その2
「うぉ?」
てっきり徳海一人だと思っていた弘美は、第三者の出現に驚く、というよりも焦った。
「……お前は」
徳海が弘美の言動に呆れた声を上げた。
誰かいると知っていたら、素直に静かに入室したのに。
「元気がいいねぇ」
そんなことを言ったのは五十代くらいの男で、研究棟の関係者だろう白衣を着ている人物だった。
「えと、お邪魔します!」
挨拶をやり直す弘美に、男は微笑む。
「はいどうぞ。私はもう出るところだから、気にしないで」
言葉の通りソファから立ち上がった男は、徳海を見る。
「それでは、よろしくね」
「はぁ、今度の飲み会で聞いてみますけど」
徳海とそんなやり取りをした後、男は部屋から出て行った。
廊下を歩く足音が聞こえなくなって、弘美はようやく徳海に尋ねる。
「誰、あの人?」
「教授、俺の上司だ。今日の夜の飲み会の話だ」
徳海が語る内容が本当かどうかはわからないが、仕事について詳しく語らないのはいつものことだ。
守秘義務とかあるだろうし、それ以前に語られても弘美にどれだけ理解できるのかも、謎だというのもある。
それよりも、もっと大事な話がある。
「徳海さんのお粥のおかげで、夏風邪治りました!」
そう告げた弘美は徳海を拝む。
なにせ、味の薄いレトルト粥に飽きていた時に現れた救世主なのだ。
「そうか、よかったな」
弘美の闘病生活を目の当たりにした徳海は、深くため息をついた。
「お前ら姉弟、毎日あんな食事でよく生きてるな」
健康オタクで料理ができる男からすると、但野家の台所事情は理解できないらしい。
「姉弟二人とも料理に向いていない性格なんです。週に一度、両親に雇われたハウスキーパーさんが来ますけど」
その際に作り置きされた料理があるうちは、それなりにマシな食事ができるのだが、作り置きが無くなった後のメニューが悲惨なことになる。
弘美の説明に、徳海から呆れを通り越して達観の目を向けられた。
「そんなことはともかくとして。本日の差し入れです!」
保冷バッグを掲げてみせた弘美に対して、徳海は黙ってコーヒーメーカーをセットする。
「お前が来ないとな、草野やら綾川から『あの子はどうした』と聞かれるんだ。うるさいったらない」
うんざりした口調で徳海が述べた。
どうやらそんな理由で、弘美のお見舞いに来たようだ。
草野や綾川を「よくやった」と褒め称えたい。
その後弘美は、病み上がりだという理由で徳海に追い返され、真っすぐ帰宅した。
「たっだいまー!」
帰宅の挨拶と共に、玄関に敷いてある黒い毛皮を踏みつける
「うげっ!」
すると足元から悲鳴が聞こえた。
言わずもがな、弟の康平である。
「踏むなんてひでぇ!」
「うるさい、暑苦しくて玄関マット代わりにもならんわ!」
弘美は康平の文句に言い返す。
この一連の流れは、但野家で夏の帰宅儀式になりつつある。
「ピチピチの高校一年生なんだから、昼間っからゴロゴロしてないで、どっか出かけなさいよ」
弘美は正論を述べる。
夏休みは、高校生が一年で最も生き生きする期間ではなかろうか。
だというのに康平は、昼間は一日中玄関でゴロゴロし、たまに学校の図書館に出かけるだけという引きこもりっぷり。
高校生ならばバイトとか旅行とか、時間を有効に使うべきだろう。
しかし康平は、狼の顔で不満を訴える。
「嫌だよ、昼間は地面が熱くて肉球が焼けるじゃんか」
返って来た獣目線の答えに、弘美のこめかみが引きつる。
「誰が公園へ散歩に行けと言った! 人型で、ゲーセンとかに、高校生は集うものだろうが!」
「ゲームなら家でできるし」
そう思いの丈を叫んでみても、康平はそんなことをほざいて欠伸をするばかり。
――ダメだこいつ。
ダメな弟を放っておいて、弘美はリビングに向かう。
夏は温かい空気が上に上がる法則のため、二階にある自分の部屋より、一階のリビングの方が涼しいのだ。
エアコンの目の前に陣取り、冷えたお茶を飲む。
「あ、そう言えば」
弘美は出かける際に鞄に入れた、父の友人からの手紙の存在を思い出した。
――あの淫魔のおじさんが、私になんの用だか。
疑問に思いながら、封筒をいささか乱暴に開けて手紙を広げる。
フランス在住淫魔からの手紙は、当然フランス語だ。
「なにそれ?」
お茶を飲みに玄関から移動してきた康平が、弘美の手元をのぞき込む。
「アルベールのおじさんからの手紙」
康平に答えつつ、翻訳機能発動中のスマホ片手に、手紙の読解を試みる。
≪突然の手紙に、驚いたことだろう≫
そんな詫びと挨拶から始まって、定型文的な季節の挨拶やらが、一枚目を占めていた。
「長いわ!」とキレそうになったところで進んだ二枚目に、本題が書いてあった。
≪娘のアドリーヌがいなくなったのだが、所在を知らないだろうか?≫
「家出か!?」
弘美が知るわけがないし、娘の家出の問い合わせなら、手紙の冒頭に書いて置け。
というか、手紙で問い合わせるな。
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