞を捨てる程チャラけた人間でもなかった。それが何故だか無性に胸の奥を苦しめる感覚をもたらし、毅はこの時自分自身の男児としての虚栄心に心底落胆した。
そして男は心のどこかでアウトローを気取りたがる生き物なのだということを悟ってしまった。
英国じゃあるまいし、殊に純真なる男子高校生相手に責め立てるなんてズルイ。
「じゃあ私から」
ふとアネッサの顔が近づき、反応する間もなく心臓がざわざわと逆立つ感覚に駆られる中、その唇はその頬に触れた。妙な湿り気が狭間に留まり、ざわめきの頂点と共に熱が顔中に広がる。
「っ!!」
「案外もちもちしてますね。汗のせいでしょうか、ちょっとしょっぱいです」
妖艶に唇を舐める余裕の戯けっぷりに対し、口を魚の真似事のようにしか動かす事が出来ない毅は、熱で目に溜まった涙越しにアネッサを凝視した。
「お、おま……っ」
「それでは空調を」
何事もなかったように願いを遂行しようとするアネッサに、もはや何の罵声も身体から出ない毅は店のカウンターに突っ伏した。
自尊心を脅かされたこの状況に只々困惑する。
「ピッ!」
英国騎士のような格好でホイッスルを鳴らすと、小さいアネッサが数人『熱』や『warm』など様々な言語の書かれたプラカードを持って色んなところから出てきた。
「変換!」
今度はホイッスルを短く二回鳴らす。
小さいアネッサ達が持っていたプラカードを翻すと今度は『冷』や『cool』などの文字が現れ、最後にアネッサが指を弾くと、プラカードがポフンと一斉に弾け冷気を漂わせた。
この間、毅は気になって仕様がなかったが、視線を腕に潜らせたままカウンターに伏せていた。
「こんなところですかね、毅」
そういうアネッサの呼び掛けに、毅は「あぁ」とだけ応え、大きく息を吐くとキッと正面にならった。なにか吹っ切れたような、幾分男が上がったような表情をアネッサに向ける。
「……おい」
「はい?」
「ちょっと寄れ」
小さいアネッサを一人ずつ頭を雑に掴みながらポーチにしまい込むアネッサに、毅は手を仰いで呼んだ。何か説教でもするのかという具合の妙な顔を向けてくる毅を気にせず、最後の一人をしまい込んだアネッサは言われたとおりに近付いた。
「なんでしょう……、っ」
手の届くくらいの所で毅はアネッサの首元を掴んで強引に引き寄せ。
「……っ」
唇にキスをした。
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