その8

 入り口付近に男子学生がいて、おろおろとしている姿が目に入った。

「どうした」

「あ、徳海さん!」

彼は京谷が現れてホッとして様子をみせた。

「あの、徳海さんのところに来る娘が、あの人にお酒かけられて……」

「は?」

説明されても謎な状況に、京谷の寝起きの頭がついていけない。

 藤沢を探していたら、今度は但野が現れた。

 とりあえず酒をかけられたという但野の様子を見に外に出る。

 外では藤沢が何かの瓶を手に持って、但野を睨んでいた。

 二人はお互いに夢中で京谷の姿が見えていないようだ。

 とりあえず藤沢にあの瓶を下ろさせないと危険だ。

「おい」

京谷が声を掛けようとした時、但野が叫んだ。

「……私は徳海さんがいてくれなきゃ、人生とっても困るんです!!」

但野のこの告白ともとれる発言に、徳海は固まった。

 ――なにを言ってるんだ、あいつは!

 確かに但野には目的があるようなことを聞いたりしたが、正直聞き流していた。

 年頃の女にとって、自分が面白みのない男であることくらい、京谷自身がよく知っていた。

 暇つぶしに飽きれば、そのうち来なくなると思っていた。

 微動だにできないでいる京谷は、後ろから肩を叩かれた。

「人生困るんですってよ? 愛しているよりも強烈じゃないの」

いつの間にか京谷の後ろに綾川がいた。

「面白がらないでくれ」

馬鹿なことを言ってからかう綾川に、京谷はため息をついた。

 この自分が、まるで痴情のもつれのようなことになっているなんて。

 考えたくもない。

 ここでようやく、但野と藤沢は京谷の存在に気付いたようだ。

 藤沢はさっと顔色を青くした。

「京谷さん、あの……」

「なにがあったか知らんが藤沢、お前の行為はうちの学生に対する傷害だ。警察沙汰になりたくなければ、二度と来るな」

言い訳を始めようとした藤沢に、京谷はなにも言わせずに告げた。

「私は、京谷さんのために!」

藤沢が泣きそうな顔をするが、京谷としては罪悪感も抱けない。

 それどころか身勝手な言い分にイラッとする。

「俺があんたになにか頼み事をしたか? 勝手をして責任を擦り付けられても困る」

京谷の言葉に、藤沢は力を失くしたように瓶を手放した。

 瓶が音を立てて転がる。

 今までは研究の邪魔をしなかったから、避けるだけで済ませていたのだ。

 ここのところ藤沢が原因で研究が滞ることが多い。

「もう一度言うぞ、ここに二度と来るな」

京谷が繰り返すと、藤沢はフラフラとした足取りで駐車場まで歩いて行った。


 藤沢が見えなくなって、ずぶ濡れの但野が残された。

「但野、平気か?」

京谷が声をかけると、但野はしかめっ面をした。

「……お酒臭い」

それはそうだろう。

 見れば頭からぐっしょりと被っている。

 転がる瓶を見ると、これはシャンパンだろうか。

 何故藤沢がシャンパンなんかをもっていたのか謎だ。

「弘美ちゃんいらっしゃい。着替えを貸してあげるわ」

ひどい恰好の但野を綾川が手招きした。

 確かにこのままでいさせるわけにはいかない。

 騒ぎを聞きつけたのだろう、研究棟の入り口には人だかりができていた。

「ほら、散った散った!」

その人たかりを解散させながら、綾川が中に入っていく。

 ごみを転がしたままにするわけにはいかず、京谷はシャンパンの瓶を回収して行った。

 部屋に戻ってコーヒーを入れていると、但野が入ってきた。

「……ひどい目にあった」

但野がそう言ってソファの上の本をよけて、どっさりと座る。

 綾川にTシャツを借りて着替えた但野だったが、平均女性の身長である綾川のものは、中学生体型の但野にとっては大きかった。

 襟元がブカブカである。

 髪も洗ったようで、まだしっとりと濡れていた。

 失礼だが、夜にこの姿を見たら幽霊だと思うだろう。

「お前、風邪ひくなよ」

うなだれる但野に、京谷は思わず心配の声をかける。

 たまたま藤沢と遭遇しただけの但野にとっては、通り魔に会ったようなものだ。不幸としか言いようがない。

「帰りは送ってやる」

但野は電車通学だ。

 このまま電車に乗せて妙なことになっては、京谷としても責任を感じるところだ。

「お仕事は?」

上目遣いに見つめてくる但野に、コーヒーカップを渡した。

「さすがに集中できる心境じゃない」

研究棟では今日からしばらく、この話題でもちきりに違いない。

 集中力を欠いて研究をしても、ろくな結果にならない。

「これだけ食ったら、さっさと帰るぞ」

着替えの際に預かっていた保冷バッグをテーブルに乗せると、但野がパッと表情を明るくした。

「そうだ、忘れるとこだったよ!」

そう言って但野が保冷バッグから出したのは、ケーキ屋の箱だった。

「今日はケーキを買ってきたのか」

とうとうコンビニデザートに飽きたのかと思ったら、但野から意外な言葉が返ってきた。

「そうだよ、だって徳海さんの誕生日じゃん!」

「……誕生日?」

京谷はあっけにとられ、今日の日付を思い出した。

 そういえば確かに、今日は自分の誕生日だ。

 京谷自身があまりそういった記念日に無頓着な性質なので、すっかり忘れていた。

 同時に京谷はいろいろと合点がいった。

 藤沢が用意していたシャンパンやグラス、そして小さな包み。あれは誕生日の演出だったのか。

 藤沢が置いて行った小さな包みは、今デスクの上にある。

「プレゼントとかはないけどさ。せっかくだから誕生日ケーキとはいかなくても、お祝いの雰囲気だけでもと思って。草野さんがケーキ屋さんを教えてくれたんだから」

リサーチは完璧だと胸を張る但野。

「さあ、どっちを食べる? 先に選んでいいよ、なんてったって誕生日だからね!」

但野が二種類の小さなケーキを並べて、ワクワクした顔をする。

 正直、藤沢が用意したシャンパンやプレゼントの方が、ずっと高価なものなのだろう。

 だが但野が買ってきた安価なケーキの方が、京谷は嬉しいと感じていた。

「そうか。ありがとうな但野」

感謝を口にしたら、但野は目を丸くした。

「徳海さんがお礼を言った!?」

失礼な驚き方をする但野を、思いっきり小突いてやった。

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