その7
弘美たちがアドリーヌを追いかけるために去って、しばらく経った居酒屋の裏路地にて。
「……もしもし、もしもーし」
身体を揺さぶられるのを感じた京谷は、薄っすらと目を開ける。
すると目の前に、見知らぬ男がいた。
「あ、気が付きましたね、よかった」
男は京谷が目を覚まして、ホッとしたような顔をする。
「こんなところで寝ているなんて、不用心ですよ」
苦笑交じりに注意する男の言葉に、京谷は外で寝ていたことに気付き、首を傾げる。
「寝ていた……そういえば、あの女はどうしたんだ?」
妙なことをまくし立てる女と話している途中で、記憶が切れていた。
それから自分はどうしたのだろうか?
考えてもわからない。
「おや、女性なんていませんよ?」
京谷の独り言に、男が言った。
「いや、アンタは見てないかもしれんが……」
反論しようとした京谷の言葉を、男が遮った。
「女性はいない、あなたはなにも見なかったし、聞かなかった」
そう告げて京谷の目を覗き込む男の瞳の奥が、赤く輝いた。
その瞬間、京谷の意識に靄がかかったようになる。
直前まで考えていたことが、どうでもよくなっていく。
「なにも、見なかった……」
京谷の口から、言葉が零れる。
男の言う通りで、京谷はなにも見ていない。
ここへは酔いつぶれた同僚を追ってきただけだ。
西洋人形のような娘のことも、但野についての話も、なにも知らない。
男は京谷の答えに満足そうに微笑んだ。
「そうですよ、お酒はほどほどにね」
肩をポンポンと叩くと、どこかへ去ってく。
京谷はぼうっとその背中を見つめるうちに、男の姿に既視感を感じた。
――誰かに、似ているか?
それが誰だが、思い出せないが。
京谷は男が去ってしばらくして、地面に転がって眠りこけている草野の存在を思い出した。
「おい草野、草野!」
京谷が乱暴に身体を揺すると、草野は唸りながら目を覚ました。
「……ぅん?」
「地面に転がってるとか、お前は酔っ払い過ぎだろう」
もぞもぞと起き上がる草野は、首を傾げながら周囲を見渡し、京谷を見た。
「なぁ、なんで俺ここにいるの?」
「は?」
不思議なことを言う草野に、京谷は眉をひそめる。
「飲み会で酔っ払って迷い込んだんだろうが」
「飲み会? なにそれ?」
草野と会話がかみ合わない。
よくよく話を聞けば、草野の記憶が数日前を境に曖昧になっていた。
「覚えてないのか? 俺はお前の様子がおかしいと、教授に相談されたんだが」
「なにそれ?」
疑問しか口にしない草野に、京谷も戸惑う。
――どういうことだ?
己の思考に沈もうとした京谷だったが。
「あ、徳海その腕どうしたんだよ!」
突如叫んだ草野が指さした方向に視線を向けると。
「うぁ! なんだこれは!?」
右腕が何故か血だらけだった。
血止めのつもりか乱暴にハンカチが当てられているものの、下手くそなせいで止血になっていない。
「なにしたらそんなに血が出るんだ?」
慌てる京谷に対して、草野が不思議そうにする。
「呑気なことを言ってないで、助けろ!」
京谷が怒鳴ると、草野が慌ててハンカチを締め直す。
――これ、見たことのある柄だな。
ふとハンカチを見てそう思うが、すぐに出血の方に意識が逸れる。
「病院に行くか?」
草野に聞かれた京谷は迷う。
身に覚えのない怪我を、他人に説明するのは難しい。
幸い血は止まりかけているのであるし、正直面倒臭い。
――帰って寝て、明日考えよう。
そう決めた京谷の次の難題は、どうやって帰るかだ。
血だらけで電車に乗っては警察を呼ばれそうなので、上着で右腕を隠してタクシーで帰ることにした。
「おい草野、タクシー代出せよな」
「なんでさ!?」
そもそもここに京谷がいる原因は草野だ。これくらいはして欲しいものである。
京谷たちが帰って行くのを見届けた男は、肩を竦めた。
「あの子たちは、やることが雑だなぁ。一体誰に似たんだか」
後始末がゆる過ぎるあれでは、怪異現象を全くごまかせていない。
「さて次は、家出淫魔を捕まえるか。あの子たちがやり過ぎないうちに」
そう呟いた男は、再び夜闇に消えた。
***
康平と弘美は、アドリーヌの気配を追っていた。
「臭いがする、あのあたりだな」
高いビルの屋上に着地した康平が、目の前のなにもない暗闇を見据える。
「やっておしまい、康平!」
康平の背中から降りた弘美は、ビシッと指さす。
「ウォウーン!!」
康平が高らかに遠吠えをした。
「なんだぁ?」
「こんな街中で、犬の遠吠えか?」
地上を行き交う人々が、結構な音量の遠吠えを聞いてなにごとかと空を見上げる。
『忌々しい狼!』
なにもない暗闇から声が漏れたかと思えば、屋上の隅の闇がゆらりと揺らぎ、アドリーヌが現れた。
「夜の闇の中で、狼男から逃げられると思うなよ!」
康平はアドリーヌに向かって吠えた。
「ずいぶん好きに引っ掻きまわしてくれたけど、覚悟はいいかアドリーヌ!」
弘美の瞳が闇夜に赤く光ると、アドリーヌが金縛りにあったかのように硬直した。
『出来損ないのくせに、暗示ですって!?』
驚きの表情のアドリーヌに、弘美と康平はゆっくり近づく。
「グルルルル……」
『ひっ!』
牙を見せて唸る康平に、アドリーヌが喉を鳴らす。
家を出る時は渋っていた康平だが、今ものすごく怒っている。
康平にとって徳海は、美味しいご飯を作ってくれるお兄さんだ。
――食べ物の恨みは怖いんだからね!
弘美は康平の後ろで握りこぶしを作ってファイティングポーズをとる。
やる気に満ちた但野姉弟を前に、アドリーヌが焦ったようにまくし立てる。
『ねえ来るのが早すぎない!? ちょっとヒロミ、あの男たちはどうしたのよ!? っていうかそんな本気で怒らないで、ちょっと悪戯しただけよ!』
アドリーヌがフランス語で早口に言っても、弘美には文句なのかはたまた命乞いなのか判断がつかない。
だがどちらにしろ、弘美にはアドリーヌを許すつもりはない。
「お仕置きぃ!」
「アオーン!」
弘美が手を振り、康平が跳びかかろうとした時。
「はいそこまで!」
どこからか突然、待ったがかかった。
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