その11

藤沢の暴挙から一週間が経った。

「藤沢さん、会社を辞めたそうですよ。田舎に帰ってお見合いをするとか」

京谷が綾川と草野に休憩スペースで出くわしたら、草野にそんな話をされた。

 草野はあの時観察中で目を離せなかったらしく、「大事件を見逃した!」と後で悔しがっていた。

 見れなくて結構だ、見世物じゃない。

 そしてどうやら藤沢の会社から代わりのエージェントがやってきて、京谷が助手を務める教授に謝罪をしたらしい。

 京谷はもう関わり合いになりたくないと主張したので、教授の方に行ったのだろう。

 藤沢がこの研究棟で声をかけていた研究員も、その代わりの者が面倒を見るらしい。

「それなら一件落着だな」

これでようやく研究に集中できるというものだ。

 ホッと胸を撫でおろす京谷に、綾川が苦笑した。

「あなたの学生の頃、理系男子が流行って注目されたものね。マスコミの取材まで押し寄せて。天才と言われているイケメンなんて、恰好の的だったんでしょうけど」

「……蒸し返すな、忌々しい」

京谷が嫌な顔をしてみせると、綾川も肩を竦めた。

 あれは京谷のトラウマだ。研究ができればそれでよかったのに、見知らぬ女がやってきては声をかけてきて、写真を撮られる。

 追いかけられたりもしたおかげで、警察沙汰にもなったことがある。

 あれ以来少々女性不信であるのは否めない。

 あれから顔をじろじろ見られたくなくて、前髪を伸ばしたのだ。

「あの藤沢も、学会での俺の姿を見てすり寄ってきた女だ。顔で寄ってきた奴は信用しないことにしている」

学会での論文発表の場では、身なりを整えなさいと教授に言われる。

 あの場ではミーハーはいないので京谷も安心していたというのに、妙な女が引っかかったというわけだ。

 京谷が過去を振り返って遠い目をしていると、草野がニヤリと笑った。

「じゃあ、弘美ちゃんは?」

この草野の質問に、京谷はなんと言うべきか悩んだ。

 一度告白紛いのことをされたが、自分たちの関係はそんなものではない。

「……珍獣を餌付けしてしまった、責任は感じる」

京谷の答えに、二人が声を上げて楽しそうに笑った。


***


「こんにちわー」

弘美は今日も徳海に会いに研究棟へやってきた。

 藤沢の件以来、弘美の存在が認知されたようで、いろいろな人から声をかけられるようになった。

 今日は部屋へ行くまでもなく、休憩スペースに徳海がいた。

 草野と綾川も一緒だ。

 ――やっぱりもさい方が、徳海さんだよね。

 もさもさ頭の徳海を見て、弘美はいつかのイケメン徳海はなにかの間違いだったのだと思い始めていた。

「差し入れですよ」

保冷バッグを掲げる弘美に、草野が恨めしそうに視線を向けた。

「ねえ弘美ちゃん、そろそろ僕のはないの?」

「ないです!」

弘美はきっぱりと断言した。

 この差し入れは下心の賜物なのだ。

 下心を抱く余地のない草野には、よって差し入れる理由がない。

 草野の血が飲めないことは、すでにリサーチ済みである。

 恨むなら己の不健康な血を恨め。

 弘美は未だ徳海に血を飲ませてもらうに至ってはいない。

 けれど血はもう目の前にあるのだ。

 焦らず確実に行こう、急がば周れだ。

 保冷バッグを巡って争う弘美と草野のやり取りを見て、綾川が笑った。

「野暮よ草野くん、それは二人の愛の証なんだから」

徳海が変な顔をしたが無視して、弘美は輝かんばかりの笑顔を浮かべた。

「はい! 愛情たっぷりです!」

「あほう、コンビニのデザートで威張るな」

調子に乗ったら徳海に小突かれた。

 今日の研究棟も、平和だ。

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