その5

弘美は日暮れを待った後、狼の姿の康平の背中に跨り、街を駆けている。

 二人は一旦大学に向かい、そこから淫魔の香りを纏う草野の臭いを追っていた。

 康平は他人に見つからないように、明るい場所を避けながら、ビルの屋上から屋上へと移動する。

 地上はだんだんと灯りにあふれた場所となっていく。

 ――家に帰るんじゃないんだ?

 草野は住宅街ではなく、繁華街に向かっているらしい。

「あ、草野さん発見、徳海さんもいる!」

やがて草野を見つけた弘美たちは、とあるビルの屋上で足を止めた。

「なんか、飲み屋に行くけど」

康平が屋上の柵に前足をかけ、地上を見下ろす。

「そう言えば徳海さんが、今日は飲み会だって言ってたかも」

弘美は家から持ってきた双眼鏡を覗いて、草野の姿を追いつつ、今日の徳海との会話を思い出す。

 これは待ち時間が長くなるかと、弘美たちはコンビニで晩御飯を購入し、再び屋上で張り込むこと数十分。

「あれ? もう出て来た」

少なくとも二時間は待つ覚悟だった二人の視線の先に、居酒屋から出て来た草野の姿があった。

 フラフラと歩く草野に続いて、徳海も店から出て来た。

「康平、もっと近くに寄るよ」

「よしきた」

相手に気付かれないように、弘美たちがこそこそと後をつけていると、草野と徳海は裏路地に入っていく。

 ――なにするんだろう、暗い場所で内緒話とか?

 疑問に思った直後、弘美の鼻が微かな花の香りを捉えた。

 姉弟の嗅覚だからこそ気付く、微かな香りだ。

 ――淫魔のフェロモン!?

「アネキ、いたぞ!」

康平に小声で鋭く指摘され、目を凝らして見ると、暗闇の中に女が一人で立っていた。

 西洋人形のように美しい容姿に、蠱惑的な微笑み。

 男ならず女も魅力に思える彼女は、手紙にあった淫魔の娘、アドリーヌだ。

「おおぅ、やっぱり日本にいたよ!」

予想が当たっていたころに少々驚く弘美をよそに、徳海がアドリーヌに話かけたのが聞こえた。

 生まれた時からフランス暮らしのアドリーヌは、フランス語しか話せない。

 よってフランス語が話せない弘美には、徳海がなにを言っているのかさっぱりわからない。

 ――徳海さんって、フランス語が話せるんだ。

 だがなにが気に入らないのか、アドリーヌは徳海に対してヒステリックに叫んだ。

 すると、ぶわりと花の香りが濃くなる。

「あ!」

弘美がコソコソするのも忘れて声を上げた直後、徳海がずるりと地面に崩れ落ちる。

「徳海さん!!」

弘美は飛び出した。

「ねえ、大丈夫? ねえ!?」

「……うぅ」

弘美が徳海の身体を揺すると、微かにうめき声を上げた。

 淫魔の濃いフェロモンを急激に取り込んだことにより、意識を失ったのだろう。

「淫魔のフェロモンに耐性のない人間に、なんてことをするんだ」

ついてきた康平が前足で徳海を突きながら、鼻先に皺を寄せて嫌悪を見せた。

『来たわね、ヒロミ』

抱きしめている草野を放したアドリーヌは、これ見よがしに長い髪をかき揚げて弘美に向き直る。

『あなたが遅かったから、もう終わっちゃったわ』

そう言ったアドリーヌがふふん、と得意げな顔をする。

『いい気になっていられるのもこれまでよ。その思いあがりを恥じるといいわ』

弘美にはフランス語がわからないが、嫌味を言ってそうだということは理解できる。

 ――コイツ、ムカつく!

「なにがしたいのかわからないけどね、私の生活の邪魔をするのは止めてよね!」

弘美は強い口調でアドリーヌを批難する。

 弘美とアドリーヌが対峙している一方。

 相手にされていない康平が、倒れている徳海の襟を咥えてズリズリと引きずり、端の方へ移動させる。

 まずは徳海の安全は確保だ。

 批難されたアドリーヌは笑みを浮かべた。

『偉そうに吠えるのは、狼譲りかしら。いつも上品な彼とは大違い、釣り合わないのは明らかね』

「日本に来たなら、日本語喋れ!」

お互いに、意味の通じない文句を言い合う。

 ――なに言ってるかわかんないから、ストレスが溜まる!

 不毛な言い合いだと悟った弘美は、アドリーヌに寄り添う草野を指した。

「なんで草野さんを狙ったの!?」

ぼうっとした目つきで、弘美たちの言い合いにもなんの反応を示さない。

 淫魔のフェロモンに囚われている症状だ。

「草野さんは、アンタのお人形遊びに使っていい人じゃないの! 今すぐ解放しなさい!」

言っている意味は通じないだろうが、弘美は厳しい声音で叱りつけるように言う。

 すると余裕の表情だったアドリーヌが、とたんにムッとした顔をした。

『あなたまでクサノとか言うの!? ああもうわけわかんない! 一体誰がトクウミキョウヤなのよ!?』

逆ギレのように叫ぶアドリーヌに、弘美も康平も目を丸くする。

「草野さんと徳海さんが、なんだって?」

「なにを言ってるかわからんが、絶対にアホなことな気がする」

弘美は眉をひそめ、康平がボソリと呟いた。

 但野姉弟の呆れに勘付いたアドリーヌが、ギッと二人を睨んだ。

『どっちにしても、この二人はもう私の虜なんだから! どっちがトクウミキョウヤでも、あなたが困ることに違いないし、これでいいのよ!』

アドリーヌが腕を振るうと、周囲の闇が濃くなった。

 その闇に溶けるように、アドリーヌの姿が薄らいでいく。

「あ、こら! 逃げるな!」

弘美が怒鳴る。

 康平は徳海の安全確保を優先させたのか、アドリーヌに跳びかからない。

 追う気配のない姉弟に、アドリーヌは小馬鹿にした笑みを浮かべる。

『どうせ吸血鬼のなりそこないのアンタには、私のフェロモンは解けないんだから! 私に頭を下げて頼んでくれば、助けてやらなくもないわ!』

言うだけ言ったアドリーヌは、姿を消した。

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