雨色の事実
3-1 手々島毅の順応性
毅とアネッサは入った時とは逆に、吐き出されるようにして紙芝居から出てきた。
「うわっ!」
あまりの勢いに身体が反応できず床に尻もちを付く。アネッサは何事もないように見事な着地を見せその黒く優雅なドレスを整えると呆れたように言った。
「この程度ですっ転んでいては、先が思いやられますよ」
「ッ、誰のせいだってんだ!」
状況は紙芝居に入る前となんら変わらなかった。傍に祖父が気絶しており、夏の日差しはまだ下がり始めた頃、風鈴は涼やかに鳴っている。時が進んでいない、そう認識するのに毅は少々の時間を喰った。まずそのはずで、誰も止まった時を経験したことなどないのだから、それは毅にも当てはまることだった。
いよいよ自分の順応力に驚きを隠せなくなってきたが、今その事を考えるには脳のキャパが足りなかった。とにかく“普通”というものを取りこんで事態を落ち着かせることが今の毅の最重要事項だった。
「じーちゃん! おい、起きろー!」
毅は祖父の肩を強引に叩いた。祖父は居眠りから覚めるようにふがふがと鼻を鳴らして目を開けた。
「お……おぉ、毅か。どうした?」
「どうしたじゃないよ、ちょっと説明するから聞いててもらえる?」
「おぉ、いいぞ」
毅はイスに座って祖父と向き合い、事の顛末を説明した。といっても全て丸々ではない、アネッサの事をできるだけ気絶しないよう曖昧に、言葉を隠しながら。とてもじゃないがあの出来事をそのまま話すことはできない。話したところで祖父は分かってくれないだろう。
「と、いうわけで。アネッサさんはメイドとか、秘書とか、なんかそんな感じの人だと思ってくれればいいから」
「ふむ、まぁ良いわ。歳をとるとややこしいことにゃ着いて行けん、難しいことは全部お前に任せるよ」
これは良いのか悪いのか、面倒事を押しつけられた感じが否めないが、これ以上話もまとまらなそうだったので、毅はこの話を切り上げた。
事態を切り替えようと、毅は手で音を立てて口調を変えた。
「っつーわけで、アネッサは今日からこの家に住み込みます。よろしく」
「えぇ、どうもありがとう」
アネッサは気前の良い笑顔で返した。
「なんだけど、じーちゃん。アネッサに家を買ってくんない?」
「家?」
「あー、家って言ってもその家じゃなくて。あのーほら、女の子が買ってもらうようなミニチュアの家あるじゃん? あれでいいんだって」
さて、この問題を祖父がどう理解してくれるか。もしかしたらまた嘘八百でごまかすことも必要かと思っていた毅だが、その心配はいらない様子だった。
「いいぞいいぞ、ははっなんだかまた孫を持った気分じゃ」
「言っとくけど、そんな豪華じゃなくていいんだからな! 普通のでいいんだからな!」
「わかっとるわかっとる。早速買ってこよう」
祖父がわかってないことが毅にはわかっていた。
小さい頃から自分や近所の子供に物やお菓子を買い与えていたことを両親や亡くなった祖母に度々注意を受けていた祖父。決まって「わかっとるわかっとる」といい、そしてそれはわかっていないのと同じ意味を持っていた。
毅は何も言わなかった。
「あ!」
祖父は上機嫌に店先に出ようとしたところで突然何かを見つけた様に声をあげた。
「どした?」
「しまった。これを忘れとったわい」
悔し声で祖父が持って来たのは駅前にあるあの洋菓子店のロゴの入った袋だった。どうやら第一次気絶時に落としてそのまま忘れてしまっていたらしい。
まあ突飛な出来事があり過ぎてそれどころじゃなかったのは確かではある。これは仕様が無い。
「あーぁ、アネッサちゃんにも食べて貰いたかったんじゃがのぉ」
心底残念そうに熱を帯びて温まったケーキの箱を覗く祖父。しかし騙されてはいけない。祖父は大金に目が眩んでワイロのために、穢れきった感情で駅前のあの洋菓子店まで行って買ってきたのだ。
それを知ってか知らずかアネッサは祖父の持っている袋を一緒に覗いた。
「まぁ私のためにわざわざ」
アネッサの方が申し訳なさそうに礼を言った。
「すまんのぉ、家を買った後また買ってくるかの」
「えー、また今度でいいよ」
何と言うこともなく、アネッサは祖父から袋ごと貰い受け、リビングのテーブルに置いた。するとなにか仕事でも始めるかのように手を叩き、ぷらぷらと準備運動を始めた。
「では、今回はサービスと言う事で」
「は? サービスって何……」
ある程度準備を済ますと、アネッサは気持ちの良い弾きで指で鳴らした。
紙芝居の中での如く、または店先でのテーブルや茶器の如く、妙にキラキラしたものがあの洋菓子店の袋を纏ってポフンという間の抜けた音と共に弾けた。
「おぉ! こりゃなんとも!」
祖父は感嘆の声をあげた。無理もない、魔法とでしか説明が付かない状況が起きた。あの見るからに夏の熱気に当てられ中身を覗くのも怖くなっていたケーキの箱が白い冷気を纏っている。祖父が中身を確認すると、ショーケースの内側で宝石のように陳列されていた時のまま、保冷材も綺麗に凍って残っていた。
思わず訊いた。
「アネッサ、お前何したんだ?」
「何をしたも何も、先程貴方に見せたようなものですよ」
先程、紙芝居の中では確かに見た。魔法、本当に魔法なのだろうか。そもそも魔法と言うニュアンスはテレビで放送するアニメか、ここ大歓楽書店にも並ぶ幻想小説の中でしか感じたことが無い。果たしてこれは魔法だろうか、それとも夢か幻か。
「現実としか言いようはありませんよ」
心の中の疑問にアネッサが応えた。
「でも普通こんなのありえないだろ、なぁじーちゃん?」
「おっほほぉ! 最近はホントに便利になったもんじゃ! わしの知らぬ間に魔法の様なグッズが巷には溢れておる」
まるで聞いていない様子だった。はて歳を取るとはこういうことなのだろうか、これを現実逃避と呼ぶか世代の流れと呼ぶかは今となっては問題ではなさそうである。祖父の頭の中には人生経験というフィルターがあり、世に起きた出来事はそのフィルターを通る事により最も合理的に最適化されるのだ。
晴れた日に街中の人が傘を差しても「近頃のファッション」といったカテゴリで処理されるのだろう。
「いいよ、俺が頑張ってこの不可思議に立ち向かうから」
毅は諦めたように溜息を吐いて、取りあえず“元通りになったケーキ”を冷蔵庫にしまった。
「これは家を買ってきてからにしよう。とりあえずじーちゃん、アネッサの家よろしく」
先程動揺、毅は“普通”を取りこんだ。
「おぅ、まかせとけ。いくぞぃ、アネッサちゃん」
意気揚々と足踏みをして店を出ていく祖父。アネッサは不適な笑みを顔に貼り付けたまま祖父について行った。
「どーなることやら、先が思いやられる」
と、どこかで聞いたようなフレーズを口にして、毅はまた椅子に座りこんだ。
こんなことで済むはずがない事も、考えなければならない事も、不可思議なことに立ち向かう力もない事も、色々な事が保留のケースの中に収まっている。
毅は気付かない振りをするしかなかった。そしてただ目の前に出された信じがたい事実を受け入れることに対して精一杯を使い果たし、今日の晩御飯をウトウトと考えつつ、眠りへと入っていった。
◇
状況を整理しよう。今がまだ夏休みだということが不幸中の幸いである。こんな調子ではとても学校なんて行ってる場合じゃない。毅はつかの間の睡眠から目を覚まし、いい加減に暑苦しい部屋にうんざりしながらコップに麦茶を注いだ。
「まず、事の発端はこの本だ」
店のカウンターに置きっぱなしだった黒革張りの本。毅は本の表紙をリズムを取るように指で数回叩いた。題名は『ANNESSA』あの麗人と同じ名前。
アネッサはこの本を自分の説明書だと言ったが、毅には内容の一切を理解する知恵を持ちえていなかった。次いで、端的に説明を求めた結果があの様だ。紙芝居の中に入ってアネッサが数々のショーを繰り広げる。
「どーしよう……、やっぱ警察かな」
市民の不安を取り除くという意味ならば、警察を当てにするのは適切だと思う。
しかし毅はどうしてもその気にはなれなかった。何故かというに、如何に事が深刻だと言う事を伝えるにはそれなりのスキルを要すると言うことだ。警察に対し、事件のプレゼンをする……警察側がこれを我々が動くべきかどうかを見極め、認可されてようやく事は進む。毅にはあの青服達に今の状況を端的に説明する自信が無かった。
また、これは本当に、全くもって不本意ではあるが、例え奇跡的に認可されたとしてアネッサの身柄を警察に引き渡す結果になった時。たぶんアネッサは警察に連れて行かれる事を嫌がるだろう。そうなればアネッサの魔法でちょちょいのちょいだ。あれさえあれば事態の収束など造作もない事なのであろう。
「となると……、親かなぁ」
毅の両親は海外出張の多い職に就いている。息子のことは心配ではあろうが祖父と一緒に暮らしているということもあり、自分の息子は大丈夫だと信じてくれているに違いない。それを意味不明な説明をする息子が電話越しに突然現れたらきっと悲しむだろう。
これも却下だ。
「相談する友達もいねーし」
万事休す。毅は汗のかいたコップで手を濡らしつつ麦茶を一気に飲んだ。手から腕へと伝う雫は身体の体温と夏の気に当てられすぐにぬるくなった。
「まぁいたとしても、こんなこと相談なんかできないか」
なんのことはない。ただなんとなくため息を吐いて椅子の背もたれに寄りかかった。外の蟬声は休むことなく鳴り続け、夏よ夏よと騒いでいる。風鈴も風に吹かれて涼しや涼しと乾いた音を鳴らしている。
よくあることだ。小説にはありきたりなのだ。夏の陽炎に混じって不可思議なことが起きたり、気温と同じように人の心も高揚していって、普段はなんてことない日常が不思議と楽しく感じたり。これはそんな、説明の要らないものなのだ。
廃れた商店街の古本屋で暇そうに店番をしていた自分に神様が与えてくれた何か。ただ受け取ればいいだけだ。後は周りが何とかしてくれる。
「お悩みですか?」
「うわっ!」
突然、店側のリビングの入り口にアネッサが立っていた。夢ではない、この麗人は確かに自分の脳が現実として見ている。薄暗いリビング、アネッサはその宝石のような瞳を瞼で覆って笑みを作った。
「ただいま戻りました」
「あ、うん。……おかえり」
すぅっと毅の頭の中からつっかえていたものが抜けていった。アネッサの笑顔を見て不覚意にも安心した。
アネッサの手には大きい袋が下げられていた。その袋を見て、毅は思わず懐かしんだ。
それは毅が小さい頃からあるおもちゃ屋で、袋のデザインなんかはまるっきり変わってなくて、店のキャラクターが妙にダサくて安心する袋だった。あのときとは違って大人になったはずなのに、その袋を見ると心臓の底が震えるようにわくわくする気持ちになった。
「それ、買ってもらったの?」
言うまでもなく、それを買うために出て行ったのに、子供の頃言われた事を何故か口にしてしまった。
「はい、結構たくさん種類があるのですね。迷っちゃいました」
アネッサは嬉しそうに袋から中身を取り出し、テーブルに置いた。なかなかに豪華な作りのものだった。やはり祖父は高めの物を買ったようだ。
毅は食器棚からコップを一つ取り出した。
「おじい様には改めてお礼をしなくてはいけませんね」
「そーだな。てか、じーちゃんは?」
「お友達と会ったようで、暫く話して帰るとおっしゃってました」
麦茶を注いでアネッサの前に置く。アネッサは礼を言って両手で受け取り丁寧に口へ運んだ。ふと時計を見た毅は何かを思い出した。
「そろそろ夕飯の準備しないと」
「これ、開けてもいいですか?」
聞いてるのか否か、アネッサはわくわくとした表情を浮かべておもちゃの家の箱を目で撫でまわした。
「夕飯の後にしろよ、散らかるから」
「はーい」
なんだか可笑しい。こんな筈ではなかった。今の自分は驚くほど冷静、というか和んでいる。アネッサは赤の他人で今日が初見だというのに、何故だかこんなに自分と馴染んでいる。
今アネッサが品のある女性の声で子供の様な返事をしたのだって、可愛いとさえ思ってしまった。考えすぎて何かが麻痺してしまったのだろうか、それともこうなる状況を自分の中では望んでいたのだろうか。
毅は決めていた。流れに身を任せると。それに今の状況が嫌ということではない、これでいいのかもしれない。
「うわー、見事に空だな」
冷蔵庫の扉を開けて、一切の食材の姿が無い中身を見て毅は言った。
「あらホント、何もありませんね」
横で覗きに来たアネッサはなぜだか楽しそうに言った。
「今から買いに行くかー」
「いえ、その手間は要りませんよ」
アネッサは片手で待ったのポーズを取ると、毅の肩を持ち、すすーっと傍の椅子に座らせた。
「な、なんだよ」
手をぷらぷら、足をぷらぷら、準備運動をしているアネッサに毅はある理解の到達を見出した。
「……まさか!」
「そのまさかです」
「いやいやいや、お前さっき紙芝居で料理は作るのも楽しむ物だって……!」
慌てて準備運動を制止させようと立ち上がるが、すぐにアネッサに押し戻されてしまった。
「それはお菓子の話ですよ。料理は舌が楽しんでなんぼです」
偏屈な話だ。お菓子だって同じようなもんだろう。
「今日一日はサービスでいいですよ、物々交換は明日以降のルールとします」
「俺は等価交換の話をしてるんじゃない!」
「まぁまぁ、減るもんじゃあるまいし良いじゃないですか、今日である程度の事は体験しましょう」
「さっき死ぬほど体験したよ!」
訴える度に、暖簾に腕押ししている感覚に少々の苛立ちを感じながら毅はキッとアネッサを見据えた。アネッサは気にする事もなく愉快な表情を浮かべて手をふらふらさせた。
「いいからいいから」
全くよくないし、とは思ったものの、結局毅は折れた。
もう好きにやらせるしか選択肢は無いのかもしれない、明日になればきっとこのおんぼろ古本屋は新装開店でお客がわんさか入ってきて、儲けが沢山入ってちょっとは気分が良くなるのかもしれないし、これはもうこれでいいのだろう。
そうして諦めた。
「じゃもう、好きにしろよ」
毅は落胆した後テーブルに突っ伏した。
「了解です」
ビシッとものすごく楽しそうに敬礼をして見せたアネッサは、どこからかメモとペ
ンを取り出し、いや、正確にはポフンと空中に出し、咳払いをして訊いた。
「なにかご注文はありますか?」
毅は少し考えた。
「夏バテ防止、豚肉とかオクラとか、なんでもいいや」
長いものには巻かれてしまえ、毅はいよいよ考えるのが面倒になった。毅の注文に、アネッサの手を離れていたペンは、さらさらとメモを取っていく。
その間アネッサは、ふむふむとまるで人の話を聞いてない素振りで、料理とはまったく関係ない本を読んでいた。
毅はつっこむまいと頑なに無視した。
「あとは酢の物とか、いいんじゃないですか?」
「うん、俺もじーちゃんも好きだよ」
話を合わせてくるあたり、本を読んでいないのかもしれなかった。なればその態度は主人である毅に対する冒涜だろうか。だが今更、このアネッサにおいて感情の一切を真剣に向き合わせることはもはやしなかった。
毅は学習していた。
アネッサはふむふむと意味の無い独り言をいいながら、ふと隣のペンの方を向いた。
「ふむ、あーあー、スペルが間違ってますよ」
誰に言っているのか。それはもちろんペンだ。アネッサはペンと会話をしている。ペンは何度か書くが「違う違う」だの「そこはエスじゃなく」だのペンにスペルを教えている。
ペンはあまり字は得意な方じゃないようだ。
「そう、そうです! よくできました」
先生のようにアネッサはペンを褒めると、ペンは動きを止めて毅の方へ向いた。あくまで向いた気がするというだけの話だが。やがてまたアネッサの方へ向き直るとなにやらメモに文字を書き始めた。
「え? はい、……あー、わかりました」
アネッサは代弁する。
「沢山書きすぎて訳がわからなくなったので、もう一度最初から注文をお願いします」
「もうなんでもいいよ!!」
今日の夕飯はもしかしたら無しになるかもしれない。そうなったら失格として家から追い出そう。
毅はそう決めた。
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