第29話 過去の足音1

 俺は昔から絵を描くのが好きだった。

 家の壁にある太古の壁画を彷彿とさせる俺の落書き、未だに残存しているそれら意味不明な数々が絵好きの起源を思わせる。俺の部屋の壁に宇宙人みたいな誰かの似顔絵があったりするのもご愛嬌だ。


 中一の春、俺は緑川家の飼い犬――ミストを描いた。


 犬種は大型犬のゴールデンレトリーバーだ。

 犬小屋が庭にあるからいつも庭先にいて、俺がご聖木たる栗の木ちゃんの幹に括られた時だって、庭暮らしの仲間ができたとでも思ったのか、ハッハッと息を荒くして尻尾を勢いよく振って俺の体に飛び付いてきた。

 小学生だった頃の俺は、正直ミストと固い栗の木に挟まれ圧死するかと思ったね。

 愛嬌のある可愛い犬だった。口は臭かったが。

 そんなミストとも、中学に入ってからは余り遊ばなくなった。

 部活に専念していたってのもあったが、この頃くらいから俺はあいつん家にはほとんどお邪魔しなくなっていた。行けば超絶美人な緑川のおばさんが歓迎してくれるけど、何となーく照れ臭かったんだよな。

 ミストもミストで緑川のおじさんの意向で室内飼いにされて、前ほど見る機会が無くなってしまった。

 だから絵も、借りた写真を見ながら描いた。

 ミストはゆめりが生まれた年に飼った犬だって聞いたから、一緒に育って十年以上は生きている老犬だった。あの当時ゆめりはミストがちょっと体調を崩しているだけだろうって言ってたし、俺も会いに行けばまたお手やお座りなんかをしてくれるだろうって簡単に考えていた。

 絵を完成させたらそれを持って対面させてやろうとさえ思っていた。


 ――――だが、死んだ。


 俺がミストの絵を完成させた三日後に。


 今はもういなくなっちまったミスト。

 もっともっと遊んでやれば良かった。

 あの頃、完成したミストの絵は中学の美術室に置いていた。

 射し込む夕日に染まるイーゼルの前に立ち、ゆめりはその絵を黙って眺めていた。何となく、俺も。

 橙色に染まる美術教室で、中一の俺たちはしばらくそうした。


「なんかね、ミストはがんだったみたい。末期の」


 ポツリとゆめりが口を開いた。


「老犬って寝てばかりなのかなって思ってたし、遊んでやれば全然元気そうに見えたからあたしは知らなかったの。死んじゃってから両親が教えてくれたわ。あの子、あたしが学校に行ってる間はもうずっと動こうともしなかったって」

「お前に心配掛けたくなかったんだな」


 俺の口からそんな月並みな言葉が零れた。

 我ながら、気が利かない。


「ふふっしょうくんが可愛く描いてくれたから、安心して旅立ったのかも」

「そういやミストはメスだったっけ。忘れてたよ……犬も飼い主に似るんだな」


 無言の肘鉄を食らった。

 でもしょうくんか。

 小学校高学年辺りからはいつも大体あんた呼びか、中学入ってからは花垣君呼びだったからその呼び方は久しぶりに聞いた。

 そんな何も飾っていない素のゆめりの横顔で、まつげが震えた気がした。


「なっなあ実はこれあれだったらどうする? 名前を書かれると死ぬってノートの絵バージョン。人呼んで、デス・キャンバス!」


 泣くのかもしれないと思ったらちょっと、いや大いに焦った。

 その調子で放たれた唐突な俺のテンパり発言に奴は最初キョトンとして、それから大人な対応で苦笑いした。

 馬鹿な冗談、とでも思っている顔で。


「何それ有り得ない。あんたが描いたから死んじゃったって?」

「そう。俺がそのキャンバスに描くと~」

「じゃあ自画像描いたらいいのよ」

「ひでー。んなこと言ってると死神画家の俺に描かれるぜ? 精々描かれないように注意するんだな」


 俺はキザに言って顔の向きに角度を付け、ついでに口角も持ち上げた。

 意外だったのは、ふざけた俺の物言いにゆめりは最後まで怒るでもなく、むしろくるりと目を回しておどけて話を合わせてくれたことだった。


「うわーミスト災難。あたしが写真渡したからだわー。ごめんミストー!」

「悪かったミスト。自覚なく描いてしまった俺を赦せッ、天国で幸せになってくれ!」


 お互いに軽口。

 不謹慎で、本気じゃない、しんみりくる悲しさを努めて笑い飛ばしたやり取り。

 だから先の台詞たちを気にもしなかった。


 俺もゆめりも、この時は。


 ――世の中には「不幸の手紙」ってのがあるが、じゃあ「不幸の絵」ってのはあるんだろうか?


 その定義がどんなものであれ、俺の答えは「ある」だ。

 少なくとも俺はその絵を知っているから。

 とてもよく……。





 高校では終業式も終わり、とうとうテンション上げ上げの夏休みに突入した。

 うぇーーーーい!!

 だが、俺だけはどうやら違う星の下に生まれたらしい。


「お風呂の前に、課題、ね?」

「はい、ゆめりお母様」


 夏休みまだ三日目。

 夕食後、夜八時過ぎ。

 俺は教育ママゆめりから学習机の傍に張り付かれていた。

 招かれざる客人はうちの母さんが淹れて持ってきてくれた緑茶を啜っている。

 母さんも夏なのに麦茶じゃなく熱いお茶とかってさ、気が利かないどころか嫌がらせ?

 ハッ、まさかもう嫁と姑ごっこの確執が?

 うぇーーーーい!


「ホント美味しいこのお茶。何か小さな一袋が八千円したとかって言ってたわよ」


 ハイ俺のだけないのはそういうことですね!

 たぶん父さんのもない。

 嫁姑関係は順調かつ健全に進んでいるようだ。

 ……俺は喜ぶべきだろうか。いや、ない。

 奴は驚くべきことに夏休みの課題をもう半分は終わらせたという。

 才媛は頭の出来が違うというより、三日しか経ってねえのにもう半分終わってるとか、やはり奴は人間じゃない。


「課題がはかどるように、頭に高級茶分けてあげよっか?」


 いやいや何その言葉おかしいだろ、頭に分けるとかって。

 いくら高級でも緑茶だよ、育毛剤じゃない。


「今の俺には三角関数しかありません!」


 こいつこそ脳みそに緑茶注入して脳内に蔓延る虐げ菌を殺菌すればいいのに。

 脳天にポタリと刺激物が当たった。


「あちいっ! おまッまさかマジにお茶を!?」

「はあ? バッカじゃないの? 氷置いただけよ」

「ドライアイス!?」

「普通の氷よ。アイスの袋の表面にくっ付いてたのを落としただけ。あたしそこまで鬼じゃないわよ」

「それはどうだろうねッ!!」

「ふーん人間目で見てないと熱いのと冷たいのを勘違いするって実験知ってるけど、本当にそうなのね」

「幼馴染みで実験しないで!? 俺はお前のモルモットか!」

「ほらほら寝言はいいから問題解いて」

「寝言!? せめて無駄話って言ってくれ! お茶はともかく、お前だけアイスとかってずるくねえ? 大体熱い茶と冷たいアイスなんて正反対過ぎんだろ。組み合わせ考えろよ」

「あたしが持ってきたのをどうしようと勝手でしょ。あんたの分は課題終わってからね。美味しいわよ牧場なんとかってアイス。ミルクの。スーパーなカップのとかあんた好きよねミルク系」


 案の定アイスの好みまで把握されてらあ……。

 これも諜報員スパイ藤宮の……いやいや早まるなあれは俺の空想だ。

 そして俺はまんまと餌に食いついた魚だな。

 メッチャやる気出る!!


「へっすぐに終わらせてやんよこんな問題」


 そして待ってろ俺のオアシスならぬオアイスタ~イム!

 ……十分経過……二十分経過。


「フッ、この課題集、俺の実力を見くびってたらしいな。何しろ俺は下の上」


 基本問題の三問しか解けませんでしたー。

 泣きたい気分の俺じゃなく、奴が困ったように額を押さえた。


「はあー。この調子じゃ先が思いやられるわね。お互いの部活の時間はしょうがないけど、どうにか徹夜とかもして十日以内にあんたの課題も全部終わらせるわよ」

「十日で終われるかこれ?」

「終わらせるのよ。有意義な夏休みのためにね」


 そんな……未来に破滅しか見えない。


 俺たちは、奴がアイスを食い終えすっかり茶も飲み終え、時計の針が十時を回っても教師と生徒だった。


「あんた、これ終わるまで寝かさないわよ?」

「そう言う台詞は、もうちょっとドキドキするシチュエーションで言ってくれ……」

「なっ……」


 絶句する奴を余所に、俺は最早発言の良し悪しを考慮できない精神疲労と眠気と脳内で最早分解されていく公式と闘いながら、シャーペンを握り続けるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る