第30話 過去の足音2
突然だが、自分で真剣に描いた絵を後悔した事のある人間は世の中にどのくらいいるだろうか。
俺の場合、それが二枚はある。
描き終えた当初はそんな風には全く思わなかった。
でも二枚目を描いて、そして…………。
――中一の秋、裏の家の住人を被写体に俺は絵筆を執った。
夫に先立たれ、娘息子とも離れて暮らしていた裏の家ばあさんは、俺たちが小さい頃からよく面倒を見てくれた親しいご近所さんだった。
家に遊びに行く時はいつもお菓子を用意してくれていて、俺もゆめりも家で食えば怒られるほど御馳走になったもんだ。
俺の腹が弱いのを知っていて、お菓子のチョイスも考えられていたと思う。
和菓子が多めで大好きなバニラアイスやチョコやグミは少なかったが、ばあさんのところで食べてお腹を下した日は不思議となかった。
ゆめりが「お腹が弱い人にいい食べ物ってなんですか?」とか訊いてた気もするが、ちょっと何となく訊いてみただけだろう。
俺の朝食に関連はないはずだ。
あったなら消し炭なんて出て来ないはずだ。
中学になって前ほどは頻繁に訪ねなくなっていたが、そんなずっと年上の友人を、俺は描いた。
モデルを快く引き受けてくれたのは有難かった。
日の当たる縁側でばあさんは俺のためにじっと動かず、俺は熱心に彼女をキャンバスに写し取っていった。
そして、絵を完成させて一週間後。
ばあさんは亡くなった。
俺の実の祖父母は皆健在だし、親戚もピンピンしているから、身近な人が亡くなる経験は初めてで、酷くショックだった。
正直に言えば、ミストの時よりも深かった。
そんな時、春に描いたあのミストの絵を思い出したんだ。
ゆめりとの冗談も。
今まで、コンクールなんかに出しても良いような絵画作品と呼んで然るべき油絵で、尚且つ現実に生きているものを描いたのは、ミストと裏のばあさんの二枚だけだ。
キャンバスに描き上げてまもなく死んだ被写体たち。
俺が描いたから?
そうなのか?
現実的に考えて有り得ないと思いつつ、葬儀の後から俺は落ち込んで何日も美術部を休んだ。
絵を描く気力が湧かなかった。
鬱々とした日々を送った俺はその日もさっさと帰宅して、だがそんな俺の部屋のドアを誰かがノックして、返事も待たずに入って来た。
母さんなんかは来客が無い時はノックもしないで入って来るから(息子のプライバシー!!)、ノックをするのが誰かはもう決まってる。……ああ鍵かけとけばよかった。
この所ゆめりの相手をろくにしてなかったから、大方怒って乗り込んで来たんだろう。
勉強机に突っ伏して不貞寝している俺の傍に立つと、ゆめりは何故かホッとしたような息をついた。
「なんだ、具合悪いわけじゃないのね」
「…………まあな」
「最近落ち込んでるみたいだけど、裏のおばあさんの件で?」
「………………別に」
「あたしだって悲しかったけど、部活まで休んでどうしたのよ? この前までおばあさんの絵を描いてたじゃない。完成させてあげなさいよ」
「……………………させたんだよ、完成」
させなきゃよかった、完成。
俺はゆめりを見もせずに壁の一点を見つめて答えた。
小さな頃の落書きのあとが視界に入る。
下手くそなタッチの宇宙人顔の人間がそこにはいた。
普段見る度にどこかシュールだと思っていたそれすら、今の俺には何の感慨も抱かせなかった。
「え? そうだったの。じゃあ何でそんなに落ちてるのよ。らしくないわね」
ゆめりは気付いていない。
名探偵でもない限り、普通はそうだ。
「ねえ悩みでもあるの?」
俺は俺の中の馬鹿らしい考えを話す気なんざなかった……が、久しぶりにまともに聞いたゆめりの声が心配してくれる声だった。
いつもは足蹴上等のくせに、こんな時にはちゃんと俺を気遣ってくれるらしい。
絆された。
いや、違うか。もう一人で思い詰めていたくなかったんだ。頼れる誰かの意見を聞きたかった。
「アニキ……いやゆめり、ミストの絵、覚えてるだろ」
「うん。それが?」
脈絡のない話し出しにも文句も言わず、きちんと相槌を打ってくれる。アニキって部分は幸い聞こえてなかったみたいで良かった。
「俺が生きてる相手を描くと、その相手が死ぬかもしれない」
「は?」
当然、奴は耳を疑ったような反応を見せた。
当時の俺は中学特有のアレですよ。中二病なる思い込み。
自分の絵が特別な何かを秘めているかもしれないなんて言う。
それを口に出して誰かに伝えてしまうくらいには阿呆な
悲しきかな、まあ今も大して変わらんが。
「ミストに裏のばあさん、俺が絵を完成させて程なく死んだだろ」
「馬ッ鹿じゃないの? 偶然でしょそんなの。ミストは病気だったし、おばあさんのは運の悪い事故よ」
そう、事故。
裏のばあさんは脇見の車に
ミストだって病気だった。
ああ、偶然だ。
常識的に考えてそうとしか思えない。
でも一度でも有り得ない不穏な可能性を考えてしまった俺は、人を死に追いやっていたらどうしようかと恐ろしくて家の中で縮こまってたんだ。
ただそれだけ。
小心者だっただけだ。
「……本当にそう思うか?」
「そうに決まってるじゃない。ええとキャンバスデス、だっけ? そんな事言ってたのはほんの悪ふざけに過ぎなかったでしょ」
「いやあの、キャンバスですって紹介してどうすんだよ。デス・キャンバスだ」
「ああそうだったわね。でもあんたってホントしょーもない奴よね。そんなことで悩んでたの?」
「そうだよ」
「本当に馬鹿みたい」
「そうだよな」
「そうよ全く」
「ああ、そうだよな」
ゆめりが心から呆れ一蹴してくれたおかげで、俺はようやく不安の渦から抜け出せた。
二枚の不幸の絵が、何でもないただの二枚の絵なんだと、ようやく思えたんだ。
夏休みも十日目突入。ひゃっほう~☆
俺は何とか奇跡的にスパルタゆめりママからの脱出を成功させた。ひゃっほう~☆
頑張って頑張って銀河級に頑張って、課題をこなしたんだよ。ひゃっほーい☆
感激の宇宙に旅立ちたくて思わず
「あぎゃーっ!!」
「危ないじゃない。地面に伸びた蛇みたいにうっかり踏んじゃったわよ」
「ここじゃ蛇なんてうっかり踏まねえよ! どこの田舎だ!」
蛇の方だって踏まれる前に逃げるだろ。
故意なのがバレバレな辺りお前の方がよっぽどうっかりさんだぜ。
「でもまあよく期限ぎりぎりで終わったわよね」
「期限って何のだよ。本来は夏休み終わるまでにやり遂げるもんだろ課題って」
これだから夏休み四日目で課題を全部終わらせた才女はー……っつか、え? この前三日目時点で半分終わったって言ってなかったか?
単純計算上は六日目で完了のところを四日でって……やはり人じゃない。
「あたしもあんたも課題終わったし、明日どっか出掛けない?」
「明日?」
「だって今日はもう夜の八時半だから遅いし」
「いやいや俺は時間を気にしたわけじゃねえよ」
今日までみっちり受験生みたいな勉強漬けの日々で、体の芯までしっかり味が染み込んだ良い漬け物に……ってなるか!
俺にはガス抜きが必要なんだよ。
だって毎日毎日毎日毎日部活以外は奴と顔合わせて会話と言えば倦怠期の夫婦以上に殺伐としたもんだったし。
――おい、なあ? もうそろそろ正午なんだけ…。
――さっきの解けたの? お昼必要なくらい脳みそで糖分消費した?
――あ、いえ……。
みたいな会話が色違いのTシャツみたいに何バージョンもあった。
「明日は、悪い。ちょっと用事があるから」
「……そうなの」
ってなわけで俺は断って、翌日学校に行った。
用事っつうのが部活なのが悲しいが俺は美術室に荷物を置くと、スケッチブックを片手に校内の景色を描こうとそこを後にした。
何処を描こうかと見て回っていると、主に陸上道具などをしまってある外体育倉庫脇から声が聞こえて、その声が男女の言い争うような声だったのを気がかりに思って近付いた。
そして見てしまった。
ヤンキーがヤンキーに胸倉を掴まれている所を。
眼鏡っ娘ヤンキー藤宮が、先輩らしき男ヤンキーから今にも殴られそうな場面を。
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