3-3 雨模様

 目が覚めると、どうやら家に帰っていたようで、毅は和室の天井を見上げていた。綿でも詰められたかのような感覚でぼんやり考える。


 確かそう、祖父がぎっくり腰で横たわっていたのを覚えている。それからどうした。奇妙な連鎖結合をする記憶に疑問が溢れる。どうして帰って来たのか、どうやって帰って来たのか、祖父は、アネッサは、……考えは答えを生まず。

 なんだか湿った空気が頬を触れたので、毅は縁側を覗いた。

 いつの間にか空に厚い雲が覆っていて、雷鳴が轟いている。


「あれ、今日はずっと晴れの筈じゃあ、……」


 今朝空を見た時はこんな様子など少しも見せなかったのに。天気予報でも晴れのマークが出ていた筈だ。


「おぉ、毅。目ぇ覚めたか」


 祖父がスイカを切り分けて持ってやって来た。具合はいいのだろうか。テーブルに皿を置く、以外にも元気そうに見える祖父に、毅は疑問を投げかけた。


「じーちゃん、腰大丈夫なの?」

「腰ぃ? 何言ってんだお前ぇ、寝ぼけてんのか?」


 寝ぼけているなんて、そんなことはない筈だ。脳が思うように働かないのは事実だが、意識ははっきりしている。

 しかし、どうしたことか、記憶の中と実際目の当たりにしている現実が全くと言っていい程繋がらない。あべこべだ。


 そういえばと、毅は祖父にアネッサの所在を聞いてみた。ところが返された言葉、というか“祖父そのもの”に驚駭きょうがい甚だしく、食べようとしていた手元のスイカを落とした。


「私が、何か?」


 水気のある落下音と空いたままの口を目の前の人物に向ける。

 ピジョンブラッドの瞳はそれでも綺麗だった。今、祖父の存在が空虚に消え、アネッサが畳の上に正座している状況が、果たして正しいのだろうか。否、正解不正解、可能不可能などの二面性だけではこの場合説明するに至らない。

 アネッサがここにいる以上、あるのは現状が正しいという現実だけだ。


「あ、……っ!」


 そこで初めて、毅は歪曲していた記憶が本の背を合わせるような感覚によって、確かな記憶を掴み取ることになった。

 咄嗟に耳を触る。


「痛く、ない……?」

「今、一時的に痛みを消しています」


 あの激烈な痛みの走った耳はやはり欠けてはいるが、痛覚が無かった。というか麻酔の様な妙な虚無感が耳を覆っている。

 毅が次に起こした反応は、ふいに込み上げた怒りによって、今し方手元に落としたスイカをアネッサに投げつけることだった。


「お前ッ!」

「……」


 避ける動作すらしないまま、アネッサは顔面にスイカをうけた。身が崩れて服も汚れた。


「俺に何したんだッ!!」


 それでもアネッサは正座の姿勢を崩すことなく、スイカのカスが付いた顔をまっすぐ毅の方へ向け、言った。


「御説明が至らぬばっかりに、このような事態になってしまったこと、お詫び申し上げます」


 丁寧な土下座をして、アネッサは謝罪した。


「……なんだよ、説明って」


 顔を上げ、真摯に目を向けてくるアネッサに、毅はたじろいだ。

 外では一つ二つと雫が跳ねている。雨が降り出し、ガラス戸を濡らしていた。

 一呼吸して、アネッサは言った。


「私の魔法は使う分にはなんの支障もないのですが、願いに対する魔法となると、常に願った側からの支払いが必要となるのです」


 それは聞いた。あの紙芝居での事如く、頼みごとをする際は常に何かを与えている。


「願いの大小に関係なく、支払われるべき対価を払わず次の願いを叶えた際は、私の意志に関わらず強制的に願いと加算分に対しての支払いをしてもらうようになっています」

「つまりは、……」


 つまりは、と大体の要領を得た毅は事の顛末を整理した。

 今朝の家の建てつけと祖父の所への移動の二つ願いを叶えさせてもらった。これが今回の事態の原因であった。


「私がしっかり事前に御説明していれば、こんなことにはならなかったのです。本当にごめんなさい」


 あれはツケで先に願いを叶えて貰ったこと。対価を後回しにした自分にも責任があるだろう、アネッサを便利道具のように思ってしまっていた自分に酷く反省した。

 微妙に残っている怒りをため息で解しながら、毅は謝った。


「わかったよ。俺も色々悪かったんだ。たぶん、それ自分じゃ制御できないんだろ?」

「はい、魔法のシステムは私が作り出しているわけではないので。本当にごめんなさい」


 詫びを入れ続けるアネッサの様子に、毅は今回の件は水に流そうと決めた。過ぎたことだ。そう思い、切り替えに今の状況をアネッサに尋ねた。


「家に運んでくれたの、アネッサか?」

「あぁ、いえ。ここは説明のために私が勝手に用意させたものです。実際の毅は病院で休まれてます」

「そーいうことね」


 なんだか疲れてしまった。すっかりしょぼくれてしまったアネッサの様子が少し面白かったので、この件はこれで良かったのだと思う。他に考えても仕様がない。

 ただ毅には、アネッサが用意したというこの場所に一つ気付いた事があった。


「アネッサ、ついでにこの天気。もしかして、お前の気持ちも入ってたりする?」


 部屋を用意したというならこんな嵐にしなくてもいいはずだ。なんだったら今休んでいる病院で説明したっていい。最初に祖父を目の前に見せた周りくどさも、辻褄を合わせればきっと顔を出し辛いということだろう。


「私の心は雨模様なのです」


 雨どころじゃ済まない天気にはつっこみは入れず、アネッサの様子が少し戻った気がした所で、二人は元の場所に戻ることにした。


   ◇  


 紆余曲折を経て、事態はようやく収束地点を見出したようだ。

 毅は空調の利いた部屋でベッドの上に寝ていた。直ぐに病院内だとわかると、上体を起こして辺りを見渡した。仕切りのカーテンが視界の右側を遮り、窓側と傍の花瓶に活けられた向日葵が夏日を受けて鮮やかな黄色がきらきらとしていた。


 ガーゼや脱脂綿などをテープで固定された耳。どういう治療をされたのかは定かではないが、痛みは自分の知る『痛み』というクオリアに留まった程だった。


 外はどうやら恙無つつがなく晴天であり、相も変わらず蟬声は辺りを叩いて回っていた。先の事態が丸々嘘であったかのような平和ぶりに、毅は安堵のため息を吐いた。


「なんか、あれから一日も経ってないと思うと、長いもんだな。今は、午後二時くらいかな」

「……二日だぞ、ボケェ」


 カーテン越しに祖父がいた。杖で腰の様子を少しかばいながらの姿勢で空色の仕切りカーテンを開ける。二日という言葉に、毅は疑った。


「じーちゃん! え、二日って……」

「お前ぇがここに運ばれてから二日だ」

「俺二日もここにいたの!?」


 耳を異常に切って気絶したくらいで二日。毅は自身の精神力に裏切られたかのような気分だった。


「まあったく、人がぎっくり腰で大変だって時に。アネッサちゃんがいなけりゃあ、お前ぇ、死んでたぞ」

「どゆこと?」


 祖父が説明する。アネッサを探しに楠田宅を出ていった毅は、道で不良に絡まれていたアネッサを助けに入り、不良の一人が持っていたナイフでなんやかやで耳を切り取られたらしい。

 それはもうボッコボコにされたため、アネッサが警察を呼んだ直後に意識を無くして程無くこの病院に運ばれた。というシナリオとしてはベッタベタのストーリーだった。

 というか、耳以外はまるで外傷の見えない自身を見て、その話に不審すら抱いていないのだろうかと毅は心配になった。

 そして、愛想笑いしかできない毅は聞いた。


「それで、じーちゃん達はどうしたの?」

「わしらはお前ぇが救急車で運ばれた後、アネッサちゃんが教えに来てくれてなぁ。そりゃあもう血相変えて慌ててたもんだから、わしも腰痛いの我慢して病院に向かったんじゃよ。気力を尽くしたじじいの勇姿、褒めろ」


 それで兎にも角にもこの結果、というわけだろうか。あのアネッサの事だ、それはそれは迫真の演技であっただろう。易々と目に浮かぶ。あいつは“観せる”ことに関しては一流だ。


「で、そのアネッサは?」

「あぁ、店の事を任せてきたわい」


 店、そういえば家はちゃんと回ったのだろうか。人が来ないとはいえ丹念に綺麗を保ってきた店内と、我が手々島家は無事二日の時を過ごせてきただろうか。

 洗濯にゴミ出し、家と店の掃除。毅が色んな事を頭で巡らせていると、病室にノックがかかり看護婦がやってきた。


「ご機嫌、いかがっスかあ?」


 アネッサだった。

 そこらへんの看護婦より制服が着こなせている様子に、毅の目には類似した人物かと錯覚させたが、ふざけた言動と口調が決定打になった。

 そこは「御気分いかがですか?」などと問うのが正解ではないだろうか、毅はナースのコスプレをするお調子者に優しさを返した。


「“ご機嫌”は、まぁまぁ良いよ」

「おぉ! アネッサちゃん! さすが何を着ても似合うのぉ!」

「ありがとうございます」


 嬉しそうに一回転して見せてみるアネッサに祖父はやんややんやした。

 そんなことより毅は気になる事を聞いてみる。


「アネッサ、店は平気?」

「バッチリですよ!」


 親指を立てて自信満々に言って見せた。その証拠にと、毅の前にファイルを一冊置く。


「何コレ?」

「まぁ、開けてみてください」


 開いてみると、祖父やアネッサが本を整理したり、変顔したり、変なポーズをしたりと色んな写真が収まっている。アルバムだ。


「家のことやらが心配になるかと思いまして、作ったのです。どうですか?」


 外の様子に宜しく、家の方も楽しく綺麗に整っているのが伺える。卒業アルバムを見ているかの気分に、毅は綻んだ。殆どの写真がふざけあってるものだったので、若干の不安は拭いきれていないがなんとか押し込めた。


「いや、心配はなくなったよ。ありがとな」

「いえ、今回の事もありますし、喜んでくれて私も嬉しいです」


 なんだか少し照れているようだった。普通に受け取ってもらえば良かったものの、予想もつかない反応に毅は気持ちの置き所に迷った。

 どうやらアネッサは今回の事を重く受け止めていたらしい。もちろん軽々に事を受け止めてもらっては困るが、あまり重々しいのも気が引ける。毅の認識が甘かった事も原因なのだ。


「お前、これであいこな。俺は怒ってるわけじゃないし、もう気に病んだりするんじゃねーぞ」

「はい、わかりました」


 毅は今ここに病室で耳にガーゼやら脱脂綿などを付けている自分の状態を少し良いモノに思えた。知らない内に家族のような感覚で隣りにアネッサがいる事を、今日初めて嬉しい事だと感じた。


「なんじゃお前ぇ、もしかしてこのままわしが死んだ後も、アネッサちゃんと二人で仲睦まじく暮らしていくつもりかぁ? ずるいぞ!」

「不謹慎なこと言うなよ、後これからは日中暑い時には外出は極力控えてくれ」


 祖父の冗談に毅は呆れ具合な口調で返した。


「そうですよ、私はおじいさまに長生きをしてもらいたいのです」

「むぅ、アネッサちゃんに言われると無下にもできんわい」


 孫の言う事には無下したのかという毅の心のつっこみは声には出なかったが、祖父が言う事を聞いてくれるのならばそれでもいいやと、やや投げやりな感じを含んだ気持ちで、毅はアルバムを棚の上に置いた。


 程無くして担当医が現れた。簡単に診察すると明日には退院できるようだった。元々耳の怪我に加えて疲労という診断だったらしく、祖父が説明した所、恐らくここ最近の環境の変化が原因だと担当医は言っていたらしい。

 耳の方は何で切られたのかと少し疑問に持たれたが、うやむやに返した。結局は綺麗に欠けたまま残ってしまうのだそうだ。まぁ、二度とない経験の記念にと暢気な反応をしてみせる毅に、周りは笑いを飛ばした。


 診察も終わり担当医が病室を出ていくのと同時に、祖父とアネッサも家へ帰っていった。


「じゃあな毅、明日はアネッサちゃんに迎えに行ってもらうからの」

「そうです。このアネッサちゃんがお迎えに参ります」

「ん、わかった」


 そっけない返事と手を振って帰りを促す毅。アネッサの不貞腐れた表情を最後に、病室の戸は閉まった。静かになった病室。人の余韻が残る空間に風が入った。


「最初はどうなるかと思ったけど、どうにかなるもんだなぁ。しかしこの歳で疲労で入院なんて、俺も大袈裟だよな」


 一人になった病室で、毅はそうつぶやいた。


 その日の夜。虫の鈴音を聴きながらアネッサの置いて行ったアルバムを見返した。

 可笑しな、不思議な、不可解な。そんな印象だったアネッサが祖父と店や家を掃除している様子に、毅はまた口元を綻ばした。そして自分が思いのほか楽しんでしまっている現状に、少し笑った。


 何枚か見た後、明らかに自由奔放にシャッターを切っている様子に毅は漸くあるつっこみ所に気付いた。


「……てか、コレ誰が撮ってんだ?」


 しかし理不尽なものにも一つ、毅には真理とも言える解を持ち合わせていた。


「まぁ、またアネッサが上手い具合に撮ったんだろう」


 例えば、魔法とかね。笑みを含みながら、アルバムを閉じた。

 ライトを消し、月明かりがぼんやり照る部屋でベッドに身体を埋める毅。程無くして寝息が聞こえた。

 夏の月といったらそれはそれは綺麗に町を照らしていた。街灯も要らぬ程藍に紺にと染まっている夜空には、遥か遥かから届いてきた明るい粒が点々と輝き、時にどこかの水溜りに映って揺れた。


 そんな同じ空の下、手々島家ではアネッサが二階の窓から月を見上げていた。憂いを含んだ表情とピジョンブラッドの瞳は夜の空気に合い、どこか繊細な、薄いグラスを手に持っているような怖さもあった。


「無事に、事が済めばいいのですが」


 窓の縁に腕を乗せ、それを枕にしながらふとそんなことをつぶやいた。

 宙に説明書を出し、あるページに目を落としたアネッサはため息を一つ吐いて本を閉じた。パチンと指を鳴らすと、本は消えアネッサの身体は傍にあったおもちゃの家にすっと入っていった。

 その中のとある部屋で着替えをし、寝間着姿で寝室のベッドに潜った。明日は毅を盛大に迎えよう、そんなことを思いながら、アネッサは眠りに入っていった。

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