Ⅵ-1 かつての記憶

 リビングに戻ったウィリアムがソファに並ぶ二人の男たちへ語ったのは一人の男の話であった。

「その男に会ったのは二十年以上前の夏の事だ。丁度、今時期だったな」

 そう口を開いたウィリアムが紡ぐ物語は、彼が日本で過ごした短くも暑い夏の話であった。

 

 当時は隊長という肩書きも持たない一介の特別機動隊員であったウィリアムが日本支部を訪れたのは、概念外生物の連続暴走事件が日本支部で起こった為であった。当時本部と日本支部はまだ協力体制を若干ながらも残しており、彼はその一環で日本支部に協力要員として送られて居た。その理由は単に特別機動隊員であった事と、彼の親類が日本支部に勤めていたというだけのものであった。協力要員として日本支部へと送られた特別機動隊員の一人として日本に降り立ったウィリアムが其処で出逢ったのは、彼よりも若干歳上であろう一人の男であった。

「局員ではないんですけどね、貴方と同じ協力者みたいなものです」

 そう言って笑みを浮かべた男は翠川春臣と名乗った。彼は、その名に相応しい春の陽気を感じるような穏やかな笑みがよく似合う男であった。彼は元々概念外生物と言うよりも民俗学の研究者であったようで、支部内では先生と呼ばれていた存在であった。どこかの大学で教授の肩書きを得ていたらしい。国内外を忙しく飛び回る彼が呼ばれたのも、ウィリアムと同じ理由であったらしい。その中で、日本支部の局員や彼と同じ本部からの協力要員達よりも翠川とウィリアムが親しくなったのは、ひとえに翠川が日本支部の資料室に籍を置く彼の親類と親しかったからである。そうしてウィリアムは翠川とコンビを組むように、二人でその暴走事件の真相を追うべくその事件の捜査に当たっていた。そうして、その日は突然やってきた。

「久々に家に帰れるんだ」

 楽しそうに笑みを浮かべた翠川は、ウィリアムにそう告げて一枚の写真を彼に見せる。そこには楽しそうに笑みを浮かべる翠川とその妻であろう女性、そして満面の笑みを浮かべる少年と女性の腕に抱かれる赤子が写されていた。「娘が産まれてね。これは産まれた時に撮った写真なんだけど、ちゃんと彼女と会うのは今日がはじめてなんだ」

 折角だからウィリアムも後で逢いに来るといいよと笑いながら重ねた翠川に頷いたウィリアムは、翠川に渡されたその家の住所が書かれたメモを手にして翠川を見送った。その惨劇が起きたのはそれから数時間も経ってはいない頃の事であった。

 彼に渡されたメモを手に、夏の日差しを受け住宅街を歩いていたウィリアムが突如嫌な予感に襲われその家へ駆け込んだ時には、その家の中では赤子の泣き声が響き渡っていた。ウィリアムが駆け込んだ家の中には倒れている二人の影と、そのフローリングの床に土足で立つ一人の男、そして見たこともない奇妙なイキモノが蠢いていた。瞬時に懐の中に仕舞われていた拳銃を取り出し、この家の中の異物であろう男へと銃を向けたウィリアムはその引き金を引く。それと同時に、男も同様にその手にしていた銃をウィリアムに向けて引き金を引いた。二つの破裂音がほぼ同時に響く。男は靄のように姿を消し、男の放った銃弾を腕に受けたウィリアムがその体勢を崩す。重い金属が落ちる音は甲高い赤子の泣き声に掻き消された。

「先生!」

 ご多聞にもれず、彼も日本支部の職員と同じように呼んでいた翠川に声を投げたウィリアムは、すでに虫の息となっていた翠川に駆け寄る。翠川はウィリアムの姿を認めれば、赤子の泣き声に掻き消されそうな小さな声で彼へと言葉を告げようと口を開いた。

「息子を、娘を。日本支部から隠してくれ」

 か細く、しかしはっきりとそう告げた翠川は「日記を、見てくれれば」と絞り出した声を最後にその身体から全ての力を消し去った。くたり、とウィリアムの腕の中で息絶えた翠川を静かにその床の上へと横たえさせたウィリアムは、奇妙なイキモノと対峙する。血を流す右腕を押さえ付けながらも、床に落ちた拳銃を手に取ろうと伸ばした手は、その金属に触れる事はなかった。数時間前に印画紙の中で見たものと同じ姿をした少年が、その空間に現れたからだ。その光景に身を固めた少年は、次の瞬間飛びつくようにその重たい金属を手に取り、小さなその手で二度引鉄を引いたのだ。

 

「それが、翠川先生の息子だった。ルイだよ」

 ソファに座る二人の男に口を挟ませる余裕も作らずに、彼はその夏の出来事を語り、静かにそう締めくくった。「そこからは簡単だ。先生の日記を回収して、ルイとルカを保護し、その家に火を放つ。彼らは本部には連れて行かずに七生ーー私の親類で、先生とも親しかった男の家に預けた。日本支部には子供は行方不明と言ってな」その後の顛末を告げたウィリアムに白雪が頷き、アレクサンドルは「そんなことが」と、困惑したように声を上げる。そんな二人の姿に小さく頷いたウィリアムは「日記は七生に預け、二人をこちらに連れてきたのは私の判断だったが、その後日本支部は本部の協力を絶つようになってな。結果的に今まで上手く二人を隠せたという訳だ」と静かに告げ、アレクサンドルは「でも、何でそこまでする理由が?」と首を傾げる。

「日本支部には密かに祀られた『御本尊』と呼ばれる女性が居るんだが、彼女はルイとルカの祖母だ」

 最後のパズルのピースを嵌めるように告げたウィリアムの言葉に、白雪は叫ぶように声を上げる。

「まさか、センパイをその依り代にしようとでも!?」

 白雪の隣に腰を下ろしていたアレクサンドルは、信じられないとでも言うかのようにその視線をウィリアムへと向ける。「祓魔師協会の望みは変わる事なくその組織の再興だ。その望みを果たす為であれば手段は問わないだろうよ」溜息に似た、独り言のようなウィリアムの言葉に「何で、ルイばっかり」とアレクサンドルが吐き棄てるように小さく呟く。それに答えたのは、彼の隣に座っていた白雪であった。

「それは、センパイが氷川の人間だったからですよ」

 白雪の言葉は静寂が支配するリビングの中に凛とした響きで紡がれる。「全部、センパイの家から始まったんです」白雪以外誰も口を開かなかった部屋の中で静かに響いた事実だけを告げる彼のまっすぐな声に、アレクサンドルは何を返す事も出来なかった。

 

 

 チャールズが再びその瞼を上げた頃、彼の眠る部屋は闇の中にあった。窓の外は夜の闇に包まれ、遠くでは星が煌めいていた。か細くなっていたルイとの繋がりを必死で辿って彼へと言葉を伝えたチャールズが泥に沈むかのような眠りから目覚めたのは、ルイとの邂逅を果たしてから数時間を経た頃であったのだ。やるべき勤めだけは、果たせた。と彼は暗闇のなかで天井を見つめる。意識も、思考もクリアであった。しかし、彼の身体は得体の知れないざわつきを感じていた。ルイが日本へ向かってから今まで感じていたそれとは異なるその感覚は、どこか優しげで、しかし冷たいものであった。半身が攫われそうなその感覚に、思わずその身を掻き抱いたチャールズを照らすかのように部屋の灯りが点けられ、ひとりの男から彼へと声が投げかけられる。

「ノックはしたんだけどーーどうしたんだい?」

 遠慮がちにドアを開いて声を投げたのは心配の色に満ち、困ったように笑みを浮かべるアレクサンドルであった。「真っ青じゃないか!」その後ろからは白雪が慌てたように身を乗り出しながら声を上げる。そんな二人の男に「大丈夫です、ルイさんには伝えるべき事は伝えました」と無理やりに口角を上げて声を返したチャールズに白雪は「それも大事だけど、君だって」と怒気を孕んだ声でアレクサンドルを押しのけ部屋の中へと足を踏み入れる。白雪の言葉に思わず首を傾げてしまったチャールズへ「白雪は自分の事を大事にしろって言いたいんだよ」とアレクサンドルが少しだけ困ったような笑みを浮かべて白雪に続いてチャールズが横たわるベッドの横へと足を進めた。

「ウィリアムは?」

 もう一人居たはずの男の所在を訪ねたチャールズに答えたのはアレクサンドルだ。「仕事に戻るって僕らを置いて局に戻ったよ。隊長には君を任せられたから、何でも言って。そろそろ帰ってくる頃だとは思うけど」安心させるように柔らかな笑みでそう告げた彼の言葉に「ありがとうございます」と返したチャールズは、静かに窓の外の夕陽を見つめる。

「ルイさんは、何かに呼ばれてるんでしょうか」

 横に立つ二人へ視線を合わせる事もなく、窓の外、暗闇の向こうにある遠い地を見つめるかのようにぼんやりと外を見つめるチャールズは、ぽつりと呟くような小さな声を漏らす。その言葉は問いかけの形で彼の口から溢れでたものであったが、それは二人へ宛てた言葉ではなかった。独り言のような彼の言葉に言葉を返したのはアレクサンドルであった。「チャールズにも話しておいた方がいいんだろうね」ベッドサイドに置かれた椅子に腰を下ろしたアレクサンドルは小さな笑みを浮かべなが優しげな声色で言葉を紡ぐ。白雪もベッドから少し離れた机の前に置かれた椅子に腰を下ろして二人の姿を見つめながら「隊長は「言うな」とは言ってませんでしたし」とアレクサンドルの言葉に同意した。

「僕が寝ている間に、何か起こったんですか」

 その身をベッドから起こしながらも不安げな色を隠す事が出来なかったチャールズの問いに「隊長の昔話だよ。ルイの、そしてその家族の話だ」と彼のプラチナブロンドを撫でながら告げたアレクサンドルはその物語をチャールズへと語る。「ルイ自身も知らないんだろうけど」と。

 

 アレクサンドルが紡ぐその物語を聴かされたチャールズはその全てを納得したように小さく頷く。「じゃぁ、僕がさっき感じたのは、きっとその『彼女』がルイさんを呼んだんだ」小さな声で呟いたチャールズの言葉に「僕らはもう、信じるしかないんだろうね」とアレクサンドルは悔しげに彼へと声を返す。

「上は、ずっとこれを探してたんでしょうね。日本支部から失われていた最後のピースってとこですか」

 全てを諦めに放り投げたような投げやりな白雪の言葉に「信じる事しか出来ないのは歯痒いです」とチャールズもその金色の瞳を伏せ、言葉を漏らす。「でも、信じたい。ルイさんが帰って来る事を」

 そう告げながら白雪へと投げたチャールズの瞳には諦めの色は無かった。その強い視線を投げられた白雪は、戸惑うようにその視線を揺らし、小さく「そうだな」と呟いた。しかし、その瞬間、チャールズはベッドに沈み込むかのように崩れ落ちる。「チャールズ!」咄嗟に声を上げたのは隣に居たアレクサンドルであった。白雪は、その光景に戸惑いを隠す事が出来ずに声も出せずにベッドに沈むチャールズを見つめて居た。

「消えてしまったーー行ってしまった」

 細く消えてしまいそうな程に小さな声でチャールズは震える身を己の腕で抱きしめる。アレクサンドルはチャールズの身体へと触れ、その生命反応を確かめようとする。「ルイさんが、」それだけを辛うじて口にしたチャールズは、再びその瞳を閉じ彼らの言葉に反応する事は無かった。

 

「何が起こったんですか、チャールズは大丈夫なんですか!?」

 静かな眠りへと落ちたチャールズを呆然と見つめていた白雪はアレクサンドルへと叫ぶような声を上げる。「大丈夫かどうかはわからない」アレクサンドルは静かに白雪へと言葉を返す。「でも、ジルの術が全て消えて、チャールズがもう一度死ぬなんて事が起こったら、この身体のままでは無いはずだ。人型が保てているのなら、まだチャールズは生きてる」白雪を宥めるように冷静を保ちながら静かに言葉を重ねたアレクサンドルは、「でも、ルイが心配だな」とその表情を曇らせる。

「消えてしまった、行ってしまったーーどういう事だと思う?」

 チャールズが崩れ落ちながらもそう呟いた言葉の意味をアレクサンドルは白雪へと問う。「そんな事、俺に聞かれたって……」困り果てたように白雪は呻きながらも思考を言葉にしその答えを導くべく思考を巡らす。「でも、死んだ、ではなくて消えた、っていうのは……まさか」その思考の果てに辿り着いた答えに白雪はその答えを打ち消すように頭を振る。

「やっぱり……取り込まれて、しまったのかな」

 アレクサンドルは諦念の色を含ませた声で呟く。眠り続ける青年を見つめる二人の男は口を開く事も出来ず、ただ沈黙だけが重苦しくその部屋に満ちる。遠くでは、別の世界の話のように車のエンジン音が小さく響いていた。

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