その6

「あんの、お騒がせ家出娘が!」

怒り心頭の弘美は、その場で地団駄を踏みたくなった。

 吸血鬼や狼男などのモンスターと言われる者たちは、人間社会に紛れてひっそりと暮らしている。

 いくら様々な特殊能力を持っていても、人間に比べれば一族の数は少ない。圧倒的数の違いには勝てるはずがないのだ。

 アドリーヌには昔から、勘違いによる敵意を持たれていたのは知っていたが、やっていいことと悪いことがある。

「下手をすると一族会議ものよ、これは!」

「アルベールのおじさんも、どんな育て方をしたんだか」

怒る弘美と対照的に、康平は呆れていた。

 過去の魔女狩りのような悲惨な歴史を繰り返さないためにも、目立つ真似はご法度。

 都会のど真ん中で、淫魔のフェロモンをまき散らすなんて論外だ。

 怒りの雄たけびを上げたくなった弘美の前を、草野がフラフラと歩く。

「……行かなきゃ」

どこかへ行こうとする草野を、康平が素早く跳びかかって地面に引き倒す。

「完全に淫魔の暗示にかかってる」

康平がフンフンと臭いを嗅いで確かめる。

「徳海さんはアイツのフェロモンの匂いが薄かった。とっさに息を止めたかして、あんまり吸い込んでないみたいだな」

「エライ! さすが徳海さん!」

弘美は康平の言葉を我がことのように喜んだことにより、怒りが少々紛れた。

「アドリーヌは追いかけてとっ捕まえるとして、この二人をどうしようか?」

「なんとかしなきゃだろう、このままだと病気を疑われるぞ」

落ち着いた弘美に、康平が告げる。

 草野が異常行動を繰り返せば、心の病だと思われそうだ。

「うーん……」

康平に抑え込まれた状態でもぞもぞする草野を見て、弘美は唸る。

 草野はアドリーヌに魅了の暗示をかけられている状態にある。

 アドリーヌに本当に恋愛感情を抱いているのではなく、「好きだ」と思い込まされているのだ。

 暗示というものは、それをかけた本人が解くのが手っ取り早い解決法なのだが。

 ――アドリーヌは、暗示を解くつもりがないよね。

 よって、違う解決法を考える必要がある。

 よく使われる方法は、第三者がより強力な暗示をかけて、元の暗示を打ち消すのだ。

「暗示が得意なのは、淫魔よりもむしろ吸血鬼だろうが」

康平が尻尾をフリフリしながら簡単そうに言う。

 なにしろ吸血鬼は相手に噛みつき、痛い思いをさせて血を分けてもらうのだ。

 その痛みを感じさせないように、暗示をかける能力が備わっている。

 だが弘美は嫌な顔をした。

「出来ないことを言わないでよね」

弘美は今まで暗示に成功したことがない。

 吸血鬼の力は、人間の血を飲むことによって強くなる。

 この血が飲めない弘美に、暗示ができるはずがないのだ。

 己の駄目っぷりを再確認する弘美に、康平は首を傾げる。

「アネキが飲める血ならあるじゃんか」

テシテシ、と康平は前足で徳海を突く。

 その意味を考えて、弘美はくわっと目を見開く。

「康平、徳海さんに断りなく飲めっていうの!?」

「そうそう、一瞬だけ暗示が効けばいいんだから、ちょっと味見程度でいけるんじゃないか?」

形相を変えて詰め寄る弘美に対して、康平は軽い調子だ。

「ちょっと味見……」

それは以前、徳海に察知されて失敗したことだ。

 弘美は一度失敗すると、とたんに臆病になった。

 徳海には自宅に泊まってもらったこともあるのに、未だに血を舐めることすら出来ずにいる。

 徳海の察知能力が高いというのもあるだろうが、弘美に寝込みを襲う勇気がないことも原因だ。

「そんな、いや、やっぱりこういうのは手順を踏んでだな、いきなりなんてはしたないというか……」

「アネキ、別に夜這いをしろって言ってんじゃないんだし」

モジモジと言い訳を垂れ流す弘美を、康平がジト目で見る。

「ほれ、今なら徳海さんに意識がないし、さぁガブッと一口!」

「いや」とか「だって」とか言い募る弘美だったが、康平が繰り返しけしかけると、だんだんその気になってくる。

「ごくっ」

弘美は喉を鳴らし、恐る恐る徳海の右腕をとる。

 一応心臓側の左腕を避けたのだ。

「あ、ヤバい血管は避けろよ?」

そんなことを言われても、直に血を吸うのは二度目な弘美に、どこがヤバいのかわかるはずもない。

 ――ええい、女は度胸!

「いただきます!」

ガブリ、と徳海の腕に短い牙を突き立てた。

 いつぶりになるのかわからない、水で薄めていないフレッシュな血が弘美の喉を通る。

「~~!!」

その美味しさのあまり、声に出ない叫びを上げた。

 例えるなら、すごく濃厚な新鮮野菜ジュースを飲んでいるようでもあり、度数の高いアルコールを飲んだ気分でもある。

 弘美は飲んだことがないが、美味しいワインというものは、これに近い味わいなのかもしれない。

 血を一口飲み込んだだけで、身体中が熱くなるのがわかる。

「お、本当に飲めた!」

けしかけておきながら、半信半疑だったらしい康平が、弘美の飲みっぷりに驚く。

 しかし弘美の飲み方が下手くそらしく、噛みつかれた徳海の腕がひどいことになっている。

 血がダラダラと垂れ、どこの野犬に噛まれたのかという具合だ。

「アネキ、そのままだと事件だと思われるぞ」

「うひゃ、ごめんね徳海さん!」

康平に指摘され、弘美は慌ててポケットからヨレヨレのハンカチを取り出し、血止めをする。

 ハンカチを持ち歩く女でよかった。

 それにしても、血を飲んだ後の世界が、今までと違って見える。

「ひゃっほう! 新たな世界よこんにちわ! 気持ちいい~~♪」

「アネキ、先にこの人の暗示!」

ハイになって踊り出す弘美に、康平が言う。

「今なら、なんだってできちゃうよ!」

弘美は康平に重し代わりに乗っかられている草野の顔を、両手でガシッと掴むと、目をのぞき込む。

「草野さんは、アドリーヌなんか好きじゃない!」

宣言した弘美の瞳が赤く光った。

 この赤い光を見た草野のトロンとしていた目の焦点が、次第にハッキリとしてくる。

「……あ?」

やがて草野がしっかりとした声を発した。

 だがその首元を康平の前足が強打すると、草野はあっさりと気を失った。

「これでよし!」

弘美は初めて成功した暗示に満足する。

 残るは徳海だが、確か淫魔のフェロモンは、繰り返し吸い込むことで暗示の効果を強力にするはず。

 一回吸っただけだと軽く相手の目を惹くだけで、虜にしたとは言い難いのだ。

「これだったら、放っておいても目が覚めたら元通りか」

「本人は自信満々だったのになぁ」

弘美の判断に、康平が目をパチパチさせて言った。

「淫魔のくせに、その辺の知識が抜けてる娘だし」

やっていることがちぐはぐなアドリーヌに、弘美もため息しか出ない。

「なんにせよ、悪い子にはお仕置きよ! 康平ゴー!」

「へいへい」

こうして、アドリーヌの追跡が始まった。

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