その8

弘美が驚いて硬直し、康平が前のめりにコケたところに、屋上の柵を「よいしょっ」と越えてきた人影があった。

 色白の肌に艶やかな黒髪の、スーツを着た男だ。

「弘美も康平も下がりなさい」

静かに割って入る男に、弘美と康平は同時に叫んだ。

「父さん!?」

「親父!!」

そう、それは海外赴任中である但野家の父親だった。

「父さん、どうしてここに!?」

「そんなもの、アルベールに頼まれたからに決まっているじゃないか」

そう答えながら笑顔を崩さない父親が、弘美は逆に怖い。

 普段、こんな笑顔を振りまく人ではないのだ。

 ――ヤバい、父さんめちゃ怒ってる!

 よく見ると、目の下に隈がある。

 突然のトラブルで寝ないで日本に来たのかもしれない。

 見れば康平も尻尾を内向きに丸めている。

 父親は笑顔のまま、アドリーヌに近付いた。

『さあ、お迎えだよアドリーヌ』

父親に優しく話しかけられ、アドリーヌは恐怖から脱したようだ。

『パパに頼まれたの?』

愛らしく見える顔を作ってか弱さアピールを始めたアドリーヌだが、それに惑わされる父親ではない。

 アドリーヌの逃げ道を塞ぐように、手を振って指示を出された。

『もちろん。どうして家出なんかしたの?』

アドリーヌは但野家に囲まれ、優しい言葉遣いながら尋問が始まったことに気付かない。

 それどころか父親の問いかけになにを思ったか、途端に目を潤ませた。

『ベナール様が』

「ベナールがなによ?」

アドリーヌの呟きに、弘美は眉をひそめる。

 ベナールとはフランス在住の吸血鬼で、過去に弘美との結婚話が持ち上がったことのある相手だ。

 この説明だとロマンスの匂いが漂うが、現実は大きく違う。

 知り合いのパーティーに出席した際、弘美と最も年頃の近い吸血鬼の子供であるベナールと、将来結婚の話が出た。

 しかし正式な話ではない。

 「お似合いねぇ」と周囲が酒の席で盛り上がったというレベルの話だ。

 七年前、弘美十一歳の時だった。

 しかし周囲の大人の計算違いがあった。

 弘美の七つ年上のベナールは、熟女を好む男だったのだ。

 当時幼稚園児と間違えられることもあった弘美が、彼の眼中に入るはずもなく。

「五十年後に出直してきて」

弘美の顔を見るなり冷たい口調でそう告げられ、速攻で振られた。

 告白したわけでもないのに振られるなんて、ひどい被害だ。

 未だに人生でのムカつくエピソードぶっちぎりの一位である。

 そして問題はここからで、そのベナールに、同じくパーティーに出席していたアドリーヌが一目ぼれした。

『けっこんなら、わたしとしてください!』

出会った直後に勢い込んでプロポーズしたのだ。

「お前、まだあの男を追っかけてんのか。ていうかこの家出って、絶対アホな話な気がする」

康平が警戒態勢を崩して欠伸すると、その頭を父親がガシッと掴んだ。

「康平、そのアホな話のせいで父さんは、電話でアルベールに泣きつかれて、朝一番の飛行機で探しに来たんだ。とっくに寝ていた深夜に起こされ男の号泣を聞かされた、父さんの心中を推し量って欲しいよ」

そう言った父親は、笑顔で康平の尻尾をムギュッと握りしめた。

「うぎゃ! それだめ!」

康平が子犬みたいにヒャンヒャン鳴いた。

 但野親子がスキンシップをとっている中、アドリーヌは目に大粒の涙を浮かべた。

『……だって、パパからヒロミのお話を聞いたベナール様が、楽しそうなんだもの! 「干からびなくて済みそうだ」って!』

「それ、絶対楽しそうじゃなくて、嫌味そうの間違いだと思う」

父親の通訳越しに話を聞いて、弘美はツッコミを入れた。

『毎日お顔を見る私よりも、ヒロミの方が大切なんて……!』

「どこに大切要素があった? っていうか毎日顔を見に行くとか、プチストーカーか!」

「淫魔の一族は、情熱的な性格が多いからねぇ」

弘美の叫びに、父親は頭痛を堪えるような顔をした。

 弘美の血を飲めない体質は、吸血鬼社会でも大々的に噂されていたことだ。

 ベナールも熟女でないので恋愛感情はないものの、同胞としてそれなりに関心があったのだろう。

 だが、それだけだ。

 ――そんな理由で、家出して飛行機使って日本まで来たのか!

 ある意味行動的なアドリーヌだが、おかげで但野家は大きな迷惑を被った。

 但野家の呆れを察したアドリーヌは大泣きした。

『だって、だって、だって~~!!』

泣きじゃくるなんて可愛いものではなく、ギャン泣きだ。

「うるせぇガキだ」

康平がうんざり顔で呟いた。

 なにを隠そうこのアドリーヌ、見た目は康平よりも年上だが、淫魔の特性で身体の発育がいいだけで、まだ十二歳のお子様なのだ。

 ベナールに一目ぼれをした当時、五歳だった。

 ベナールも五歳児に手酷い態度を取りかねたらしい。

『将来立派なレディになったらね』

十八歳のベナールは、そんな決まり文句で五歳児を宥めた。

 アドリーヌはこれを何故か、弘美がプロポーズを妨害したのだと思い込んだらしい。

 ――私、なにも悪くないよね!?

 子供の思い込みは、時に理不尽であるものなのだ。

『ベナール様の一番になりたいんだもの!』

叫ぶアドリーヌに、父親は優しく語る。

『少なくとも、家出して周りに迷惑をかける娘を、ベナールくんも好きじゃないと思うよ?』

『そんな! 愛はなににも勝るとパパは言ったわ! 愛ゆえの行動は、全てが愛おしいんだって!』

アドリーヌの主張に、父親の優しい笑顔が引きつる。

「あのアホ……!」

愛を言い訳にすれば全てが許されるとか考えるのは、淫魔というよりもアルベール親子だけだろう。

 ――アルベールおじさんの教育方針、超迷惑!

『淫魔と吸血鬼は、価値観が違うんだよ』

弘美と同意見な父親は、そうバッサリと切り捨てた。

「そんなことで家出して、俺らを巻き込んだのかよ」

康平も呆れた調子で耳の後ろを掻いている。

「全く、飛行機だってどうやって乗ったのやら」

父親もため息を漏らす。

 子供のアドリーヌに飛行機の切符をとるのは難しい。

 淫魔の力でごまかしたに違いない。

 これは一族会議で怒られる案件だ。

『とにかくフランスの空港で、お母さんが首を長くして待っているよ』

父親の言葉を聞いて、アドリーヌがピキリと固まった。

『……ママが、帰っていたの?』

そう呟くと、顔色がとたんに悪くなる。

 なにを隠そう、この家族は母親が主導権を握っているのだ。

『仕事で家を空けていたらしいけど、君の家出を聞いて即帰ってきたよ』

父親が笑顔で告げると、アドリーヌは泣き喚いた。

『嫌ー! ママに知られないようにコッソリしてると思っていたのに!』

「堂々と飛行機に乗って、コッソリなの?」

アドリーヌの意見に弘美は呆れる。

 世の中未成年が行動すると、どうあっても親に連絡が行くようになっている。

 親に内緒で行動というのは、案外難しい。

 この安直具合が子供なのだ。

『ママに怒られるの嫌ー!』

アドリーヌは逃げようと全力で抵抗するが、但野家包囲網から逃れられず。

『私も忙しいんだから、さっさと帰ろうね』

父親がアドリーヌを乱暴に引きずっていく。

『私は絶対に……!』

「はいはい、行くよー」

やがて父親共々暗闇の中に消えて、叫び声も聞こえなくなった。

 残されたのは、但野姉弟だけである。

「康平、帰って夜食でも食べようか」

「……だな」

こうして人騒がせ淫魔の事件は、実に馬鹿馬鹿しい終わり方をしたのだった。

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