Ⅴ-4 彼女の思惑

 彼女は彼の存在を感知した瞬間、その柱の中で息を呑んだ。勿論、彼女の身体自体が生命活動を行っている訳ではない為にそれは彼女の思考の中で行われた行動であった。彼女に残されていたのは、かつて祓魔士協会と名が付けられていた頃から変わらない場所を見渡す目と、彼女が感知できる範囲を窺い知る事が出来る耳だけであった。彼女がその腕に抱く日本刀――氷雨の持つ水の力と、彼女自身が持つ木の属性が彼女に目と耳を与えていたのだ。彼女はそうやって七十余年もの間、自身の眠る石柱からその移ろいを眺め続けていた。

「来てしまった」

 その言葉を語る口を奪われている彼女の声はその空間に吹く風として、そしてその風が鳴らす木々の騒めきとして、その空間の空気を震わせる。彼女とその夫が作り出した空間の中へと入れる者は多くない。術士として力を持っていなければ二人が作り上げた現実世界とは乖離した空間に踏み込む事すら出来ない様にされていたのだ。彼女が人間として――氷川千歳として存在していた時代に四天王として名を馳せていた家に連なる術士の血を継ぐ者位しか足を踏み入れては来なかったのだ。先に彼女の元に足を踏み入れた青年の事は彼女も知っていた。彼女の封印を解こうとし、その封印に跳ね除けられた氷川を名乗る分家の青年であった。彼がこの空間に足を踏み入れた時には彼女自身「また来たのか」と嘲る余裕があった。しかし、その後足を踏み入れた見知らぬ男の姿を感知した彼女は、その姿に驚きを隠す事が出来なかったのだ。

 

「俺や、青一郎しょういちろうには解けないようにしておく」


 彼女が封印される前に、彼女の夫である睦月はそう告げていた。青一郎というのは彼女たちの一人息子であった。しかし、更にその子供や孫であればその封印を解くことが出来るようになるという予感はあった。千歳も睦月も青一郎であれば上手くやると信じていたのだ。祓魔師協会の末端に所属していた息子であれば、その身を上手く隠しその子供たちを守れると。氷川青一郎という人物が、翠川春臣すいかわはるおみと名を変え、老いる事を止めた外見を逆手に取り日本支部に入り込み、堂々と振る舞った事で日本支部からその正体を隠したことを彼女は知っている。しかし、彼女は知らなかった。翠川春臣が一人の女性を愛し、二人の子供に恵まれた事を。そして、二十年以上も前に翠川春臣とその妻が亡くなり、遺された子供たちがアメリカへと渡っていた事を。

 

 彼女は遂に出会ってしまった、彼女が孫と呼べる存在の片割れに。彼の姿は物言わぬ石柱となった彼女が叫び出したくなる程に懐かしいもので――三十代も半ばであろうその男の姿は、彼女の息子と夫の面影を残していたのだ。夫と息子も瓜二つかのようにそっくりであったが、これ程までに面影を残すものなのか。思わず彼女は彼へと伸ばせぬ手の代わりに彼が足を踏み入れた空間に風を吹かせる。男はその風を身に受け、ゆっくりと彼女の前へと足を進めていった。その紅い瞳は彼女のものにも、彼女の息子のものにもよく似ていた。

「もっと近くで顔を見せて」

 そう呟いた彼女の言葉の代わりに、優しげな風が男の身体を通り過ぎた。そこで彼女はハタ、と気付く。このまま男をこちらへ近づけさせれば、自身の封印が解けてしまう事に。彼女の隣に立つ青年がほくそ笑んでいる事に気付いた彼女は、意思も持たずに足を進めていた男に対し念じるように強い意志で駄目よ、と感情を破裂させた。彼女の感情に呼応するように一陣の風が木々を騒めかせる。その感情の発露による強風は、男を我に返らせるには十分であったらしい。眼鏡のレンズ越しにはっきりと敵意を浮かべた男は、青年に対峙するかのように声を上げていつでも反撃が出来るように青年に向けたままにぴしりとその身を構えるのだ。強い意志を持つ紅い瞳に彼女が満足気に一人頷いていれば、外では見知らぬ存在が彼女を守る結界に爪を立てていた。彼女の知る術とは構造自体が違うそれに、彼女はその意識を結界の外へと向ける。そこでは外国人であろう青年が、触れれる筈もない結界に触れようとしていた。何事か、と彼が喚く言葉を聴いてやろうと耳を澄ませても彼女には彼が話す言葉を理解することが出来なかった。しかしそれでも、その真っすぐな意思だけは汲み取る事だけは出来たのだ。意志の強そうな碧い瞳を持った青年はその視線を真っすぐに結界の先へと向け、傍から見れば虚空に向けてその拳を振るっていた。チクリ、とした感覚を覚えた彼女は青年がその拳に握りしめているものが万年筆である事に気付く。木で作った結界を、金属で打ち破ろうとしているというのか。日本の術士のものではないその奇妙な感覚に「仕方ない」と人知れず溜息を吐いた彼女は青年が再び渾身の力で結界を叩いた瞬間に、その結界を薄くしてやった。それでも破れなければ、その青年の力もそれまでだと考えたのだ。しかし、彼女の目論見通り青年はその拳で入口とは違う場所の結界を打ち破った。派手な爆発音を轟かせた彼は破裂音に怯んだ青年に視線を合わせることも無く、彼女の子孫であろう男に向けて叫ぶ。そんな彼の声に呼応するかのように男は飛ぶようにその身を翻し、結界の裂け目から外の世界へと飛び出していった。彼女はその裂け目を直すかのように風を吹かせ、木々を騒めかせる。獲物に逃げられた青年が地団駄を踏む様子を嘲りながら。

 

「そもそも、祓魔師協会の再興なんて時代遅れにも程があるでしょう」


 彼女が呟く侮蔑ぶべつの色を孕んだ言葉は誰かに届く事もなく、ただただ木々を騒めかせるのみであった。

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