その4

京谷は研究発表を無事に終えた打ち上げのため、居酒屋へ来ていた。

 店に通された座敷の隅に座り、静かに酒を傾けながら、視線をある一点に固定している。

 視線の先にいるのは草野だ。

 その草野も誰と会話するでもなく、静かに酒を飲んでいた。

 ――おかしいと言えば、おかしいか?

 いつもならば率先して会話をかき回す男が静かなので、周囲の盛り上がりも微妙なものになっている。

 京谷は普段、飲み会などには参加しない。

 だが今回は教授に「草野の様子が変なので、それとなく探ってくれ」と頼まれたのだ。

 最近の草野はボーっとして研究に実が入らないどころか、無断欠勤が続いているのだという。

 自分の研究に忙しかった京谷は、草野の変化など全く気付かなかった。

 というより、草野の顔を見ていないことに気付かなかった。

 研究に集中すればよくあることなので、気にしなかったというのが正しい。

 「疲れているだけではないか?」と言った京谷に、教授そうは思えないと返した。

 お喋り男の草野のことだ、様子がおかしい理由なんて、研究棟の誰かしらが事情を知っていそうなもの。

 しかし最近の草野は気味が悪いとかで、他の研究員から忌避されているのだそうだ。

 ――あんなのでも、研究には真面目な奴なんだが。

 周囲が疑問に思うのも無理はないと、京谷も感じ始めたた時に、但野に乱入された。

 会話はそこでうやむやになり、京谷が教授の頼みを請け負う形になったのだ。

 つまりは自分がこの飲み会にいるのは但野のせいとも言えた。

 間がいいのか悪いのか、わからない女である。

 そんなわけで現在、京谷が静かに観察していると、草野はふいに立ち上がった。

 荷物を持って座敷を出て行こうとする。

 ――帰るのか?

 会費は最初に回収済みなので問題ないのだが、いつもならば最後まで飲む男なのに。

「すまんが、俺も帰る」

隣に座っている人物に断り、京谷は草野を追いかける。

「おい、草野!」

店の外で追いついた京谷は、草野の背中に声をかけた。

「……。」

だが相手は無言で京谷を振り返るだけで、立ち止まろうとしない。

 ――確かに、これは変だな。

 単に疲れているだけだろうという考えが、京谷の中から消える。

「草野、まだ時間も早いから飲み直そう。悩み事があるなら聞くぞ?」

京谷がそう話しかけても草野は無視し、人のいない居酒屋の裏路地にフラフラと入っていく。

「おい、そっちは駅とは逆方向だぞ」

草野はひどく酔うほど酒を飲んでいるようには見えなかった。

 フラフラした足取りといい、もしかして病気かなにかだろうか、と京谷が考えていると。

『いらっしゃい』

暗い路地の奥から、女の声がした。

「誰だ!?」

誰もいないと思っていた所から話しかけられ、京谷は驚く。

『ふふ……』

影になっているあたりから姿を現したのは、西洋人形じみた見た目の美しい女だった。

ふんわりとしたデザインの白いワンピースを着ており、その白い肌と相まって、夜の闇に浮き上がって見える。

 ごみ箱が並んでいるような店の裏口に面する居酒屋の裏路地は、人通りがあるような場所ではない。

 そんな場所に佇む女は、はっきり言ってミスマッチにもほどがある。

 フラフラと進んだ草野が、女に寄りそうように立つ。

『いい子ね』

蠱惑的な笑みを浮かべる女は、草野を抱きしめると頬をするりと撫でる。

 言葉は日本語ではなく、フランス語だ。

「おい、そいつは誰だ?」

京谷は草野に尋ねる。

 少なくとも、京谷が知る草野の関係者に、こんな女はいない。

 またもや草野に無視されるものの、女がこれに反応した。

『余計なオマケを連れて来たわね』

そう言うと、女は京谷に冷たい視線を向けた。

『誰だ、アンタ?』

京谷はフランス語で問いかける。

 学会で海外に行くこともあるので、日常会話程度の語学力はあるのだ。

 しかし女は京谷の問いに答えず、逆に問いかけて来た。

『あなたはこの、トクウミキョウヤの知り合い? だったらヒロミの関係者?』

「……は?」

京谷は驚きで言葉が出ない。

 女の口から出た、最近身近でよく聞く「ヒロミ」という名前は引っかかるが、それ以前に気になることがある。

 ――誰が徳海京谷だって?

 京谷の沈黙をどう捉えたのか、女はこちらに歩み寄る。

『どうやら当たりのようね。だったら忠告してあげる。ヒロミはとても嫌な女なんだから、離れた方が身のためよ』

『嫌な女……?』

この表現が、どうにも京谷の知る「ヒロミ」に当てはまらない。

 変な女という表現であれば、賛同できるのだが。

 ――但野のことじゃないのか?

 脳内に疑問符の渦巻く京谷に、女は声高に叫ぶ。

『私から彼を奪うばかりか、人間相手に浮気ですって!? ああ嫌だ、そんなこと許せるはずがないわ!』

「奪う」やら「浮気」やら、更に但野からかけ離れらワードが並ぶ。

 これは同名の別人かと思っていると。

『ご執心のトクウミキョウヤを奪ってやれば、ヒロミだって己の愚かさに気付くはずよ!』

女はそう言って、草野をぎゅっと抱きしめた。

 ――なんだ、この状況は……。

 女は自分に酔っているのか、一人でペラペラ喋るのはいいが、一つだけ訂正してやりたい。

『おい、そいつは徳海京谷じゃないぞ』

突然そんなことを言われた女は、ぴたりとお喋りを止めた。

『なんですって?』

『だから、そいつの名前は草野。徳海は俺だ』

数秒、女は沈黙する。

『嘘よ! あの美意識の高い一族が、こんなモサい男を相手にするわけない!』

女が信じられないと言った表情で叫ぶ。

 「ヒロミ」という名前が、但野のことを言っていると仮定する。

 但野の弟は確かに美形だし、両親も美形だといつか聞いたことがある。

 美形慣れしているといえばそうだろう。

 それを美意識と言っているとも考えられる。

 要は徳海が美形じゃないと言いたいらしい。

 ――好きでモサくしてるんだよ。

 徳海は過去のトラウマもあり、女の物言いに少々カチンときた。

『人違いをしているのは確かだし、俺はお前なんか知らん。面倒ごとは御免なんで、とっととそいつを置いて帰れ』

京谷は乱暴な物言いと仕草で、女を追い払おうとする。

 すると、女が全身を震わせた。

『もう、意味わかんないから、両方で!』

そう告げた途端に、周囲にブワッと濃い花の香りがたちこめた。

 ――なんだ?

 その香りを吸い込むと、急速に京谷の意識が朦朧となる。

「な、にを……」

『うふふ。おやすみなさい、良い夢を』

京谷は抵抗もむなしく、意識を失う。

「徳海さん!」

消えゆく意識の片隅で、聞き慣れた但野の声が聞こえた気がした。

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