第62話 道化とステージ3
両脇の先輩たちが早速と描画に取り掛かるのに、俺はスプレー缶を手に取る事すらできずにいた。
絶望的な心地で立ち尽くし、言葉も思い付かないまま幼馴染みの少女を見つめるだけだ。
観客からはわからない程度だが、小さく震える手と膝が唯一現実感を俺に味わわせてくれている。
いっその事、ブーイング必至で一切関係ない猫耳たんでも描いてしまおうか。
自慢じゃないがクラスの看板制作では、プロフェッショナル岡田からこだわりの駄目出しの連発で猛練習の結果、何も見ずとも細部のアクセサリーまで完璧に再現できるようになった。
或いは、似たドレスを着た架空の人物を描くとか。
それを白雪だって言い張ればいい。真偽なんて観客にはわからないだろうし。
よし、そうしよう。
だってそうでもしないと俺が緑川ゆめりを描くって筋書きは避けられない。
もしそうなれば、奴はまた怯える。
中一の秋の美術室みたいに。
慄きを宿した双眸、それをまた向けられるのを想像したら、恐れにも似た渦が胸中を支配して、もう俺は何もできなかった。
そのうち、微動だにしない俺の異変に気付いた何人もの不可解そうな呟きが、ざわめきとなって会場全体に伝播していく。
左右の先輩たちも戸惑った様子で横目に俺を見ていた。
「どうしたんだろうね?」
「何で描かないの?」
「頭真っ白になったとか?」
背中越しに、最前列の客の会話が耳に入る。
んとに真っ白だったら良かったのにな。
余計な事をぐるぐるごちゃごちゃ考えずに済んだから。
畜生、会場のテンション駄々下がりだよこんなの。
次はゆめりの舞台だってのに。
俺の家族は来てるか知らんが、緑川のおじさんとおばさんは来ていてこの会場のどこかで観ているに違いない。
ダチの岡田は来てくれている。
客席中程に座っていたが、変なコスプレのままだったせいでめっちゃ客席で浮いててすぐにわかった。
隣には佐藤もいた。
着替えず直接来たのかこっちはこっちでシェフのまんま。お前もかっ佐藤!
当初、こいつらに気付いた演劇部のやつらが一瞬「え? うちの部員あんな所に仕込んでたっけ?」的な顔をしてた。まあ無理もない。
停滞する俺の時間。
意識せずも視線が落ち、足元の一点を見下ろしたままの視野がぐらぐらする。
手も足も死んだように重く冷たく感じるのに、頭上から当たるライトの熱がじりじりと俺の首筋を焦がすようで気持ち悪い。
――悪い、ゆめり。
ライトの逆光で影になった上に、微かに動いただけの唇の動きを奴の位置から正確に読み取れたかは知らない。
この期に及んで描かない俺に呆れて幻滅でもしたかな。
奴は俺のトラウマを知らないから、俺の頑なさを単なるワガママとか意地だと思ってるだろうし。
だが直後、空気が動いた。項垂れた頬に風を感じた。
……え?
視界の端にカラフルなドレスの裾が翻るのが見え、思わず顔を上げ目で追った。
無言のままステージを横切った白雪姫が、持ち前の運動神経の良さを発揮しステージから飛び下りたところだった。
危なげない着地に、ドレスの裾が花が広がるように空気を孕んだ。そして奴は沈めていた身を起こすやあっという間に客席の中に紛れ込んだ。
何…を……?
白雪姫の奇行に会場はすっかり呆気に取られていた。
一体何をしに客席へ行ったのか皆目わからない。
モデルを失い美術部の先輩二人も困った顔をしてはいたが、やっぱり奴の動きを無言で見守っている。
奴は演劇本編が始まる前から、このステージの主役以外の何物でもなかった。
だが本当にどうしたってんだ?
完全に中断したライブペインティング。
しばし固唾を呑んでいた会場は我を取り戻しつつあるのか、次第にどよめきが大きくなっていった。
こういう時いつもなら場を落ち着かせようと努めるだろう部長は予想に反して何も言わず、表情をおどけた道化のまま固定していた。道化戦線に異常なーし。あんたプロだよ……!
俺が肝の据わった部長様を崇拝しているうちに、何かを手に、蝶が舞い戻るようにドレスの姫が軽やかに壇上への階段を駆け上がった。
まあ忍者じゃないんだしさすがに上りは階段使うよな。
ゆめりは周囲の困惑と不可解の視線の中、俺の真ん前に立った。
俺はステージを台無しにしている罪悪感から、途中もう奴から視線を外していたが、さすがに目を向けざるを得ない。
視界を滑らせる俺は、その顔を見て思わず目を瞬く。
「へあ……?」
我ながら人生テレサテンいやいやベストテンに入る間抜けな声を出したと思う。
何故ならそこには「女装ひょっとこ」という神秘の存在が降臨なすっていたからだ。
ははっ幻覚かなあああ?
何度も瞬きして目を擦って頭を振って頬を叩いてみても、それは花垣松三朗という人間の眼前に確かに存在している。
夏以来お久しぶりでーす。
「女装ひょっとこ再び……だと!?」
今度は浴衣と言う和装じゃなく、ドレスと言う洋装でだ!
んじゃ次はチャイナ服辺りアルか?
「ハッ、まさか今から中国伝統の超高速かつ連続で面を変えていくというあの神業を披露する気なのか!? ひょっとこ一枚で!?」
「は? 何言ってるのか意味わかんないけど、これなら実在の誰かじゃないからいいでしょ。――描いて」
さっきまでとは全く違った意味で言葉を失くす俺をお面の奥から見つめ、奴はくぐもった声で命令した。
どう交渉したのか出所は確実に岡田と思われるひょっとこ面がライトに映える。
優しく可憐な白雪姫像なんて完膚なきまでに粉々だ。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「何でよりにもよって……。岡田んとこにはおかめだってあっただろ」
「あったけど、パッと見これだって思って」
「……」
こいつはひょっとこの呪いにでもかかってるんだろうか。
「って言うか、女装ですって?」
「あっいやっ気のせい気のせい。お前は女子だっ、と思う」
「思うって何よ、思うって!」
「いやちゃんと女子です!」
うっかり土下座しそうになって俺はハッとして何とか思い止まった。
そうだった、ここは公衆の面前。
下手すりゃ緑川夫妻に俺と奴の力関係がバレる。
健全な幼馴染みだと思ってるだろうおじさんとおばさんにおかしな場面は見せられない!
俺の
……悲しい事にうちの家族は皆気付いてて、しかもそれを推奨環境だと思ってるがな!
因みにゆめりはそれに気づいてないから毎度毎度猫被ってやがる。面白いからこれは絶対言わないでおこうと思う俺だ。
ところで、どうする?
くそっ、シリアス展開かと思いきや何でこんなおかしな展開にっ!
俺は女装ひょっとこに噴き出しそうになりながらも、必死で堪える以外になかった。
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