トウキョー・ロスト・ストーリー
序章
「申し訳ない」
現実の喧騒など届かない現実とは隔絶されたその場所で、女はゆっくりとその言葉を口にした。その空間には彼女の他に、年老いた男が一人だけ立っていた。「何を言うかと思ったら」ぼそり、と厳しい顔で呟いた老人は「お前の所為ではない事を、謝る
「けれど、申し訳ないっていうのはあなたに対して」
「俺はお前に謝られる
二十の半ばであろう外見をした彼女はこの国の女性が揃って身に纏っていたもんぺや、彼女の前に立つ老人が纏う鶯茶色の国民服ではなく、ひと昔もふた昔も前の軍人が着用していたような黒い肋骨服をその身に纏っていた。その軍服が、 彼女が所属する組織で制定されている制服であったのだ。
「あなたを、置いていく事を。謝らせてよ」
彼女は一振の日本刀を握り、彼女の背後に聳え立つ透明な円柱に触れる。彼女の言葉に「それは、お前の所為ではない。この国が負けたからだ」と老人は感情を殺すように口元だけに弧を描いた。「それでも、私があなたを置いていく事には変わりない。きっと、もう二度と会う事は出来ないんだから」少しだけ悲しみの色が滲んだ彼女の笑みに「それでも俺は、いつの日かお前と逢えると信じてる」老人は遠い昔――まだ、互いに若かった時分によく浮かべていたような自信に満ちた笑みを彼女へと投げ、彼女の名を呼ぶ。
「千歳」
老人に名を呼ばれた彼女は「なぁに?」とその口元に勝気な笑みを浮かべ、小さく首を傾げてみせる。そんな彼女の姿に小さく笑みを浮かべた彼は「また逢おう」とはっきりと彼女へ告げた。
「睦月」
彼女はその言葉には答えず、口元に緩く笑みを浮かべたままに彼の名を呼ぶ。まっすぐに彼を見つめる彼女の紅い瞳はいつもよりも少しだけ潤んでいた。
「ありがとう、あなたと居れて楽しかった」
それが二人の最期に交わされた会話であった。彼女は彼に背を向けて透明な円柱へと足を踏み入れる。硬質な素材のように見えたその柱は、彼女を迎え入れるようにするり、と彼女の身体を通す。まるで幻影のようなその柱の中心に立った彼女は、柱の外から彼女を見つめる老人に小さく微笑んだ。老人がその柱へ手を当てても、彼女のように柱は彼を通さない。硬質な石の感触を手のひらで幾度か確かめた老人は小さな声でいくつかの言葉を口にする。そうして彼が上着のポケットから出した一枚の札を円柱へと叩きつければ彼女を取り込んだ透明な柱は青白い光を放ち、彼が立つ柱を中心にするように丸く広がった芝が青々しく整えられた空間には不意に風がそよぐ。その生きた年数を刻まれた皺の目立つ老人の頰を撫でるようにそよ風は彼を通り過ぎ、若い時分よりも少なくなった彼の髪を少しだけ揺らして消えていった。円形の空間を取り巻くように聳える木々の騒めきが消え、無音となった空間で彼は小さく口を開く。独り言のように呟かれた言葉を聴いていたのは、物言わぬ円柱の一部となった彼女だけであった。そうして老人は、彼女を取り込み自身がその力を封印した柱に背を向けた。
*
古くからある日本庭園を保存するように整備された公園を見下ろすことの出来る料亭に、その男達は集められていた。外は闇が迫り、見事な庭園を見る事は叶わなかったが、男達は景観を楽しむつもりなど全くといっていいほど無いようであった。黒いスーツを纏う男達の集まる中で、上座に座った老人だけが深い紺色の着物に身を包んでいた。
「理事長」
着物姿の男に彼の近くに座っていた初老に差し掛かった頃の男が声を掛ける。理事長と呼ばれた老人は鷹揚に頷き「時は来た」と声を上げる。
「七十余年、東方の一支局として甘んじていた我等がその力を取り戻す好機が、やっと訪れた」
続けられた老人の言葉に、周りの男達は静かに頷く。老人は言葉を紡ぎ続ける。「妖を祓う為に組織された我等が、その妖を保護だの管理だのとその理念に合わぬ仕事をするのもこれで終わりだ。概念外生物などという耳触りのいい言葉でこの国の妖に屈していたのもここまでにしなければならん」齢九十は超えているであろう、しかし
「御本尊様の力を持ってすれば、
そう強く言い切る老人に、周囲の男達は騒めく。「ヒカワにも解けなかった封印ですよ!」末席に座る男が堪えきれずに声を上げる。「彼は分家筋である上自己主張が強い。正統な継承者を
「ヒカワの継承者を本部が隠していた事が分かった。理事長は既に継承者を取り込む算段を付けていらっしゃる。これが最初で最後の機会だ、心してかかれ」
その言葉に頷いた男達は、それぞれの役職に充てられた仕事を果たすべくその場を後にした。残ったのは下座に座る一人の年若い男だけであった。その出自によりこの会合への参加を許された男は薄っすらと口元に笑みを浮かべていた。
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