3rd --- mizushima

 レンジの足は宙に浮き、空をかきつつも背後の男の足を蹴って抵抗を見せた。しかし、締めつけられる首の痛みと苦しさで蹴りに力が入らない。三度、足を振り下ろしたところで足は垂れ下がり、レンジの体を包む赤いマントの揺れもなくなった。レンジは、入れ墨がびっしり入った男の腕を必死につかんでいるのが精一杯だった。


 それを見かねたオーは、身軽に入れ墨男の肩を経由して男の頭に飛び乗った。そして、両前足の爪を最大に向き出すと、男の顔面を容赦なく引っ掻いた。交互に爪が顔面の薄い皮膚を裂き、幾本もの赤いラインが刻まれていく。


「ハギャー、アー、イーッ、ハッ、ぬあー顔が。クソネコォ」


 男は叫び声を上げると同時に、手で顔を覆った。男の腕から解放されたレンジは、その場に倒れ込み、大きく息をしつつ咳き込んだ。


 顔を隠して言葉にならないわめき声で踊っているような男の頭を蹴って、オーはレンジの前に着地する。


「大丈夫か、レンジ。ホレ、ここはいったん引くぞ。今のうちじゃ、急げ」


「あぁ、ちょっと油断しちまった……。なんて力だよ」


 地面に突っ伏した男と手で顔をあてがってもがく男を横目に、レンジとオーは群衆の間を分け入ってその場を後にした。


 後方からすぐに、ガキとクソネコを追え、と男の張り上げた声が聞こえてきた。足早に進む進路を右に変え、露店のテントが立ち並ぶ通りに入り込んだ。後方を気にしつつ、行き交う露店客の間をすり抜けて、男たちから距離をとっていく。


 露店の道を抜けると、開けた場所に出た。


 まるでオアシスかのようにそこには、噴水があり、その周囲を囲うように木々が生えていた。人々は木に寄りかかったり、日影の地べたに座り楽しく談笑していて、ひとときの休憩空間となっていた。先の血の気の多い輩はいなかった。


「一応、自然はあるんだな。乾ききった土くれしかないのかと思った」


 レンジは、鮮やかな緑の葉を生やす木を見上げた。


「でも、あるのはここだけのようじゃな。グッ、この匂いは」


 オーはピョンと飛び下がった。


「んっ」


 レンジもすぐに匂いに気づき、マントで鼻を覆った。ラヘレに不時着して外に出た時に嗅いだ同じ腐敗臭が鼻を刺す。


 この匂いは一体――。


 木陰で休憩していた人々も腐敗臭に気づいている様子だが、慣れているのか驚きもしない。しかし、木々が徐々に灰色に変化していく。


「な、何ごとじゃ」


 葉を落とさず、生気が失われていくように幹は痩せ細り、空高く伸びた枝は芯を抜かれたように垂れ下がってしまった。同時にさっきより強烈な腐敗臭が辺りに放たれている。


 単に枯れていくのとは違うことぐらいレンジでもわかった。


 匂いに顔を歪める人々だったが、誰も慌てる素振りを見せる者はいなかった。それどころか笑顔すら見て取れる。気づけば、吹き上がっていた噴水は止まり、溜まっていた水もぐんぐんと地下へと吸い込まれていくように水位が減っていく。


「どーなってるんだ、この星は」


 鼻を押さえ込んでもわずかな隙間から匂いが侵入してくる。鼻から地獄を詰め込まれたかのように全身が震えた。


 暑すぎる気候ではなく、かといって極寒でもない。乾燥気味な空気だが、木々を腐らせてしまうような汚染された空気というわけでもない。ただレンジは、この星が、この星の人々が異常であると改めて理解した。


「いたぞ。赤いマントのガキ!」


 さっきの男たちの声が背後から聞こえてきた。振り向くと、入れ墨男と傷の男だけでなく、同じような体格をした男たちが五人いた。


「おいおい、何で増えてるんだよ」


 レンジはマントを翻して、男たちを撒くため露店が立ち並ぶ道へと入り込んだ。そして、人とぶつかることなど気にせず、追っ手から逃げていく。


 一方の男たちも通行人たちを突き飛ばしながら進んできていた。怒号が上がり、それは通行人のものか追っ手のものかはわからない。その代わり、レンジたちは男たちがどこにいるのか把握することができた。


「どうするのじゃ、レンジ?」


 レンジの肩に爪を引っ掛け、背中に張りついているオーが問う。


「決まってる。今から『王』に会いに行く」


 レンジは顔を上げ、高くそびえ建つ宮殿を見つめた。あれに向かって行けばいずれたどり着けるだろうと、レンジは思っていた。


「前を見よ! レンジ!」


 レンジはすぐに視線を前方に戻すと、顔を赤く張らせた入れ墨男がキョロキョロしている姿が見えた。すぐにレンジは、露店の中を横切って、隣の道に出た。それでも宮殿の方角へと向かっていく。しかし、正面にまた男たちの仲間の一人が立っていた。


 レンジはサッと人影に入り、そっと横目で前方を確認し、後方にも目を移す。後ろからは傷の男がじわじわ迫ってきていた。


「どうして俺の行く方向がわかるんだ、あいつら。透視の目でも埋め込んでいるのか? これなら、EDENのオーバーホールに金を使うじゃなかったな。潜入用に光学迷彩のローブを買っておくんだったな」


 レンジは、オーに聞こえるか聞こえないくらいの小声で言うと、また露店を突っ切ってさらに一本奥の通りに出た。男たちの姿はなく、一目散に宮殿方向に走り出した。


「うわっ!」


 レンジの視界が突然一回転して、転げ倒れた。レンジは誰かに足を引っ掛けられたのだ。


「誰だ」


 レンジは周囲の人間たちに睨みを利かすと、露店商の浅黒い男が一人ニヤついていた。立ち上がってそいつに食ってかかろうとした瞬間、一発の発砲音が聞こえた。


 身をかがめたレンジの足元でさらに、ボフッと破裂音がすると白い煙が立ち昇り、辺り一面を包み込んだ。


「グォッ!」


 レンジとオーは、その煙を勢いよく吸ってしまった。それは、この星特有のあの腐敗臭で、レンジとオーの鼻を突き抜け、脳を麻痺させるような強烈な匂いだった。レンジは全身が痺れたように力が抜け、その場に倒れてしまった。


 ゾロゾロと肩幅のある男たちに周囲を取り囲まれ、レンジはさっき男たちと一悶着あった時に、EDENに位置追跡用のウィルスを仕込まれたのかと思った。悔しくなって拳を握ろうとしたが力が入らない。


「なぜ……俺の……居場所が……わか……た」


 もともと顔に傷のあった男が、片方の眉を上げて首をかしげた。


「あぁ? 何言ってんだ、ガキが。体が小さくて身のこなしがいいからって、そんな赤いマントじゃバレバレだ。まだまだ自分自身のことがわかっていないようだな」


「クッ……」


 それでも俺はこれを脱ぐつもりはないと、レンジは赤いマントを握り締める。次第に薄らいでいく腐敗臭とともに体に力が入るようになってきた。そして、なんとしてでもここを突破しようとゆっくり起き上がろうとするレンジ。


「ほら、立ちたきゃ、立たせてやるよ」


 男はレンジの胸ぐらをつかんで引き上げると、レンジの足は地に着かないほど高く持ち上げられてしまった。


「おっと、高すぎたか」


 男はニヤリと笑って、胸ぐらからパッと手を放した。レンジの顔が男の胸元まで落ちてくると、豪腕から繰り出される拳がレンジの顔を振り抜いた。レンジは、声も上げられないまま、へたれ込むオーの上に叩きつけられた。


「グ……グゾ……オー。アレを……こいつらに……」


「ダ、ダメじゃ。ここでは危険すぎる」


「オイオイ、また猫に助けを請うのか、チビ」


 今度は、入れ墨男がまたレンジを無理矢理立たせて、腹に蹴りを食らわせた。弾き飛んだレンジは背後の男にキャッチされ、無抵抗のまま拳を食らい、たらいまわしにされるように囲まれた男たちに次々と殴られていった。


 ヨボつきながら立ち上がろうとしているオーの首を鷲掴みにして持ち上げた入れ墨男。


「この俺様に傷をつけたこの猫は、星の一部として王に差し出してやる」


「あなたたち。これは何の騒ぎですか?」

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