XII 開戦前
自分が特異な人生を歩んだとは思っていない。
求められるままに軍に入り、望まれるままに今の仕事に就いている 。
思えば、自分の意思で行動したことが少なかった気がする。
常に冷静に、そして従順に。
そんな自分を周囲は優秀と褒めそやしたが、特にそれを名誉とも思ったことはない。ただ彼は、自分が当たり前だと思うことに流されているだけだ。
しかし、それで良かった。
流されるのは楽で、従えば傷付くことが無い。周りとも上手く付き合うことが出来るし、自分のしたことに正当な理由が付けられる。
臆病者と言われればそれまでだが、反論するつもりはない。元よりやりたいことなど何も無かったのだから、せめて無難に生きていたいと願うのは当然だろう。
それが彼──レオンハルト・ヴァルフレアの人生の全てだった。
そしてそれは、些細な思いつきから崩れつつある。
「──」
ぱちり、と何かが切り替わる音がした気がして、レオンハルトは目を覚ました。
「……っ……」
上体を起こすと、途端に酷い吐き気に襲われる。目が眩み、意識が揺らめくような錯覚に陥るが、左肩の鈍く響く痛みが気絶を許さない。
レオンハルトは自分の身体を見下ろす。裸の上半身と、左肩を覆って巻かれている包帯を見て、漸く此処に至るまでの経緯を思い出す。
傍らの窓から、月の光が差し込んでいた。
もう夜か、とぼんやりと思う。
「五月蝿い」
しかし、突如響いた冷ややかな声が、レオンハルトの思考を寸分の狂いも無く切り裂いた。
レオンハルトは勢いよくそちらを振り向く。すると、ティナが椅子に座って表情も無くレオンハルトを見つめていた。
「五月蝿いと言ったのだけど」
「まだ何も言っていないぞ!」
思わず怒鳴ると、途端に視界がぐらつく。ふらついた頭を右手で押さえ、小さく呻く。
咄嗟に反論した自分の浅ましさが恨めしい。が、流石に理不尽に罵られて黙ってはいたくない。
「魘されていたけれど、どんな夢を見ていたの?」
目を瞬かせたティナにレオンハルトは目を顰めた。
「夢なぞ見ていないぞ」
「貴方が覚えていないだけで、人は眠ると夢を見るものなのよ。何か悪夢でも見ていたのね」
占ってみようかと思っていたのだけど、とティナはレオンハルトを心配する様子も無く淡々と喋る。
レオンハルトは溜息と共に頭を乱暴に掻いた。
「……まあいい。此処は何処だ?」
「教会の来客用寝室。ギムレット卿が貸してくれた」
ティナは緩りと部屋を見渡した。
「教会?」
「貴方が言ったのでしょう。ギムレット卿の教会なら一先ずは安心だ、と。それなのに、此処の戸を叩く直前に貴方が意識を失ったから大変だった」
レオンハルトはティナを脱獄させると決めた時から、ギムレットに頼ることを決めていた。迷惑をかけることは重々承知していたが、彼の性格なら助けてくれると計算してのことだ。
そのことはティナにも話していたが、自分が倒れたことは覚えていない。だが言われてみれば、確かにレオンハルトはギムレットに会っていない。
「気分はどう?」
ティナが尋ねる。レオンハルトはじっと見つめてくる琥珀色の瞳から目を逸らした。
「別に。普通だ」
「そう」
無感動な声と共に、目を逸らした方向から微かな物音が聞こえてくる。
ティナは寝台に腰掛け、レオンハルトの目を覗き込むように見上げた。
「……何だ」
見つめられると気まずい。思わず渋面で訊いたレオンハルトの左肩に、ティナは指先でそっと触れた。
「動くと傷口が開くわよ」
思わず身じろいだレオンハルトにそう放つと、ティナは包帯越しの肩に額を寄せる。
「……お前、何を」
非難するように、レオンハルトの声が尖る。
ここまで近付かれると、反応に困る。幾ら相手が胡乱で無機物的な占い師でも、女であることに変わりはないのだ。
「
囁く吐息の熱が、包帯越しの肌に伝う。
普段の冷えた声音ではない。優しく柔らかい口調に、突き放そうとした意思を挫かれてしまった。
「咒など、俺は信じないが」
「勝手にしなさい。私は信じている」
包帯越しに感じる手の冷たさと、話す度に肌を掠める吐息の温もりの対比が心地好い。
突き放してしまいたいが、そうしたくないとも思う。行き場のない右手をさ迷わせながら、どうするべきかを考え続けていた。
「……何故、私を助けたの」
唐突な質問に、レオンハルトは目を瞬かせる。
「何だ、いきなり」
「貴方、後で説明すると言ったでしょう。此処で質問に答えてもらうわ」
そういえばそんなことを言った気がする。今更ながら自分の言葉を後悔したレオンハルトだが、言ってしまったものは仕方が無い。
寄り添うティナの体温に未だ落ち着かない気分を抱えながら、レオンハルトは溜息と共に話し始める。
「エリルが、お前が欠けるのは嫌なんだそうだ。帰って来た時に、お前を入れて四人で飲みたいらしい」
「帰って来た時?」
「ああ。テオと一緒に前線に出ることになった」
ティナの肩がぴくりと震えた。レオンハルトは構わず続ける。
「カルディアの侵攻を食い止める為だ。二人共自分で決めて志願兵に立候補した。文句は言えないだろう」
「貴方は?」
「俺は一応分隊長だからな。首都警備隊の分隊長と司令官は万一に備えて首都を離れるのは許されていない」
「でも、結局は離れているじゃない」
呆れ気味に溜息を漏らすティナに、そうだな、と頷く。
「別に私は助けて欲しいなんて思っていなかった」
「お前がそうでも、俺は違う」
「違うって、何が」
ティナは無表情でレオンハルトを見上げる。
「エリルがそう言ったからそうした。違うかしら。貴方は所詮そんな人間。他人に言われなければ何もしない。やりたいことも誇りも無い。ただ流されているだけ。そんな人間に助けられた所で、屈辱にしかなり得ない」
淡々とした口調に、レオンハルトはぴくりと眉根を寄せた。
「お前が俺の何を知っている」
「そのくらい、貴方を見ていれば解る」
ティナの声が、僅かだが険を帯びて尖る。
「前に貴方に訊いたのを覚えている?オースディン中尉が死んだ時、貴方はどうしたいの、と。貴方は『カルディアが攻めて来るなら守るだけだ』と言ったわね」
「軍人として街を守るのは当たり前だろう。それの何が──」
「その『当たり前』が通じなければどうする気なの」
悪い、と続けようとしたレオンハルトの言葉は、語気を強めたティナに遮られる。
「現に貴方は、その守るべき街に背を向けて軍が拘束していた人間を連れ出している。自分で自分の『当たり前』を壊して、あまつさえその理由は『友達に言われたから』?馬鹿でしょう、貴方。世界を嘗めているのか、それとも誇りを持たないのかは解らないけれど、そんな中途半端な理由で人を振り回さないで」
「違う」
思わずレオンハルトはティナの両肩を掴んだ。
ビクリとティナの身体が震える。困惑したように見上げてくる琥珀色の瞳を、レオンハルトは真っ直ぐに見つめた。
「確かに、エリルの話を聞いて決断したのは事実だ。だがこれは、俺が自分で決めて出した答えでもある」
何を言っても言い訳にしか聞こえないだろう。頭では解っていても、レオンハルトは言葉を止められなかった。
「お前がカルディアの間諜である可能性も捨て切れてはいない。エルミアのことも気になる。お前には訊きたいことが山程あるんだ。軍部に拘束されたら、俺が何も訊けないだろう。それに──」
出来ればこの先は喋りたくない。だが、何故だか伝えておかなければならない気がして、自然に言葉に出していた。
「お前の笑顔を、見たいと思った」
どうすれば良いのか解らなかった。今も解っていない。元より、主体的に行動することを半分放棄するような形で生きてきた身だ。軍人として、与えられた役目に従って生きていくことを望んでいた。
それでも、ティナに語った言葉は嘘ではない。訊きたいことが多いと言ったことも──ティナの笑顔を、美しいと思ったことも。
冤罪だ何だと綺麗事を口にするつもりは無い。ただ、彼女の笑顔をもう一度見たいと思ってしまっただけだ。それが四人で囲む酒の席ならば尚良いと思う。
「──あ……」
本気で驚いたようで、ティナは目を大きく見開いて固まっている。が、やがてふいと目を逸らし、ぽつりと呟いた。
「……服を、着なさい」
そこで漸く、レオンハルトは自分の現在の姿を思い出す。
「……わ、悪い!」
慌てて手を離すと、ティナは僅かに頬を朱に染めてレオンハルトを睨みつけた。
「この助平男」
「誰が助平だ」
心外である。
「話は済みましたか?御二方」
微かな音がして、ギムレットが開いた扉の隙間から目を覗かせていた。
「なっ……ギムレットさん!?」
思わぬ闖入者にレオンハルトは面食らう。思わず身を引くと、ギムレットはにこやかに笑いながら部屋に足を踏み入れた。
「何を驚いているんですか、レオンハルト君。此処は私の教会です。私が居るのは当然でしょう?」
先程までティナが座っていた椅子に腰掛け、ギムレットは柔和に笑う。心做しか、少しやつれて見えた。
「レオンハルト君?もしや、傷が痛むのですか?」
「え、あ、いえ、大丈夫です」
心配そうな表情のギムレットに、レオンハルトは慌てて返す。
「すみません、押し掛けて」
軽く頭を下げると「良いのですよ」とギムレットはやんわりと手で制した。
「若い人に頼って貰えるのは年配として誇らしいです。エリルも今はいませんし、賑やかになって寧ろ嬉しい限りですよ。勿論、そうも言っていられない状況なのは承知していますが……」
ギムレットはティナに目を向けた。
「話は彼女から聞いています。数日なら匿うことが出来ますが、外れとは言え、此処もアリエスの管轄です。何時までも誤魔化すことは出来ませんよ」
ギムレットの声は静かで、子供を諭すように理知的だった。瞳に責めるような厳しさは無い。だが、どこか息が詰まりそうな気迫を感じる。
「貴方の考えていることは解ります。君の気持ちは、ある意味人として正しいものだ。それでも、君はこの有事に分隊長としての責務を放棄している。解っていますね」
「覚悟は出来ています」
硬い声で問うたギムレットを、レオンハルトは真っ直ぐに見つめた。
それを見て、ギムレットはふっと目を細める。
「それなら良かった。出来ることは協力します。元より、ヴェルザードを困らせるのが現役時代の私の趣味でしたから」
先刻までの厳格な空気は霧散し、ギムレットは打って変わって悪童めいた光を宿して微笑む。
「大変ね、貴方の上官」
ティナが淡々とレオンハルトに呟いた。
レオンハルトとしては己の上官の困惑する姿を想像出来ず、笑うこともままならずに無表情を作ることしか出来ない。
「それより」
レオンハルトは強引に話を切り替えた。正直、ヴェルザードを困らせる算段を建てられているこの状況は耐えられない。
「今度は俺が質問する番だぞ、占い師。お前が知っていることを喋って貰おうか」
ティナに目を向けると、ギムレットも「そうですね」と頷いた。
「エルミアのことについて教えて下さい」
ギムレットの声は真剣そのものだった。ティナは無表情を取り戻し、ギムレットをちらりと見て息を吐いた。
「彼女は大切にされていたのね」
囁くような声は、流れた静寂に溶ける。
そして、静かに話し始めた。
「彼女と出会ったのはこの大陸の中心、レムルス共和国。カルディア王国で船を降りて、レムルス共和国で買い物をしてからアルスタニアに行こうと思っていた矢先だった」
もう戻らない過去に思いを馳せるように、ティナは瞳を伏せる。
「オースディン中尉と出会ったのは、貴方達が言うところの『偶然』だった。レムルス共和国の首都で出国許可を取ろうと役所に行った時に、アルスタニア帝国の軍服を着た彼女に話しかけられた。お前、何処に行くんだ、とね。アルスタニアの首都に行くと言ったら、彼女も同じだと言っていたから一緒に馬車に乗せて貰ったのよ。単独任務の帰りで、一人で馬車を雇うのは寂しいし、二人で乗った方が安く済むから、と言っていたわ」
「あいつらしいな」
エリルと同じく、単純な一面のある女だった。彼女が死んで一月も経っていないのに、何処か懐かしくなる。
「馬車の中で、私が占い師だと言うと言われたわ。『占いなんてただの迷信だ』とね。軍人の彼女がそう考えるのも無理は無いと思ったのだけど、何故か彼女は自分のこれからを占って欲しいといったのよ。自分がこれからどうなるのか見て欲しい、なんて言っていた」
占いを嫌う彼女が、占術に頼った。
ティナは氷のような無表情のまま、淡々と当時を振り返る。
「
「『死』、ですか」
重々しいギムレットの言葉に、ティナは頷く。
「結果を告げた時、彼女はいやに落ち着いた顔をしていたわ。普通、死を宣告されて冷静でいられる人間なんて居ない。通常は否定するか、怒るか、恐れるかの何れかの反応を取る。けれど彼女は『そうか』と呟いただけだった」
迷信を嫌うエルミアが、占術に頼った上にその結果を受け入れた。
矛盾している。
しかしレオンハルトには、そこから最も直視し難い事実が透けて見えるような気がしてならなかった。
「……エルミアは、自分の死を予感していたのでしょうか」
「今思うと、そうなのかもしれない」
ギムレットは沈痛な面持ちで拳を握った。
「……その時彼女が何を思っていたかは解らないけれど、私が知っているのは、これだけよ」
ティナは溜息と共に締め括る。
再び、三人の間に重い沈黙が流れた。
「……ギムレットさん、エルミアが何を知っていたのか、確かめる方法はありませんか」
レオンハルトは耐え切れずに口を開く。
「エルミアが、俺達が知らなかった何かを知っていたことは間違い無い。もしかすると、収穫祭以前から……」
楽しそうに笑っていたエルミアを思い出す。その時から既に己の死と戦争を見据えていたのだと考えると、遣り切れない。
「諜報部に問い合わせる他無いでしょう。もっとも、教えて貰えるかは解りませんが……」
ギムレットは考え込むように顎に指を添える。レオンハルトは「クソッ」と悪態をついた。
何かが見え始めている。それなのに、その『何か』が解らない。
言いようのない不安と焦燥が胸に広がる。不可視の圧力に潰されそうになる。
「──カーテンを閉めて下さい、レオンハルト君」
その時、ギムレットが早口に囁いた。
ただならぬ気配に、レオンハルトは言われた通りにカーテンを引く。ギムレットの顔からは普段の柔和な笑みが消え、歴戦の名将を思わせる厳しさを湛えて二人を見下ろしていた。
「黒い服を着た集団がこちらに向かって来ています。帝国軍ではありません。念の為、二人は隠れていて下さい」
「黒い服……まさか、サラスディンか?」
収穫祭で自分を襲った男は黒いフードを被っていたのを思い出す。レオンハルトが言うと、ギムレットは「恐らく」と頷いた。
「少なくとも十人は居ました。……レオンハルト君、いざとなったらティナさんを連れて逃げなさい。私の現役時代の軍服を貸します。首都の外に出れば、暫くは安全な筈です」
ギムレットは箪笥を開け、中に入っていたアルスタニア帝国軍の軍装一式をレオンハルトに差し出す。
「ギムレットさんは?」
レオンハルトは寝台を降り、手早く身につけながら訊く。
「私は彼等と話をします。もしかすると、ただ単に……」
ギムレットが何かを言う前に、教会を揺らす轟音が響き渡る。
「恐らく礼拝堂ですね。全く、修理にはそれなりの費用がかかると言うのに……」
とほほ、と嘆きながら、ギムレットは棚の中からレオンハルトの愛用している両刃剣とナイフを取り出して手渡す。更にその奥から、黒塗りの拳銃を取り出した。
「今外から出るのは危険ですね。すみません、レオンハルト君、ティナさん。君達を先に逃がすことは出来なさそうだ」
弾倉を開いて弾を確認しながら詫びるギムレットに、レオンハルトは首を横に振った。
「元より貴方一人を残すつもりはありません」
腰のベルトに剣を取り付け、ナイフを軍服の内側に隠しながら毅然とギムレットを見つめる。
「……ありがとうございます」
ギムレットは苦笑と共に、銃を僧衣の内側に隠す。
「ティナさんは此処にいて下さい。我々が戻るまで、動かないように」
ティナはこの事態に動じることもなく静かに頷いた。
それを見て、レオンハルトとギムレットは部屋の扉を開いて駆け出した。
レオンハルトとギムレットが駆け出して行った後の部屋で、一人残されたティナはそっと自分の肩を撫でた。
「……嘘よ」
僅かに震えた声が、沈黙に溶ける。
レオンハルトに掴まれた肩が、微かに熱を持っている事実が疎ましかった。
部屋を出て、真っ直ぐな廊下の突き当たりにある下り階段を駆け下りるとすぐに礼拝堂に続く扉に辿り着く。
扉に耳を押し当てると、厚い木製の扉越しに何かを壊すような音が聞こえた。
「強盗でしょうか……」
ギムレットが呟く。彼の左手には、白い球体が握られていた。
「私の合図で飛び出して下さい。良いですね」
レオンハルトは頷く。レオンハルトが剣を抜いて下がったのを見て、ギムレットは把手に手を掛けた。
勢い良く開くと同時に、白い発煙弾が投げ入れられる。
「レオンハルト君!」
レオンハルトは床を蹴る。
瞬間、本来静かな筈の礼拝堂が怒号に包まれる。手近な一人の喉を刺し貫き、血を払いながらレオンハルトは疾走する──。
三日月が嘲笑うように輝く夜、エリル・オースディンはアルタイルの街にある診療所の扉を押し開いた。
途端に、噎せ返るような血と消毒液の臭いが押し寄せてくる。
「こんな、ことって……」
エリルは拳を握る。
見渡す限り寝台が並べられたそこは、傷ついた兵士達で溢れ返っていた。寝台の数が足りず、比較的軽傷の者は床に座り込んで夜明けをじっと待っている。中には、重症を負っていながら包帯を巻き付けられて床に転がされている者もいた。
「もう彼は助からないですからね。せめて、遺体の形だけでも整えてあげないと」
エリルの隣に立った女性衛生兵が口を開いた。
「そんな言い方って……」
「寝台の数が足りません。殉職者を弔うより、生きる可能性のある者を生かすのが先決です」
書類を眺め、鋭い瞳の彼女は淡々とエリルに声だけを向ける。
「解ったら手伝って下さい、オースディン曹長。人手も足りていませんから」
冷えた声音で命じられ、エリルは唇を噛んで彼女の後を追いかけた。
昼に出発し、数少ない帝国軍のジープを飛ばして辿り着いたアルタイルの街は、既に戦場跡と化していた。
早朝、既にアルタイルはカルディア王国軍に襲撃されていたのだ。
カルディア軍の攻撃は凄まじく、アルスタニア帝国軍の決死の抵抗により退けることは出来たものの、すぐに第二陣が来てもおかしくは無い状況に置かれていると聞いている。
「包帯、取り替えますね」
兵士の一人に声を掛けると、彼は薄らと目を開いた。
「ああ、エリルちゃんじゃねえか。何だ、志願してきたのかい?」
エリルはその姿に見覚えがあった。左腕から胸にかけて血の滲んだ包帯を巻き、寝台に横たわる彼はエルミアの教育係だった男だ。
「はい。……お久しぶりです」
「見ない内にまた綺麗になったじゃねえか、はは……」
満身創痍の彼は目元を緩めて笑う。エリルはそんな彼の身体を起こすと、丁寧に包帯を解いていく。
鍛えられた胸筋を斜めに走る傷口を目にして、エリルは痛ましさに眉根を寄せた。
「そんな顔すんなって、美人が台無しだぜ」
おどけたように言う彼に、エリルは新しい包帯を取り出して反論する。
「だって」
「だってじゃねえよ、女の子の笑顔ってのは癒されるからなあ」
へらへらと笑う彼の表情が余計に苦しくて、エリルは「そうですか」と無理に微笑んで見せる。
「……死ぬなよ、エリルちゃん」
呟かれたその言葉に、エリルは答えることが出来なかった。
明らかな民家の残骸が眼下に広がり、焼けた木々と血肉の臭いが鼻につく。
テオは、街で最も高い位置にある時計台の鐘の下でじっと街を見下ろしていた。
テオはアンタレスの街を訪れたことは無い。それでも美しい街だったのだろうと予測できた。
焼け焦げ倒された木々が立ち並び、華美では無いが美しい色合いの建材が血飛沫に彩られて転がっている。淡い色の残骸を眺められるこの時計台だけが、かつての姿のまま静かに時を刻んでいた。
テオは静かに街を眺める。捲れ上がった石畳は白兵戦に邪魔だな、と何となく思う。
ふと視線を遠くに向けると、デネヴの街の方角で青い服を着た集団が見て取れた。すぐに双眼鏡を手に取り覗き込むと、その集団の戦闘を歩く男の顔が確認できた。
淡い白金色の髪に、緑の目を持つ美しい青年だ。群青色の軍服に身を包み、銀の槍を右手に携えた彼を先頭に、彼等は確実にこちらに近付いて来ている。
「──来やがったか」
テオは指笛を二度切って鳴らした。敵襲の合図であるその音が、夜空に高々と響く。
途端に喧騒に包まれる街を見ること無く、テオは階段を一段飛ばしで駆け下りた。
敵襲の報せを受けて、診療所を飛び出したエリルはすぐに愛用のライフル銃を肩に掛け、腰に弾倉ベルトを巻いて予め決めていた持ち場へと走っていた。
「あ、エリル先輩!」
狙撃手が配置されているのは、街の入口にほど近い民家の上だ。入口である程度人数を減らす作戦らしい。古典的だが、理には適っている。
「ごめん、遅れて!敵は?」
梯子を使って屋根に登り、先に登っていた相方の少年に訊く。少年は双眼鏡をエリルに手渡した。
「遠くに青い軍服の集団が見えます。多分、先頭がカイン将軍かと……」
双眼鏡を覗き込むと、槍を携えた白金色の髪の美丈夫が先頭に映る。
エリルは唇を噛んで銃を構えた。三角屋根の煙突に脚を掛け、頂点から身を乗り出すようにして地面に銃口を向ける。肩と頬とでストックを支え、照準器を覗き込んで曇りが無いか最後の確認を行う。すぐに、続々と遊撃隊が集結している様子が映り込んだ。
「いけるよ」
エリルは少年に目配せする。少年はにっこりと笑って頷いた。エリルよりも二つ年下の後輩であり、まだ軍学校に通う彼も志願兵の一人だ。
エリルは心の中で、少年に詫びる。
彼は自分の計画を知らない。この計画は、これから生死を共にする相方どころか、テオやレオンハルトにすら言っていない。
言える筈が無かった。
「ごめんなさい……」
小さな懺悔は、軍靴の足音に掻き消された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます