3-2 対価
程無くして祖父は帰ってきた。辺りは夕闇に染まり始め、赤い刃が遠くの空を裂いているのが見える。店の戸を閉めながら、なにやら中で言い争いをする毅とアネッサに対し、穏やかな目で笑いながらリビングへ入った。
「はっはっ、仲のいいもんじゃ。よかったのぉ毅」
「あっ、じーちゃん! コレ! 普通のでいいって言っただろ! なんでこんな高いの買ってくるんだよ!」
毅は早々にアネッサの家の事を突っ込んできた。想像通りだと祖父は思った。
おもちゃ屋で色々悩んでいたアネッサにいい物を買ってあげたいという気持ちを抑えることはできなかったのだ。昔からそうである。自分の買い与えたものに目一杯幸せな笑顔を浮かべる子供たちの姿が、祖父は何より好きだった。
甘いだの教育によくないなど言われても、その欲望は抑え込むことはできなかった。自分の唯一の我儘として許してほしい。そう思っていた。
「いやぁ、我慢できなかったわい」
「まったく、……」
呆れている毅も、祖父の甘さには慣れているらしく、さほど問題視しているようには見えなかった。
続けて口を開く。
「罰として、といっちゃなんだけど、今日はアネッサが夕飯を用意します」
毅がやけに不安そうな顔を浮かべて言った。
「おーそりゃあいい事じゃ!」
罰でもなんでもない、そんな感じで祖父は喜んだ。
「はっははー、そーですよねー」
その反面、毅は棒読み甚だしく、表情に影を作り先行く不安を再確認していた。
「まっかせてください! 腕に縒りをかけます」
アネッサはふんと鼻の穴を大きくして腕に力瘤を作ってアピールした。毅の中には不安しかないものの、祖父の中ではハッピーな気持ちが溢れていた。新しくできた孫がご飯を作ってくれる。それだけで嬉しいものなのだろう。
「じゃあ、夕飯まで楽しみにしとくかの」
祖父はそう言って居間へ向かった。夕飯まで新聞を読み漁るらしい。毅は少しほっとする思いだった。流石に魔法でポフンとでてきた料理なんて味気ないったらないだろう。
祖父のいなくなったリビングで、毅は尋ねる。
「で、何を作るんだよ」
「和食がいいかと思うんですが……」
「あー、いいんじゃん?」
なんとも、アネッサの割に無難な所を攻めてきたと思ったが、満漢全席の様なものを出されるよりはよっぽどましだった。とりあえず肯定する。
「わかりました、……では! 始めますか!」
「お、おう」
何か大がかりな事を始めるのかと思った毅は、キッチンに立つアネッサから離れてイスに座った。様子を見よう。何か変な事しようもんなら止めてやるつもりであった。
「ではまず……」
アネッサが自分の服をポンと叩くと、全身がどこからともなく現れた光のベールに包まれた。
「眩しッ、なんだ一体!」
その内くるくると回りだして何をしてるのかと思ったら、足からスリッパ、デニムのパンツ、黒いTシャツに変身し、エプロンに三角巾を最後に装着すると、少女アニメの主人公のように手に持ったおたまでポーズを取った。
「ハッ!」
「いやお前なにしてんの!?」
すかさずつっこむ毅。茶番も大概にして欲しい、つっこみが追いつかなくなったらどうするのか。
「あ、やだっ。裸見てませんよね!?」
「見てねぇー!!」
そんなにキラキラした変身に目など当てられるものかと、いや決して見たいわけではなかったと、毅は言いわけくさい事をつらつら考えながら精一杯否定した。
「どうです? 奥さまスタイルです!」
楽しそうに色々ポーズを取って見せるアネッサ。正直な話、毅は既に疲労困憊しておりできれば何も考えたくは無かった。「うん、良いと思う」とだけ返事をする。
「では、早速」
キッチンに向かわず、テーブルの方へ身体を向けるアネッサに毅はクエスチョンマークを浮かべた。その内食器のことかと思い、説明しようと口を開く。
「あぁ、皿とかはそこの食器棚の……」
アネッサはすっとおたまを指揮者のように構えた。
そしてミュージカルのように歌いだした。
「はーい! 主食に主菜に副菜そろえて栄養バランス満漢全席ーっ!」
この間ほんの数秒。話は聞いていたみたいで食器棚から皿を光速で並べると、料理が瞬間的に盛られていった。十数人のシェフが作りあげたかのような手際の良過ぎる光景に、毅は額を抑えて天を仰いだ。
「……、はぁ」
この時の毅は心の中で精一杯、喉が張り裂ける程つっこんだ。しかし、口から出たのは深いため息だけ。テーブルの上にまるで丁寧に調理された様な料理が並んでいた。
こうなりそうな予感は最初からしていた。この前代未聞の奇人麗人がただの料理をするはずがなかったのだ。いや、もうこれは料理ではない、自販機か宅配便か、ボタンを押せば目の前に望んだものが出てくる。そういうものに近い。
「ふぅ、こんな感じでいいですかね?」
額を拭うアネッサに対し、毅は料理に顔を寄せた。
「これ、本当に食べ物なんだろうな?」
主菜であろう何かの魚の照り焼きをまじまじ眺めながら尋ねた。
「あったりまえっすよ! あ、それはイサキの照り焼きです。試しに作ってみました」
良い色をしている。身はふっくらと焼け、タレは生姜を入れたのだろうか、魚の脂と混ざり艶やかで、芳ばしい香りが胃を擽る。付け合わせのレタスがタレと混ざって少ししなっている感じはまさに手料理の様だ。副菜のごぼうのきんぴらはごま油を使ったのか香ばしい湯気を出し、オクラのお浸しには鰹節が盛られ美味しそうだった。サラダの小鉢には玉ねぎの千切りがトマトと一緒に盛られている。
「……、美味しそう」
嘘ではなかった。魔法で出したとは思えぬほど手料理染みたそれらは、確かに鼻腔を通って脳を刺激し、食欲を呼び覚ました。
「ポンポンと出したように思えますが、私が作った様なものです」
エッヘンと腕組みをすると、エプロンと三角巾を外し、アネッサは席に着いた。自分で料理を眺め、どこか懐かしい表情を浮かべた。
「おじいさまをお呼びしましょう」
「あー、そうだな。じーちゃん! ご飯できたよー!」
廊下の方へ呼び掛けると、祖父の返事が来た。
「おー、今行くぞーい」
すぐに祖父は来た。テーブルに並べられた料理を見て美味そう美味そうといい席に着く。
「では」
三人でいただきますをした。アネッサが普通の服装をしているせいか、こんな家庭が普通であるかのような感覚だった。外から聞こえてくる虫の音と夜になって落ち着いた気温がなんとなく涼しげで、食事中の会話も弾んだ。
普通になりつつある。この状況に、アネッサに、魔法に。でもこれでいいのかもしれない。毅はこれを望んでいた。普通に普通であるためにと毅は考えたが、杞憂だったのだ。とんでもないことが起きたとしても、案外人はそれを受け入れてしまうもの。今回の件で毅は自分の順応力に確かな自信を持ちつつ、オクラのお浸しを一つ口に運んだ。
魔法で作ったと言っても、アネッサの言うとおりアネッサ自身が作ったように美味しい味だった。
◇
当初の不安が全て取り去られたというわけではないが、突然始まった新たな生活は以外にも楽しげだった。
アネッサは相変わらず自由奔放で、勝手に揃えたお菓子器材で色々とお菓子を作ったり、店の手伝いや家事もしてくれる。毅自身は何か変わったかと言えば、買い物の際付いてくるアネッサについて、知り合いの主婦達に質問攻めされたりすること以外は特に大きく変わることは無かった。
そして、毅以上に変わったのは祖父であった。毎日が本当に楽しそうに過ごしているように見える。ご飯粒を飛ばしたり、たまに死ぬほど元気になったりする所は変わらない。友人の家に将棋やオセロをやりに行くのも変わらない。
しかし、どこか楽しげなのだ。悪い事ではない、ただ少し怖くもある。蝋燭の火の例えに習うような、なんだかそういう不安だ。そして、そういう不安とは時にその不安通りに動いてしまうものなのかもしれない。
「アネッサ! 二階の窓開けてくれー!」
「はいはーい」
店の戸を開けながら、毅は奥にいるアネッサに頼んだ。そう、変わる事がない事を不自然と言うなればそうだ。あのアネッサの魔法は今も確かにあって、たまにそれに頼むことはあるがそれだけだ。突飛な事も、事件も、何も起こらない。
「……、あれ」
毅は戸が上手く開けられない事に気付いた。このところの湿気や熱気で建てつけが悪くなったのだろうか、手のひらで叩くも木枠とガラスが喧しく鳴るばかりで上手くいかない。毅は二階の窓を開けるアネッサに叫んだ。
「アネッサー! ちょっと来てくれー!」
「なんでしょう?」
ポフンと直ぐ隣りに姿を現すアネッサ。こういうことにも慣れた。心の準備は必要だが、アネッサの行動パターンを探ればなんとなく読めるようになった。
早速毅はアネッサに頼む。
「これ、なんかしまり悪いんだけど。なんとかできなかな?」
待ってましたと言わんばかりにアネッサは手を合わせると、喜びの準備運動し始めた。腕を動かす度に、できたての飴のように伸びていく。
「ふっふっふ、このアネッサにできない事などございませんよ」
「わかったから、そのぐにゃぐにゃになった腕戻してくれ、気持ち悪い」
冷やかに毅がつっこむと、大袈裟な煙を出しながらアネッサの腕は元に戻った。
「やれやれ、初めましては赤子のように可愛かったのに、今となっては思春期の男子みたいですね」
「思春期の男子だ! いいから、建てつけ!」
「はいはい、では、……家、家」
アネッサは学者の様なべろんべろんの黒い服と角帽子を被って、顎に生やした白髭を撫でながら分厚い紙の束を捲っていった。
「家を建てる。家の外観。違う、……あった! 家の建てつけを直す」
「対価は?」
「ズバリ、シフォンケーキを一つ!」
麗人の姿に戻ったアネッサは、目をぎらぎらさせつつ人差し指を立てて毅に詰め寄った。思わず顔が引きつる。
「わ、わかったよ」
「わーい」
子供のように喜びを露にするアネッサ。
「わーい、わーい、わーい、わーい」
そして万歳をして喜ぶアネッサは分裂していった。アネッサの身体から子供のアネッサが次々と出てきて一緒に歓喜している。何人いるのか数えにくくなってきたところでやっと毅は突っ込んだ。
「やかましいっ!」
ポフンと子供が消えると、アネッサは嬉しさの表情を浮かべた。
「楽しみです。シフォンケーキ」
「好きだねお前。シフォンケーキぐらい自分で作れるんじゃねーの?」
「私が作ったのとはちょっと違うんですよ。毅が作ったシフォンケーキの方が私好みなのです」
「そーですか。……じゃあそれは後払いってことで、おやつに作ってやるよ」
「わかりました。では、取りあえず直してしまいましょう」
「おう、頼む」
するとアネッサはニッカポッカの姿になり、安全第一のヘルメットを被って手に四角を作って店の外観をその枠に収めた。
「そーですねえ、お客さんこれ随分古いよお、ガッタガタだよー?」
「まぁ、たぶん父さんが産まれた時からあるからな」
「測量班! 傾斜は?」
「右、ちょっとです」
いつの間にいたのだろうか、横でパソコンをでたらめに叩くアネッサと同じ顔の白衣が言った。しかも全くもって参考にならない。
「そうか! じゃあこんなもんかな?」
アネッサが指を鳴らすと、家がガタンと揺れた。
毅は店の戸を滑らしてみる。
「……うん、いいかも」
「おっけい! 任務完了!」
二度クラップしてみせると、白衣は地面に空いた穴にパソコンごと落ちていった。
毅は無事開けられた戸と軒下の風鈴越しに空を見上げながら、今日の天気の良さを身に感じると店内に入っていった。
蓄音器のスイッチを入れ、陽気なラグ“March Majestic”をかけた。
「今日も晴れるらしいから、善治さんとこからワゴン借りてセール出すんだ。さっきじーちゃんが頼みに行ったんだけど、帰りが遅いってことはまた油売ってんだろーな。アネッサ手伝ってくれよ」
箒を持って店内を掃除しながら毅は言った。手をはたいてしばらく家を眺めていたアネッサは、毅に一つ提案をしてみた。
「店の外観も変える事できますよ? その方がお客さんもくんじゃないですか?」
そんなことをいうアネッサに、毅はどこか割り切った表情をアネッサに向けた後、また掃除を続けた。
「いいんだよ、ここは。なかにある蓄音器と同じさ、時間が経過するにつれ人のように意思を持ったり、感情を出したりする。そんな気がするだけだけどさ。アネッサも言ってたじゃないか、歴史のあるものは価値のあるものだって」
「そう、ですね。確かに言いました」
「それに俺の一存じゃどーにもできないよ。じーちゃんもたぶん今のままでいいって言うと思うけどさ」
「……わかりました。ここはこれでいい。そう言う事ですね」
「そう言う事」
二人はそれから祖父が帰るまで部屋の掃除をした。一回のリビング、和室の居間。二階の毅の部屋と物置になってる部屋、アネッサの家はこの物置に置いてあった。
アネッサは終始エプロンに頭と口元に三角巾を結び付けて掃除をしていた。
階段や短い廊下は手狭であるが、それがいい。毅はこの家が気に入っていた。いつだったか、同じクラスの友人の家に上がったことがある。洋式の建物に洋式の内装。玄関にはよくわからない絵が額縁に飾ってあって陶器の花瓶に花が生けてあった。
これを見た時、毅は寒気がした。木の感覚、空気、天井に吊るされた照明。別世界だった。本当に同じ人が住んでいるのかと疑った。
そこには毅が感じてきた素材が何一つとしてなかった。
「なんか、落ち着きますよね。この家」
「え……」
居間の畳を箒で掃きながらのアネッサの言葉に、毅は思わず声が詰まってしまった。部屋を覗くと、アネッサは今から覗ける外の様子をぼーっと見つめていた。
「どうしました?」
毅の様子に気付き、振り向いて尋ねた。
「いや、お前がそんなこと言うなんて……」
「私にも人としての感覚は持ち合わせているのですよ?」
不貞腐れながらアネッサは言った。別に機械人間や、それに類する者として見ていたわけではなかったが、アネッサの“人間らしい言葉”に驚いたのは事実だ。
そういえば、たまにとても人間染みた表情をする事がある。見る度に心臓が跳ねるのだが、その理由はわからなかった。
毅は尋ねてみた。
「なぁ、改めてこういう事を聞いていいのかわかんないんだけど、いい?」
アネッサはいつもの表情で応えた。
「はい、どうぞ」
「アネッサって何者なの?」と、聞いてはいけない気がする。毅の脳は何かをとらえてそう訴えた。毅の視線はアネッサの瞳を通り過ぎて外の物干し竿に刺さっていた。外では蝉が発声練習を始め、今にも騒ぎそうだ。風の涼やかさといったら、丁度今のアネッサのようにしんとしていて、毅の顔に当たってやや湿気を含んだひんやりとした感触を残していった。
唾を呑んだ。
「じ、じーちゃん。遅くね?」
額に感じるのは冷や汗だろうか、振り絞った二の句の不自然さに自身が戸惑っているのがわかる。
「そーですねぇ。まだ涼しい時間ですけど、そのうち一気に暑くなりますし。今の内に連絡とってみてはどうでしょう?」
なんとか、アネッサは普通に返してくれた。妙な間があったことにもつっこみはない。毅は安堵のごまかしに戯けて答えた。
「そーだな! よし、携帯だ!」
心の中で精一杯の反省をしながら、毅は二階の自室にある携帯で祖父に連絡を試みた。何者かを聞いて自分はどうするつもりだったのだろう。どうせ、きっと理解なんてできないくせに……。
数コール後、珍しく電話は直ぐにつながったが、次に聞こえた声は祖父ではなかった。
「毅くんか!? 大変だ!
電話越しの声の切羽の詰まりように、毅は刹那、放心した。祖父の
踏み外した勢いで土下座し、頭を畳に押しつけながらアネッサに懇願した。
「アネッサ頼む! お前の欲しいものならなんでもやる! だから俺を直ぐにじーちゃんのところへ飛ばしてくれ! 頼むっ!!」
毅の異常な焦り方に、アネッサは指先一つで応えて見せた。一瞬の間の後、辺りがやけに明るく蟬声も耳元で鳴いているかのように煩かったので、毅は土下座の姿勢からはっと前を向いた。目の前の塀に下げられた表札に
自分の状況を理解した毅の反応は速かった。靴すら履いてない自分を顧みることなく、目の前の家の玄関を力いっぱい開けて中に入った。
「じーちゃんっ!!」
アネッサはまたまっ黒なドレス姿で日傘を指したまま、毅の様子を目で追っていた。姿が見えなくなっても、視線を崩さず毅を追っていた。もうじき日もしっかりしてくる。
厚みを増した太陽の光を遮る傘を、アネッサはくるりと一回転させた。
「善治さん! じーちゃんは!?」
とある襖を開けるとそこには見慣れた善治さんの顔と、うつ伏せで背中にシップを貼って横たわっている祖父の姿があった。
「じー、……ちゃん?」
「なんだぁ、毅。そんな慌てて」
あまりの和やかさに、脳が付いて行かない。毅は暫く息を荒くしたまま立ち尽くした。まるで夢でも見ているかのような違和感すら覚えた。
善治さんが柔らかい表情と声で言う。
「やぁー、早かったね毅くん」
「え、……じーちゃん、どうしたの?」
「あ? 善さんから聞いてないのかぁ、ぎっくり腰だよ」
視線をあげられない祖父は視線をこちら側に寄せて言うと、何が可笑しいのか声をあげて笑った。かと思えば腰に痛みが響いたらしく、直ぐに苦い顔をした。
毅の中で緊張が毛糸玉を解すかのように緩まっていった。
「はぁ、なんだよ……、ぎっくり腰か」
安堵のため息を吐いて、毅はその場にへたり込んだ。
「いやぁ、ごめんね。僕が慌ててたもんだから、心配させちゃったね」
「あぁ、いえ」
善治さんは甚兵衛羽織にうちわを仰ぎながら詫びた。確かに慌てた声で言われたのもあるが、毅の中でここ最近の祖父が心配だった事も原因としてあった。そんな毅の気も知ってか否か、祖父は実に暢気な様子だった。
「心配し過ぎだぞぉ、毅」
「翠さんが重いっつってんのにワゴンの箱持ち上げようとすっから、……そいでそのまま落として足まで怪我しちゃあ世話ねぇなぁ」
「うるせーやい」
湿布だけかと思いきや、そう言えば足に包帯を巻いている。一体自分のどこに自信を持ってそんな重いものを持ち運ぼうと思ったのか、見当もつかなかった。
「杖つきが無茶すんじゃねーってんだ」
「まぁ、こうして孫が心配して駆け付けてくれている内は安心だよなぁ」
「いやマジで心臓止まったから。気を付けてくれよ」
「おぉ、すまん」
いつもの如く、祖父はそう返した。本当にわかっているのだろうか、いやわかっていないだろう。
ふと、アネッサの事が気になった。急だったとはいえお返しも済んでないまま無理やり願いを叶えて貰ったのだ。もしかしたら、力を使い果たして外で倒れているかもしれない。毅は談笑をし始める二人を置いて外へ出た。
「アネッサ、……? なにやってんだよ、中に入れば?」
アネッサは外にいた。随分と大人しい、日傘を目深に差し表情が見えない。既に熱気が辺りを包んでいる中、最初に見た時と同じくその黒いドレスが違和感を放っている。ぼんやりと響いている蟬声や飛行機のエンジン音。
アネッサは声を発した。
「何か、……を、ください」
何か言っているのはわかるが、ハッキリと聞こえてこない。「大丈夫?」と声をかけながら毅は傍に寄った。顔を覗こうと日傘の中に視線を向けると、アネッサは一点をぼーっと見つめたまま奇妙な笑みを作っていた。もう一度口を開く。
「何か、対価を」
「あ、そうだったな。えと……何がいいかな」
毅がポケットなどを弄り何か良さそうなものを考えている時だった。一筋の気が空を切って毅の耳元を通り過ぎていった。
「うわっ、……何?」
虫ではない、雨でもない。そういうモノの類ではないように感じた。だが次の瞬間、毅は自らに起きた事を激痛と共に理解する。
「ッ!」
耳が痛い。痛いなんてものではなかった。思わずしゃがみ込んでしまった。何かが通り過ぎていった方の耳が今まで感じた事もない程の痛覚を毅に送っていた。思わず触って見てみると、赤々とした血が指を這っているのがわかった。
「な、なんだよこれ……ッ!」
驚愕する毅に対し、アネッサは日傘の中で未だ奇妙な笑みを作ったまま、全てを理解させる発言をしてみせた。
「無事、支払いが済まされました」
「……、は?」
しゃがんだまま見上げると、アネッサは血の付いた『何か』を手に持っていた。そして気付く、自分の耳がざくりと一欠け分切れているのが。『何か』が自分の耳の一部だと悟った毅は、痛覚の癒えない状態と、アネッサからこれまで感じた事のない恐怖に只々困惑した。
その内頭の中にぬるま湯を注がれた感覚になったかと思えば、目の前が暗くなり、毅は気を失った。
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