第87話 俺とゆめりの関係論2

 俺自身も呼吸を落ち着ける間、ゆめりは言葉を発さなかった。


「……中一ん時な」


 ポツリとした俺の最初の言葉にゆめりは僅かに身じろいだが、話を妨げないように呼気さえ密やかにした。


「俺が描いたら死ぬかもなんて冗談を言ってただろ」

「……うん」


 唐突な、本当に唐突でしかない俺の話に、奴は文句を言うでもなく耳を傾けてくれている。


「で、秋ごろの美術室だったか、お前が課題か何かで来てた時、俺はちょっとふざけたつもりだった。お前を描いてやろうかってそう言ったのも覚えてるんだよな」

「……あの時の事はよく覚えてるわよ」


 何故だかよくの部分が強調された気がした。気のせいだろうけど。


「で、お前は俺に描くなって言ったよな」

「言ったわ」

「あの時、怯えたみたいな顔をしてたお前を見て、俺はお前の小さな嘘に傷付いたんだよ。描かれて死ぬかもみたいな話をしてて、その描き手に言われて気分のいいもんじゃない。けど俺はホント勝手だがそれが酷くショックだった。今でも自分が描いたら死ぬとは思ってねえよ。それでも、描こうとするとお前の顔が浮かんで手が止まる」


 あの時の感覚が毒みたいに体中を回る。

 俺の愚かな真相の懺悔に、ゆめりは、こいつの方こそショックを受けたように目を瞠った。


「お前に責任なんてない。マジで俺自身の問題だからな。でも言いにくいだろ、こんな情けない話」

「何よそれ、あたしは描かれても平気よ」

「いいんだって無理しなくて。口では平気だって言っても表情は物語ってんだよ。もしも表面意識上は大丈夫だって思い込んでるんだとしても、お前の深層意識が描かれるのを恐れてるんだ。だから俺はお前に近付けない。お前みたいな魅力的な被写体の傍にいれば絵筆を執りたくなるからな。友人ってか幼馴染みポジでいる方がいいんだ」


 ゆめりは俺の懺悔に唖然としつつも、奴なりに整理しているようだった。


「だからさ、俺への不安要素があるのに、無理して好きでいるのは辛いよなって思ったんだ」

「……あたしが無理してると思うんだ」

「ああ、俺のせいでな」


 思う所があるのか、奴はしばらく黙った。

 やがて、ぽつりと声が落ちる。


「へえ、ふうん、今までそんな風に思ってたのね」


 奴はふふふと小さく笑う。


「あんたって嘘は下手だと思ってたけど、隠し事は上手だったのね」


 急に何か酷く大きな見落としをしているような、もしくは取り返しのつかない間違いを犯したような、そんな気分に襲われる。いや或いは両方かもしれない。

 何を思ったかゆめりは盛大な溜息を吐き出した。


「言っとくけどね、今も昔もあんたに描かれて一切不都合なんてないんだから。疑うなら今すぐ描いてもらって構わないわ。怖くないのよ本当に」

「お前……、この期に及んで建て前を並べるのかよ。俺が傷付かないように思って言ってくれてるんだとしても、嬉しくねえんだよ。全然描かれんの嫌じゃないとか、嘘だろ」

「ああもう本心だってば!」

「でも俺はお前の慄くような顔を覚えてる」

「あれは……っ」


 奴は俺をめつけてくると一度言い淀んだ。

 そして羞恥と悔恨がい交ぜみたいな顔で、次のような言葉をのたまった。



「――――裸婦よ」



 嗚呼、一瞬にして場の緊張感が崩壊。

 ラフラフラフ……と脳内に無限エコーがかかる。


「………………は?」


 どゆこと? ねえ、どゆことどゆこと!?

 全くの不意打ちに、目が点どころか宇宙の特異点になった気分で、問い返すべき言葉も出なかった。

 とにかく意味わからんだろ!

 こいつは俺の理性を試してんのか?

 暫しの沈黙の末、俺は砂漠の民のような目で相手を見やる。


「り、理解の水を、わしの枯れた畑に……」

「中学の時、美術室にあったでしょ、誰かが描いた裸婦画」


 奴は一瞬変な顔をしたが、理性の洪水か綺麗さっぱりお流しになった。


「ああ、あったな。――よく覚えてる」


 よくの部分に実感がこもり過ぎたせいか、奴の眼差しに厳しいものが過ぎる。

 未だ両手を添えられている俺の可愛いほっぺが抓られた気がするなあ、ハハハハ……痛えって!


「し、思春期の男子なんだ。細部まで脳みそにこびり付き長期記憶になってるくらい見逃してくれ! そ、それでその裸婦画と何の関係があんだよ?」


 必死に取り繕いほっぺ万力の刑を逃れようとする俺を呆れ目で見てくるゆめりは、嘆息を交えると手を放してくれた。


「それまで授業で美術室使ってたのに見た事なかったから、きっと誰かが日の当たる場所に引っ張り出したのよねあの絵」

「そういやそうかも」


 確かに、最初は皆に見える場所に堂々と置かれてはいなかった。


「あたしがその絵を初めて見た日、あたしだって今より子供だったし、さすがにびっくりして恥ずかしくてどうしようって思ってた時に、あんたがタイミング良く……いいえ悪く、あんなこと言うから」

「え?」

「あたしを描いてやろうとか何とか!」

「あ……」

「――てっきりあたしのヌードかと思っちゃったのよ!」

「…………」

「あんたが言ってるのは芸術だってのは頭ではわかってたけど、あんたの前で服脱ぐの!?って思ったら恥ずかしくて、居ても立ってもいられなかったのよ! だからついつい逃げるように帰っちゃってあの時は悪かったわ」


 自分で口にしてその時の感情を思い出しでもしたのか、顔を真っ赤にして責めるように言い終えると、よくも話させたわね……なんて表情で恨めしそうに俺を見てへの字口になった。確かに俺がこんな風にならなきゃ話す必要すらなかった過去の伏すべき真実だった。


「勝手に変な思い込みして恥ずかしかったし、あんたは気にしてないと思ってたのに……。まさか曲解されてこんな事になってたなんて思いもしないじゃない」


 俺はゆめりの告白を呆然と聞いていた。


「ハハ……何だよ……」


 蓋を開けてみれば、俺は全く見当違いの方向で勝手に下手なダンスをしていただけの間抜けな道化だった。

 笑いにならない笑声が零れて落ちる。

 明かされた過去の真相を前にする俺は、猛烈な罪悪感と怯懦きょうだにも似た青ざめる心地に陥っていた。


 何で俺は……こいつを疑ったりしたんだろう。


 俺の最低な勘違いからの今までを、真実と引き換えにもう奴は知ってしまった。

 本当に、俺はとんでもない愚か者だった。


「とにかくこっちの事情はそういうわけなんだから。それと、そっちの理由もわかったわけだけど、今のを踏まえれば、あんたがあたしの拒絶がどうとか、ありもしない理由で人物画を描けなくなる必要なんてないのよ」

「…………」


 俺はしばし何も言えなかった。

 人の心は読めない。

 鋭い洞察力で推し量りはできても、その時の雑念までをも含め完全完璧に取りこぼしなく把握する事は、人智を超えた存在でもなけりゃ誰にも不可能だろう。

 身内のだってよくわからん。特に姉貴とか。ありゃきっと宇宙人だよ。

 お隣の幼馴染みのなんて当然だ。

 何だよホント、裸婦画?

 んなもんに意識向いてるなんて誰が思うよ?

 ホントわかるわけがない。

 ああ、ああ、わかるわけねえんだよ!

 だがこれは俺が悪い。

 あの時、俺の方が裏切った。

 俺に対して絶対の信頼を置いてくれるこいつを。

 俺の絶対の信望者だって、拒絶するわけないって、自惚れでも自意識過剰でもいいから思えたら良かったんだ。

 被害者面してた自分をどこか深い場所に埋めてしまいたい。


 俺を縛っていたのは奴じゃない。


 ――愚昧ぐまいな俺自身だった。

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