第64話 道化とステージ5
ジンクス。
んなもんに頼ってまでお前はまだ俺が好きなのか?
そう思ったら気が抜けてしゃがみ込みそうになった。
振ったくせに、ジンクスの話を聞いた時は渋い気持ちになったくせに、ゆめりの口から変わらない想いをにおわされて安堵を感じた。
俺はしばしじっと手の中をスプレー缶を凝視する。
そうして再び手を動かし始めた。
「その調子よ。あんたの絵は不吉なんかじゃないんだしね」
「……お前が言うのかよ、それを」
「あたしが、何……?」
怪訝な顔をするゆめりを横に、静かにキャンバスと向き合っている俺はそれ以上は何も言わずにスプレーを噴射し続ける。
色は黒だ。
ただ、その軌跡は精緻な絵は描けないレベルで上下左右にブレまくっている。
これが人物画じゃなく抽象画だったなら、ありだったかもな。
不自然な程に俺の腕が震え、全身に冷や汗を滲ませているのにようやく気付いたゆめりは、この上なく見開いた両目に困惑を孕んだ。
「え……ちょっとどうしたのよそれ? 顔色だってすごく悪いわよ?」
傍らに近付いた奴へ視線を向ける余裕もないくらいに、俺は込み上げる吐き気と膝の震えと闘っていた。
顎先から汗が滴り落ちる。
「ちょっとってば!?」
制止するように奴から手を掴まれる。
「描かない理由は、これだ」
声が掠れた。
まだ落ち着かない呼吸のままの俺は、きっとこれ以上ないくらいにみっともない笑みを浮かべているに違いない。
「描きたくても、こうなる」
「な……」
苦渋を噛みしめるような俺の言葉に、奴の指先からするりとひょっとこが滑り落ちた。
「まさか、ずっと……?」
その問いには答えなかったが、必要ないだろ。
「そこまで思い詰めてたってこと? あたしが悪い冗談言ったから。あたしのせいで」
「勝手に責任感じんな。んな冗談真に受けるかよ。その件に関しては信じてないって言っただろ」
「だったらどうしてこんな風に?」
「それはどうだっていい。とにかくわかったろ」
一部の真実の暴露は苦肉の策。
だがこれでもう触れて来ないだろ。
しばし黙りこんだ奴は落としていたお面を拾うと、やがてゆっくり口を開いた。
「あんたの絵が好きよ。信じてないって言うならあたしを描きなさいよ」
「……今の見てなかったのか?」
「見た上でよ。そうなるのはわかったけど、そうなるに至った理由が明確じゃないわ。納得いかない。あたしに説明する気がないなら描いて。はいどーぞ」
ちょっとしたポーズを作る白雪姫。
ははっ何て酷い幼馴染みだよ。普通こんな状態の相手に無理強いするか?
「何事にも手を抜かないお前らしいな。けどふざけんな。口では何と言おうと、本音じゃ俺に描かれんの怖いんだろ。なのにどうして自分を描けとか平然と言えんだよ?」
「何なのそのあたしが怖がるとかって? あたしだって信じてないわよ」
俺は口元を結んでグッと缶を握り締めていた。
そう言ってほしかった。
中一のあの時に。
「中学の時は、描いてやろうかって言ったら描くなって怒ったくせに……」
「え? 中学? ……――あ、まさかあのあたしの居残り美術の時の話!?」
「覚えてたんだな」
些か意外に思ったものの、だったら都合がいいと俺はゆめりをもう見ずに手を動かしながら言葉を続けた。
「じゃあ改めてあの時と同じ事を訊く。本当に俺に描かれても構わないのか?」
「……いいわよ別に」
不自然とも単なる呼吸のタイミングとも判断できる微妙な間のあったゆめりの声はいつも通り。
だが一瞥した俺の目は見逃さなかった。
奴の目に慄きみたいなのが過ぎったのを。
はっ、目は口ほどに物を言うってホントだよな。ここまで来ると逆に可笑しさが込み上げてくる。空笑いだったけど。
「ははは、はは……すげえな、それは部活で培った演技力か? 俺じゃなかったら気付かなかっただろうな」
「何言ってるのよ?」
怖いとか嫌とか不安とか、素直に言って欲しかった。
俺のためを思ってだろうが、その欺きが逆に俺を苦しめてるってわからないのかよ。落胆が憤りを生み更には怒りの炎に油を注ぐ。
トラウマの元凶だって知って思い悩めばいい。
最低にも、そんな攻撃的な
トン、と敢えてやや強く音を立てて俺はスプレー缶を床に置いた。
ささめく会場の反応には構わずゆめりの奴を振り返る。
「だったら教えてやるよ。俺が生き物を描けない本当の理由はなっ、お前がっ…」
「――はーい! あらら五分をすっかりオーバーしてました~! 皆さんごめんなさーい!!」
マイク越しの部長様の陽気なアニメ声が、それまでの流れの全てをぶった切った。
加えてステージ上で飛び跳ねるように動き回って会場の注意を自らに向けさせた。
「いやいや~ついつい見入ってしまいましたね~! しかもこのままだと白雪姫じゃなくひょっとこ姫。本物の白雪姫が見たい皆さんは次の演目にどうぞどうぞご期待下さ~い!」
道化部長がからからと笑って俺と奴の周囲をぐるりと一回りした。
俺は体裁の悪さに体を硬くする。
部長はそんな俺を何故かデコピンした。
「でっ!」
「ほらほら顔上げて。良かった良かった何とか描けたようだね~」
「……まあ」
そうなんだ。
俺は確かに一枚のスプレーアートを仕上げていた。仕上げてとは言ってもトラウマと口論で集中できなかったわタッチは荒いわで、秀作からは程遠い。
猫耳ひょっとこ白雪姫。
しかも可愛らしい二頭身仕様だ。
ゆめりと言い合っていた途中から勝手に趣旨変更して、無難にフィクションの人物に逃げたってわけだ。とにかく何かが描ければそれでステージは成り立つと思ったからだ。最早ドレスを着ている女の子ってだけでゆめりの白雪姫とは言い難く、かと言って猫耳たんでもない。ただ観客はミニキャラの白雪姫だって判断するだろうがな。
一方、直前までがどうであれ俺の異色の即興作品がどうであれ、喋って動く物体に人の興味が行くのは当然で、部長はまんまと主役の座を奪っていた。
「こちらの二人は予想以上にスパイスの効いた迫真の演技でした。ペインティング痴話喧嘩。思わずハラハラさせられた実際に幼馴染みの二人の名演に拍手を~!」
この言葉で決定的に観客もこれまでの流れを演出の一つと思ったようだ。
両脇の先輩方もいつの間にかきっちりひょっとこ姫を描き切っていたのも、部長の意図を手伝ったに違いない。
納得したり笑ったり。
パラパラと起こる拍手を聞きながら、臨機応変という言葉が胸中に浮かぶ。
「以上、美術部でした。巻き巻きしないといけなそうだからとっとと撤収しろ~!」
時間が押しているっつーニュアンスを込めて、蹴りを繰り返して滑って転ぶ道化の道化らしい演技に、会場からは苦笑や失笑が漏れ聞こえた。きっとこれも計算の内だ。
余計な事は考えず指示通り撤収する俺たちの前では、すっくと立ち上がり復活した道化が元気よく白雪姫にマイクを向けた。
「折角だから訊いちゃいましょう。白雪姫、次の演劇の見どころは?」
「ええと、ミュージカル仕立てです」
気付けば、不動の女装ひょっとこがそこには立っていた。
くっ、いつの間に再装着を。
思わずトラウマとは違った意味で震えそうになった。
こいつも上手い収拾を付けるために部長の策に乗っかったんだな。
俺は撤収に取りかかる他の部員たちに紛れた。
こうして、注目のライブペインティングは全てが演出という形で概ね片がついたようだった。
正直後で部長にもゆめりにも怒られる覚悟はしていたが、工程や質はどうあれ一応作品を完成させていてパフォーマンスとしては辛うじて成り立っていたからか、予想に反して誰からも怒られはしなかった。
ただ、一番の道化は誰だったのかは、言うまでもない。
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