1-2 黒い麗人

 黒革の装丁が品のあるその本は、明らかに浮いていた。


「こんな高そうな本、ウチにあったのか」


 抜き出してみると、辞書のようにずっしりとした重さがあった。

 毅は軽く埃を叩いて鑑定士みたく眺めた。表紙は金の装飾に金字と、高級感を醸し出している。図書館にあるやけに装飾が煩く、誰も使ってなさそうな百科事典なんかよりも美しい。


「もしかして、お宝?」


 そんな期待を抱きつついざ頁を捲ってみると、冒頭から見たこともない文字羅列がビッシリと書き記されていた。途中の挿絵ですら理解に困るような頁が本の終わりまで永遠に続いている。


「うっわ、なんじゃこりゃ何語?」


 古本独特の埃っぽい臭いに顔を歪めながら、最後まで流し終えた本を、今度は最初から少しずつ頁を捲っていった。


 ところどころ人の手の様な挿絵があることを察すると、宇宙人や異世界人の文書ではなさそうである。かといって、人類の中でこれほど根気よく本に文字羅列を打ち込める者がいるのか。いやその前に、宇宙人や異世界人に人間の言葉が理解できていたとすれば話は戻ってしまう……。

 毅はしばらく考えた後、タイトルと著者を見直した。


「タイトルは『ANNESSA』、アネッサ。著者、著者……」


 表紙、裏表紙、、そして背表紙。どこにも著者らしき名前が無い。因みに奥付もなかった。出版社も製造年月日も無い。

 ただ裏表紙を開いた角に20521というナンバーを発見した。シリアルナンバーだろうか。まさか人名ではないだろうとまた困惑した。読めたのはタイトルの文字だけ。

 映画用に作ったセットの本か何かなのだろう。

 謎の本に対して、興味は無くなりつつあった。


「じーちゃん、たぶんわかんねぇだろうなぁ」


 祖父に聞けば何かわかるかもしれないと思ったが、恐らく「しらんなぁ」と言うだろう。容易に想像できた。

 本を戻し、さてとマンガでも取ろうと店先を回ろうとした毅は、ふと人影に気づき顔を向けた。


「っ!!」


 一瞬心臓が止まった。それほどに不気味な物がそこにあった。客なのかどうなのかも怪しい出で立ちの女性が、軒下に立っていたのだ。


 膝丈のドレスにフェルト材のラウンドハット被り、レースの日傘にグローブをはめ、肩から下げたビロードのポシェット、ブーティに至るまで全てがまっ黒だった。胸に咲く紫のダリアのコサージュが、華やかなアクセントになってドレスによく似合っている。


 そのまま顔に視線を向けると、切り揃えられた肩程の黒髪、ピジョンブラッドの瞳、やや笑みを含んだ表情がこちらをじっと見つめていた。

 驚くほど綺麗な、恐怖さえ覚えるその女性に、毅は文字通り言葉を無くしていた。


「……あ」

「ごめんくださいな」


 毅がなにか言おうとしたタイミングで、優雅な品のある声で黒い麗人は尋ねた。


「あ、はいっ!」


 想像以上の声質で、毅は思わず背筋を伸ばした。


「失礼しても、よろしいですか?」

「あっ、どーぞどーぞ! 狭い店ですが、お好きなように、はい」


 腰を低くして、何度も会釈をしつつ黒い麗人を店内に招き入れると、そそくさとカウンターに戻った毅はこっそり、しかし大胆に下から上まで舐めまわす視線を送った。

 麗人はホタルブクロの様なドレスを揺らして店内に入りつつ、本棚を眺めて毅に話しかけた。


「こういう所、来た事が無くて……。一度来てみたかったんです」

「あ、はは、ただ古いだけですよ。個人経営の古本屋なんて今どき珍しいと思いますが、中身はほんとボロいんで人も来ないんです」


 そう言うと、壁の扇風機が相槌を打つようにガタンと揺れた。


「廊下も、素敵ですね」

「廊下? あぁ、床ですか? ただのコンクリートですけど……。ここが建った時からずっとなんで、年季はありますね」

「すごいなぁ……」


 麗人がそう言った瞬間、何故か悪寒の様なものを感じた毅はあたりを見渡した。麗人がいること以外、いつもと同じである。見たこともない人にネオフォビア的なものでも感じたのだろうか。

 麗人は下段の本を眺めていた。曲線美がなだらかで腰つきに色気があり、手の仕草に繊細さを感じる。


「女性なのはわかる。でも、まさか宇宙人? それとも異世界人? 日本語話せるってことはハーフなのかも」


 ぶつぶつと小声で独り言をする毅。麗人は何か品定めの様な目配りをした後、例の本の前まで来ると、迷いなくそれを抜き取りカウンターに持って来た。


わたくしの顔に、何かついていますか?」


 そこで毅は初めて黒い麗人を凝視していたことに気付き、我に返った瞬間、首を大袈裟に振って応えた。ここで「お綺麗ですね」などと言えればよかったのだが、そんなことは無理だった。

 カウンターに置いたのは、紛れもなくあの謎の本だった。


「おいくらかしら?」

「えーっと……」


 気になる本であるが、詳細は知ってはいけない気がする。特殊偵察組織がこの本を見つけ出したのかも、だとするとこんな気味の悪い本はそうそうに売ってしまおう。

 そんな突起な妄想をしつつ、本の値段を確認する。


「……あれ?」


 値札シールがない。そういえばさっき調べた時も見当たらなかった。しかしついでに言うとバーコードもない。自費出版だとしても、客に買わせるためのバーコードくらいは明記するはず、これは商品として製作されたものではないのか……。


「どうかなさいました?」


 困惑している店員に、黒い麗人は覗きこむようにして声をかけた。


「あぁいえ……、実は、値札が張られてないんです」

「まあ、でも大体の値段は決められるでしょう?」


 麗人は何か疑いの目を向けながら言った。


「それが、ここの主が僕の祖父なんですが、今留守にしてて」

「そう……わかりました。では言い値でお支払いします」


 麗人がそう言った瞬間、毅の脳は珍しく貪欲という絶えまない欲求に支配され、高速の電気信号がシナプスを介して脳に刺激を与えた。すぐさま宿題を突っ込んだバッグから携帯端末を取り出し、奥のリビングに行き光の速度で電話をかけた。


 その際黒い麗人は、何を気にするわけでもなく当たり前のように

 蓄音器からは先程の慰めの旋律を終え、“Easy Winners”へと変わっていた。


「……じーちゃんそれ終了ボタンだよ! 早く携帯慣れてくれ!」


 コールはするも数回も鳴らずにツーツーと切れる電話に、毅は小声でつっこみつつ何度もかけ直した。そしてようやく繋がった電話に毅は拳を握りながら歓喜の声を静かに上げた。


「おおう毅かぁ? どした?」

「じーちゃん大変だよ! 今変な女の人が来て、いや変っていってもすっげー美人で品があって、腰なんかすっげーエロい人なんだけど。……あれ、なんだっけ。あっ、そう! 一冊の本を言い値でくださいって!」


 あくまで店内に聞こえないよう声量を抑えて事の顛末を祖父に伝えると、通話が急にしんと静かになった。


「……あれ、じーちゃん?」

「直ぐ帰る。よいか逃がすでないぞ!」


 不安で呼んでみると、今まで聞いたこともないくらいしっかりした口調で返事が帰ってきた。将棋の駒が飛び散る音と、友人の善治さんの「あんぎゃー」という叫び共に通話は切れ、どうしようと戸惑う毅は取りあえずあの黒い麗人が逃げないように監視することにした。

 お茶でも出すかと、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し氷の入ったグラスに注ぐとカウンターに戻った。


「すみません、今祖父を呼んでいますので……」


 へこへこしながらお茶をカウンターに置こうとしたが、麗人は既に紅茶を啜っていた。アンティークの利いたシックな丸テーブルには細い花瓶にギリアの花が一輪生けており、テーブルに合わせた曲線が特徴的なイスで茶葉の香りを愉しんでいた。


 待ちくたびれて自分で用意したのだろうか、しかしお湯もティーセットもそのテーブルもイスも、一体どこから出したと言うのだろうか。


「あ、どうかお構いなく」


 紅茶片手に笑みを返してくる。この季節にその服で紅茶は流石に暑くないのだろうか。毅の頭は何通りもの疑問でいっぱいになった。


「あの、そのテーブル等はどこから?」


 と一言聞けば恐らく何かしらの答えは返ってくるだろう。しかし、ここで毅が考えられる最も合理的な考えは『じいやが三秒で支度をした』ということだった。

 たぶんどこかに隠れている麗人のじいやがこなれた手つきでそれらを用意したのだろう。我々店員の気配りが至らなかったばかりに迷惑をかけてしまったようで申し訳ない。毅は持って来たお茶を自分で飲んだ。


「ここは築何年くらいになるのですか?」


 優雅な仕草でカップをテーブルの上に置き、麗人は聞いた。


「そうですね……、父の実家でもあるので、七十年くらいは経ってると思いますよ?」

「まぁ、そんなに! どうりで、周りの建物と雰囲気が違うと思いました」


 麗人は驚きに感心を含めた口調で言った。毅の父が幼少期を過ごしたというのを聞いていたのでたぶんそのくらいだと思っただけで、真実は定かではない。

 がしかし、確かにこの商店街の中では一番古い建物の様だ。建て付けも悪いし耐震設備がスカスカなのでそろそろリフォームしてもいいと思うが、祖父が「全部壊れた時にまた建てればいい」と言っていたので、それもそうかと思っていた。


「おじい様はお歳は今おいくつ?」

「確かもうすぐ七十四になります」

「こんな日差しの中お出かけするなんて、お元気なのですね」

「元気過ぎて米粒なんかをよくテーブルやみそ汁の中に飛ばすんですけどね」

「まぁ、うふふ」


 楽しそうに話す麗人を見て、毅は罪悪感に苛まれつつあった。果たしてこの人に店側の惰弱な欲求を押しつけてもよいものだろうか。買い手の付きそうもない意味のわからない本を引き取ってくれるだけでも感謝すべきなのではないのか。

 しかし金は天下の回りものともいうし、貰える時に貰っておかないと祖父がどーにかなった時心配だ。

 両親共働きとはいえお金なんて隙があればいつの間にか無くなっているようなものだ。祖父に必要なお金は祖父自身がしっかりと確保しておく必要がある。

 毅は割り切って話をした。


「そういえば、随分雰囲気が違いますね。外国の方とか、ですか?」

「えぇ……まぁ、そんなところです」


 一瞬紅茶を飲もうとした手が止まったが、なんとなく突っ込まれては欲しくない雰囲気をだす麗人に空気を読んで話を変えた。


「紅茶、お好きなんですね」


 毅の計らいに麗人はまた楽しげに「えぇ、家ではいつでも」と応えた。

 ふと時計を見ると、さっきの電話から十数分を過ぎようとしている。遅い……。祖父の友達の家からこの家まで歩いて数分のハズだ。祖父のあの様子だと走ってくるかもしれない。

 その時毅の脳に一つの予想が立った。まさか駅前の『あの洋菓子店』に寄ったのではなかろうか、その可能性は十分あり得る。あの年寄りは欲だけはまだ衰えを見せてないのだ。

 そう考えた時、店先に祖父が現れた。


「帰ったぞー!」


 息も切らさず帰ってきた祖父は、案の定駅前のあの洋菓子店のロゴの入った袋を手に下げていた。

 毅はカウンターで座ったまま麗人を挟んで言った。


「遅いよじーちゃん!」

「おぉ、すまん」

「すみません、お待たせしました。祖父です」


 こちらへ歩いてくる祖父に毅はえらく丁寧に手のひらを向けて紹介した。麗人はすっと立ち上がり祖父の方へ軽く会釈をした。


「無理を言って申し訳ありません」

「とんでもない! 聞くところによると何か、お眼鏡にかなうものがおありで?」


 早々に話を持っていこうとする祖父の魂胆が意地汚くて毅は冷めた視線を送った。自身が発端であるということは今はどうでもいいのだ。今の悪者は祖父である。


「えぇ、この本なんですが……」


 麗人はカウンターに置いてあった本を祖父に渡して見せた。祖父は毅がやったようにくるくると本を眺め「ほぉ」と一息吐くと、顎の髭を撫でて何か考えている様子だった。

 そして唸りつつ言った。


「なんじゃあこりゃあ。こんな本見たこともないわい」

「え、でもこんな目立つ本、どこから仕入れたとか記憶ないの?」


 本を買い取るにしろ貰うにしろ、その本との対面は避けられないと思うが、祖父は本当に知らないようだった。


「んー……さてなあ、いくらわしでも値札貼るときに気付くじゃろ」

「まぁ、確かに」

「一応値札シールも元値を参考にしとるからの」


 横目でチラチラとこっちを見るな。この生き遅れ守銭奴め。毅は目で訴えた。


「えぇ、なので言い値でよろしいのです。譲って戴くことはできないでしょうか?」


 麗人はお願いしますとまた頭を下げた。祖父の顔には憎たらしい笑みが蔓延り、わざとらしく「相わかった」と首を大きく振った。


「まあそうさな、わしも長いこと生きているが、こんな本はお目にかかったことが無い。これはつまりそれほど貴重で、世にあまり出ていないものであるということが推測できるわけじゃな。そしてこの本がこの店にあるということは、わしのものであると同時に……」


 普段の筋力の衰えた口からは考えられないほど流暢に御託を並べると、祖父は価値を噛み締めるように目を閉じてこう言った。


「つまり締めて、一億円じゃ」

「じーちゃん!」


 刹那のつっこみだった。そんな途方もない金額を、財産が有りそうとはいえ、こんな品のある麗人に言い放てる祖父は悪魔だろうか。

 麗人も困り果てた様子で笑みを作りつつ、祖父の値引きを誘った。

 しかし祖父は依然として金の亡者のままだった。


「んー、じゃあ一億円弱でどうじゃ?」


 もやもやっとした金額だ。はっきりとして欲しい。麗人の顔は不満の様子を見せないが、きっと心の中はこの店を潰すことぐらいの事を考えていそうだ。お金持ちとはそういうものだと毅は小さい頃に教わった。

 麗人は金の亡者にくすりと微笑した。


「では……」

「っ!!」


 麗人の動きに祖父、毅共に麗人の手に注目した。小切手か、ブラックカードか……因みにここはカードは使えない、なにせ古本屋だ。まさか現金キャッシュだろうか、電話してじいやに……?

 二人が麗人の一挙手一投足に気を配っていると、麗人は持っていた本をカウンターに置いた。まさか諦めるのだろうかと思った時、次の麗人の口から出た言葉に、蓄音器ですら固まってしまう結果となった。


「私をここに置いてください」

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