第88話 俺とゆめりの関係論3

 ヘルシーカンパニー思想、それはアメリカの経営心理学者ロバート・ローゼン氏が提唱した、健康な従業員こそが収益力のある会社を作るとか言う考え方だ。

 ゆめりには是非ともヘルシーカンパニー思想を学んで頂きたい。消し炭朝食は駄目だろ。大体俺が健康であれば常に下僕として使え、登下校の足も確保出来るというのに……。

 え? 既にその通り?

 まあわかり切ってるよね!

 ――なーんて、とっくに朝食の謎なんて解けてる。

 全ては腹が弱かった俺のためだってな。理想の胃腸強化過程には掠りもしなかっただろうが、おかげでマジで丈夫になった。何度も何度も微量の毒を体内に入れて毒耐性を身に付けるのとほとんど同じ方法でな……。

 そしてそんな(慎重に考えないとわからんような)献身をずっと続けてくれてた女の子が、俺を悪く取るはずもなかったんだ。





 ゆめりは大きく見誤っていたこんな男を責める様子もなく、ベンチから立たせようと手を伸べてくる。

 手を取るのを躊躇う俺に気付くと、強引に掴んで引っ張った。


「……今の今まで変に誤解してて悪かった」

「いいわよ、別に。……勘違いするのも、わからなくないわ」


 そう言って、奴は無意識なのかやるせなさを孕んだ笑みを浮かべる。

 何でんな笑い方……いや、俺がさせたんだ。


 トラウマの原因は蓋を開けてみれば存在すらしていなかった。


 パンドラの箱だと思ってたもんが実はただの空き箱だった。


「俺のこと嫌になっただろ」


 こんな訊き方狡いとは思いつつ、口は止まらなかった。

 眉をひそめるゆめりの様子にじわりと後悔が滲む。

 奴は大きく息を吸った。


「――馬っっっ鹿じゃないの! それも大馬鹿よ!! ならないわよ嫌になんて。何年あんたと付き合ってきたと思ってるのよ。駄目駄目なのなんてとっくの昔にわかってる。でもあんたがどんなに最低で情けなくても、世間から白い目で見られても、もしも世界があんたを見放しても、あたしはあんたから離れる気なんてないんだから!」


 ゆめりの怒りに呑まれるようにやや仰け反って、何度も何度も瞬きした。

 存外酷い言われような気がしないでもないが、これらは傷付く必要のない言葉たちだ。


「全く、何度言えばあたしの本気が伝わるのかしらね。ホントもういい加減にしてくれない? 胸を張ってあたしに好かれてるんだって思いなさいよ、え? この小心者!」

「…………」


 鼻息も荒く詰ってくる。こりゃもう駄目だ。

 俺にこんな愛情に満ちた罵りができるのは、世界広しと言えどこいつだけだ。

 緑川ゆめりだけだ。

 最速の宇宙船に乗り込んだとしても、きっとこいつからは逃れられない。

 まあ進んで逃げたいとは思わないが、こいつが無理してでも……いや積極的に俺がいいと選んでくれるなら、もうそれを無下になんてしない、したくない。


「……ふっ、はっ、ははっ、ははははっ、お前ってホント…………敵わねえな」


 弱っているのに痛快で、少しだけ苦くて悔しさも伴った笑みが零れ出ていた。

 俺の幼馴染みは予想以上の素敵女子で、その上、俺以上の最高の大うつけなのかもしれない。


「お前も知ってる通り、俺――お前が好きだよ」


 奴が今日一番大きく目を瞠った。

 いきなりな俺のマジ告白はイルミネーションみたいに煌めいてもいないし、花束を捧げるような感動もロマンチックもない。

 ドキドキだけはMAXだがな。


「最終確認するけど、お前はこんな男でも本当にいいのか?」


 この期に及んで往生際悪く退路を示す俺をどう思ったのか、ゆめりはちょっと意地悪そうな表情を作ると、グイッと俺のマフラーを掴んで引き寄せるや問答無用で唇を近づけた。


 な……?


 驚く内心、近い眼差し。

 通算三度目のキス。

 これが初めてじゃないのが不思議なくらいに俺は狼狽の極致に達していた。

 大きく大きく大きく瞠目し、当然口を塞がれているから声は出ない。

 出ていたとしても咽の奥で呻くようなものだったろう。

 時間にすればちゅっと一瞬だったかもしれない。

 だが俺が赤鬼かってくらい真っ赤になるには十分な時間だった。

 互いに顔を離すも、黙っているのが猛烈に恥ずかしく何か喋らなければと動転する俺の泳ぐ目を、ゆめりは妙に真面目な顔で見つめてくる。


「あたし、これからはもう我慢しないから」


 これから? いやもう既にたった今我慢せずにキスして来ましたよねお宅!?

 動揺に拍車をかけたいのか、まだ何かあるのか、奴は少しかかとを上げて耳元に顔を近づけた。


「あたしね、意外と肉食みたいだから、覚悟しなさいよ?」

「なんっ……」


 何だとぅおおおおおおおおおーッ!?


 そんな大胆発言をかましてくるくせに恥ずかしそうにしながらの宣戦布告。

 極めつけだろこれもうさ。


「お前……ホントもう何なの? なあ? マジで勘弁して……」

「何よその言いようは、不服なわけ? え?」


 独断専行で突っ走ってくるくせに一瞬ちょっと弱気な顔をするとか、こんなギャップがもう反則だ。可愛過ぎる。


「いやそうじゃなくて、その、まあ…………宜しくお願いします」

「よろしい」


 やはりどこまで行っても上からな俺の最高に好きな子は、尊大な頷きを以てして俺の彼女枠に収まった。

 いや、俺を彼氏枠に収めてくれた。

 照れてしどろもどろの俺が、本当は今すぐ抱きすくめて窒息するくらいキスしてやりたいとか思ってるなんてきっと知らないだろ。

 もっと深い事だって俺の不埒な頭は考えもする。

 けどまあ今は、その先にあるのかもしれない恋人同士の何やかやよりも、こうしてとんだ回り道をしてやっと掴めた幸運を噛みしめていたかった。


「じゃ、用件は済んで釣果は得たし、帰りましょ、松くん?」

「釣果って俺は魚か! ……まあいいけど」

「はい、手」

「……手?」

「そう、お手」

「おい!」

「あはっ、冗談よ」


 怒りつつ、さすがに今の俺にはこいつが何をしたいのかわかった。

 一度気を取り直すように咳払いして、それでもやっぱり童話のうぶなお姫様のように躊躇いがちに手を伸ばす、俺。……俺! 哀しきかな、王子側じゃない。

 あと少しで届くかという所で短気なジャイアンさんの性なのか、強引に向こうから掴まれた。

 さっさとしろこの駄犬がとでも思っているのかと思いきや、寒さでじゃない色に頬を染め、この上なく嬉しそうなはにかみ顔が視界に入る。


 ……こいつってこんなに可愛かったっけ?


「何?」

「あっいやホッカイロいるかと思って」

「寒くないけど、寒いの?」

「うん、いや、少し」

「ふうん。寒かったらこうして歩けばいいわよ」


 ゆめりが腕に抱き付くようにしてくっ付いて来た。


「……っ、ま、まあ確かに押しくら饅頭はあったまるが……」

「はあ、あんたってホント情緒の欠片もないわね。これのどこが押しくら饅頭なのよ」


 呆れたような目で見てくる奴は、しかし体勢はそのままだ。


「でもまあ、こういうとこも嫌いじゃないけど」

「……さいですか」

「ふふっさいですよ?」


 我が至高のお方はこの手の方面に関しても強権はお変わりなく、俺も相変わらず振り回される日々を送る羽目になる……――そんな未来が確定した。

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